第1話

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 エルゼリンデは馬を引いていた足を止めた。
「……うわあ」
 途方もなく巨大な城門を前に、ぽかんと開いた口からはただ嘆声が漏れるばかり。
 王都ユーズに住んでいるにもかかわらず、王宮にこれほど接近するのすら生まれて初めてだった。とにかく広い、大きい。城門の先の先、遥か遠くにまで宮殿らしき建物や、蒼天に向かって伸びる数多の塔が見晴るかせる。
 ここまで広大だと、目的の場所に到着するまでどれほど時間がかかるのか、見当もつかない。朝早くに出て正解だった。
 城門の付近には、数十人の衛兵のほか、官吏の姿もある。そちらに近づいていくと数十人分の視線が一斉に注がれて、不慣れな彼女は目に見えてたじろいだ。
「名前は?」
 その甲冑姿を一瞥して、官吏が問う。エルゼリンデは緊張に体を強ばらせつつ、懐から家紋の刻まれた紋章と徴兵通知を取り出した。
「ミルファーク・ヴァン・イゼリアと申します。マヌエス・ヴァン・イゼリア子爵の嫡男です」
 噛み締めるように名を告げる。
 不自然でなく、自分の名前らしく言えただろうか。
 官吏は表情を動かすことなく受け取った羊皮紙を広げたので、エルゼリンデはこっそりと安堵のため息を零した。
 官吏が顔を上げ、通知と紋章を差し戻す。
「それでは、東の双塔に向かってください。場所はここの通りを左に曲がって、それから北東の方角に進めばそのうち着くでしょう」
 えっ? エルゼリンデはわが耳を疑った。とても大雑把な説明をされた気がする。
「まだ何か?」
 そのままぼさっとつっ立っていると官吏が疑わしげな目を向けてきたので、
「い、いえ! 何でもないです」
 慌てて馬を連れ、城門を通り抜けた。
 まあ、大丈夫かな――馬が並んで20頭は歩けそうな通りを進んでいるうちに、不安は消えていった。とりあえず北東に行ってみて、分からなかったら誰かに訊けばいいことだ。それにあのお役人の言ったとおり、本当に分かりやすいのかもしれないし。
 エルゼリンデは楽観していた。
 そしてすぐに迷子になった。


「こ、ここはどこ……?」
 途方に暮れた呟きを発してぐるりと周りを見回す。塔と建物の間の、細い小路。さっきからずっとこの景色だ。同じところをぐるぐると回ってるだけなんじゃないか。
 はあ、とため息ひとつ。鎧は重たいし、おまけに暑い。夏も終わりかけとはいえ、ユーズは盆地のせいか残暑が長引く。兜は荷物と共に馬の背に括りつけたが、鎧のほうは脱ぐわけにいかない。重い鎧を着たまま数時間あちこちうろうろしていたせいで、もうへとへとだ。
「しかも、誰にも会わないし」
 こんなに大きい宮殿なんだから、城下の街と同じくらい人がいたっておかしくないではないか。エルゼリンデは釈然としなかったが、兎にも角にも、二度ほど遠くに人の集団を認めただけなのだ。そのうえあんまり遠すぎて、結局接触は叶わなかった。
「国王がいるのに、こんなスッカスカな警備でいいのかな」
 余計な心配をしつつ、荷物から水筒を取り出す。ごくごくと喉を鳴らして水を半分ほど飲んでから、水筒を抱えたまま小路の端っこに腰を下ろした。
 ちょっとだけ、休憩しよう。
 陽の高さと自分の腹具合から見て、まだお昼前。入隊式とやらはお昼過ぎに始まるという話だったから、一刻ぐらい休んだって充分間に合うはず。
 ふう、と息をついて両目を閉じる。
 とうとう、王宮までやって来てしまった。エルゼリンデはそれを実感した。
 これから入隊の申請を済ませて、式典に参列して正式に騎士の称号を貰って、それから東のネフカリア地方へと出征する。
 戦いに行く――それを思うと気分が真っ暗になる。
 でも、自分の双肩にイゼリア家の命運がかかっている。もうあとには引けない。




 困ったことになった、と父が頭を抱えたのはひと月前のこと。
「……ミルファークを次の遠征に出兵させよという命が下った」
「兄さんを!?」
 青天の霹靂、寝耳に水。エルゼリンデは仰天して椅子からずり落ちるところだった。
「ど、どどどうして、あの、病気になるのが趣味みたいな兄さんがそんなことに?」
 イゼリア子爵家の跡取り、エルゼリンデと一歳違いの兄ミルファークは、生まれつき病弱で線が細い。むろん剣より本を好み、馬にすら乗れない。
 そんな兄が、何故?
「どうやらこの前の財務卿失脚、あれが響いたみたいでな」
 マヌエスは悄然と肩を落とした。そんな父を目の前にして、エルゼリンデは「ええと」と首を捻った。
 確か、宮廷内で宰相一派と財務卿一派が対立していて、半年前に財務卿が公金横領だかの醜聞で失脚し、政争が決着したとか言う話。ここまでは、王立古文書館の司書という文官身分の零細子爵家にとって、雲の上の出来事でしかなかった。
 余計な火の粉がイゼリア家に降りかかったのは、雪崩を打つように失脚した財務卿一派の中に、バルトバイム伯爵の名前が挙がってからだった。バルトバイム伯はマヌエスの伯父で、イゼリア家は元来バルトバイム伯爵家の分家の一つ。それでまあ、バルトバイム伯が道連れと言わんばかりに色々難癖をつけてきたらしく、結果として今回のイゼリア家嫡男の徴兵に繋がった……とは、父マヌエスの談である。
「でも、これまでみたいに、お金を払えば免除されるんではないんですか?」
 貴族は騎士たることが前提とはいえ、イゼリア家のような文官の家系では、戦役に際しては銭納をもって武役に代えるのが慣例だ。
 マヌエスは眉間に皺を寄せたまま首を振った。
「今回の件は金銭などで済む話ではない。宮廷への忠誠心を試されてるということなのだからね」
 不本意だが信頼を回復するためには、ミルファークを送らねばならん。父は掠れた声ながらもきっぱりと断言した。
「で、でも! 肝心の兄さんは今寝たっきりじゃないですか!」
 ミルファークは、数日前から流行り病を患って自室で絶対安静状態にある。
「たとえひと月で良くなったって、行軍に耐える体力なんてあるはず……」
「そうだ。だから私が行くことになる」 
「と、父さんが!?」
 エルゼリンデは目を回してしまいそうだった。
「そそ、そんな、父さんが徴兵されてしまったら、イゼリア家はどうなってしまうんです!? 母さんはいないし、兄さんの薬代だって!」
「私が戦死しても遺族に年金が支給される。あとはこの家を売れば兄妹二人、何とか食いつないでいけるだろう」
「そういう問題じゃありません!」
 エルゼリンデは激しくかぶりを振った。父に死なれるのも、兄が死んでしまうのも、エルゼリンデにとっては耐えられないのだ。母も既に亡い。家族がばらばらになってしまうのは嫌だ。
「しかしだね、エルー」
 白い頬を紅潮させ断固として首を振る娘を、父は困惑気味に見つめている。
「他に代わりがあるわけでもない。仕方がないんだ」
 代わり……代わり?
 瞬間、エルゼリンデの頭の中に素晴らしい考えが閃いた。
「そうだ!」
 がばっと、エルゼリンデはその場に立ち上がる。そうだ、この手があった! というより、これ以上の名案なんて偉い学者でも思いつかないに違いない!
「エルー?」
 父が訝しげな視線を向けてくる。エルゼリンデは藍色の双眸をきらきらと輝かせ、こう告げた。
「じゃあ、私が兄さんになります!」
 今度は父が椅子からずり落ちる番だった。
「エ、エルー、何を言い出すんだ!?」
「私がミルファークとして行けば、兄さんはゆっくり療養することが出来るし、父さんが老骨に鞭打って戦地に赴くこともありません」
「……いや、エルー、老骨って。父さんまだ40……」
「それに。私と兄さんは髪の色も目の色も同じだし、顔も背格好も似てます! 私なら馬にだって乗れるし、剣もこの前まで近所のおじいさんに習っていたし。これはもう、兄さんの代わりに行けという神様の思し召しに違いありません!」
 エルゼリンデは自分の名案に酔っぱらい、その場でくるくると回りだした。
「しかしね、エルー。戦争に行くんだよ。単なる遠出ではない。生きて帰ってこられる保証はまったくない」
 冷水を浴びせかけるかのような父の声。エルゼリンデは動きを止め、真摯な表情で父親に向き直った。
「でも、私が行かなければこの家はどうなってしまうんですか?」
「………」
「大丈夫です。一回きりのことなんだし、必ず生きて帰ってきます。それにもし私が死んだとしても、父さんと兄さんがいればイゼリアの家が断絶することもありません」
「……だが」
「大丈夫です、何とかなりますよ。それに行くからには私、しっかり手柄を立てて、たくさん功労金を頂いてきますから!」
 意気揚々と握りこぶしを作る娘を、父は力なく見つめた。ただでさえ男所帯の騎士団に娘を放り込むなんてとんでもない。それに問題だって山積みだ。
 しかし、血を目にしただけでぶっ倒れるひ弱なミルファークや、戦争経験皆無で体力も衰えてきた自分より、このおてんばのほうが生存確率が高いのも事実。
 ――ならばいっそ、彼女に賭けてみるしか……
 マヌエスは苦渋の顔を崩さぬまま、ゆっくりと頷いた。

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