第2話

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 よし、とエルゼリンデは目を開いて立ち上がった。
 何が何でも東の双塔にたどり着いて、入隊の申請をしなければ。こんなところで立ち往生している場合ではないぞ、自分。
 彼女は気合を入れなおすと、近所の商人に譲ってもらった馬のたてがみを撫でる。
「お前も、もう少し頑張ってね」
 手綱を、決意と一緒にしっかりと握る。
「よし、行こう」
 エルゼリンデの気合を込めた声に、
「どこへ行くんだ?」
 唐突に、よく通る低い声が重なった。


「ひゃあっ!」
 一歩踏み出しかけていたエルゼリンデは、突然背中に当たった声につんのめりかけてしまった。何とか踏みとどまって、がしゃりと音を立てながら振り返ると。
 黒い服を着た黒髪の男が彼女を見下ろしている。小柄な自分よりも頭二つ分高い背丈、服の上からも分かるしなやかで引き締まった体躯、そして鋭利に整った顔立ち。切れ長の蒼い双眸には剣呑な光がある。顔が良いだけに、睨まれた迫力も3割増だ。
 エルゼリンデは「ひいい…」と声にならない悲鳴をあげた。
 物腰と腰に差している長剣からして、この男は騎士に違いない。着ている物も立派だし、しがない貧乏子爵家のエルゼリンデより遥かに地位の高そうな。
 その男に睨まれているということは、自分は間諜か暗殺者にでも間違えられているんだろう。きっと「曲者!」とか言われて、あの重たそうな剣でばっさり斬られてしまうんだ。
 ――ああ、どうやら私はここまでのようです。父さん兄さん、先立つ不孝をお許しください。娘は一足先に神様の許へ旅立ちます……
 すっかり萎縮してしまったエルゼリンデの頭上に降ってきたのは、冷たい刃ではなく、呆れたような声だった。
「何も取って食おうと思っているわけではない」
 く、食おうだって!? 斬られるだけではなく、そのうえ食べられてしまうだなんて! その腰の剣は包丁ですか!?
「た、食べるのだけはどうかお許しを! あ、脂ものってないし美味しくないです!」
「だから食わんと言ってるだろうが。しかも、食うといってもそっちの意味ではない」
 恐慌状態のエルゼリンデを前にして、男の語気が多少荒くなる。
「とにかく、面を上げろ」
 頭ごなしに命令されて、ぎこちない仕草で顔を上向ける。男の、湖面のような深い色の瞳とかち合い、さらに緊張が高まっていく。
 男は視線でエルゼリンデの亜麻色の頭のてっぺんから爪先までひと撫ですると、訝しげに眉を顰めた。
「……新兵のようだな。入隊式に来たのか?」
 エルゼリンデは口を開くことができぬまま、こくりと頷いた。男は眉間の皺を深め、先を続ける。
「今日王宮に来たということはどこかの貴族なんだろうが……それにしても、どうしてお前のような女が此度の遠征に参加するのか?」
「………!!」
 心臓が、鎧を突き破ってしまいそうなほど跳ね上がった。せめて兜を脱がなければよかった。後悔するも、もはや遅い。
 冷や汗がだらだらと流れ落ち、表情があからさまに硬くなる。思わず叫びそうになるのをぐっとこらえ、エルゼリンデは体中を駆け巡る狼狽を懸命に押し止めようとした。
 ――落ち着け。ここでばれたら一家離散の危機だ。
 家族の顔を瞼の裏に描いていたら、幸いなことに早鐘のごとく脈打っていた血液は何とか鎮まった。
「そのように無粋な鎧ではなく、美しいドレスを着ていたほうが様になるというのに」
 眉を寄せたまま、男がさらに呟きかける。そんな台詞なんぞ言われ慣れていない――どころか生まれて初めて耳にしたエルゼリンデは、胸中は蒼白のままに、首まで真っ赤にしてしまった。しかしすぐさま首を振る。
「ド、ドレスなんて着たことありません! み、見えないかもしれませんけどっ、わ、私はこれでも男です男ですとも男なんですっ!!」
 つい口調がいっそう強くなったのは、怒りではなくうしろめたさのためである。
 男はエルゼリンデを見下ろしたまま、蒼い双眸を意外そうに瞠った。
「男? そうだったのか。まるで女のような顔立ちをしているから見誤った。すまない」
 あっさりと詫びられ、エルゼリンデは拍子抜けしてしまった。
「え、はあ……ええと、あの。その……ま、まあ、確かによく女に間違えられるので…き、気にしないでください」
 もごもごとそれだけ口にする。男は気にした様子もなく、踵を返した。
「まあいい。とにかくついて来い」
「へ?」
「おおかた、道に迷ったんだろう。双塔まで案内してやる」
 そう告げると、返事も待たず歩き出す。
 エルゼリンデは呆然と藍色の瞳を見開いていたが、慌てて遠ざかっていく黒い背中を追った。


「名は?」
「な?」
 唐突な質問に、エルゼリンデは間抜け声を発する。名前を訊ねられたことに思い至ったのは、先導する広い背中を数秒間凝視してからだった。
「あ、ミ、ミルファーク・ヴァン・イゼリアといいます。イゼリア子爵の嫡男で」
 すると、男がまた唐突に歩みを止めて彼女を振り返った。そして蒼い目を軽く眇め、頼りなげな新兵を見下ろす。
 その時間が思いのほか長かったので、エルゼリンデはちょっと居た堪れなくなってきた。
 もしや、偽装がバレた?
「……そうか、イゼリア子爵の。ということはバルトバイム伯がらみか」
 低い声が沈黙を押し退ける。エルゼリンデはとりあえずほっとして嫌な汗を引っ込めた。が、直後、胸中で首を傾げることになる。どうしてこの人がそれを知ってるんだろう? という疑問に。
 男はまだエルゼリンデを見ている。その、どこか物言いたげな表情も胸に引っかかる。
「まだ声変わりもしていないようなのに、災難だったな」
 ぎくりとする。そもそも元が女だから声変わりはしない。とはいえ、そんなに高いだろうか。ミルファークのほうが若干低いとはいえ、彼女も甲高い声の持ち主ではない。
「い、いやまあその……もも、もともとこんな声なんです。せ、背も低いから……」
 うしろめたさも重なって、しどろもどろな言い訳になってしまった。なんというか、この男、妙な威圧感があって頗るやりにくい。
「……まあいい」
 男はおもむろにそう呟くと、再び踵を返し歩き始めた。疑問を宙ぶらりんにさせたままだったが、置いていかれては困る。エルゼリンデは何が何だかよく分からないまま、馬を引っ張りながら足をせかせかと動かした。




 二本の尖塔を間近に見上げられる距離まで来るのに、それほど時間はかからなかった。近いところまで来ていて、それでうっかり小路の迷路に迷い込んだらしい。
「この道をまっすぐ進めば、すぐ演習場に着く」
 先導していた黒髪の男が、音もなく足を止めて振り返る。
「あ、ありがとうございました」
 エルゼリンデも立ち止まって、深々と頭を下げた。実際のところ深々と、は気持ちだけで、重たい鎧に邪魔をされたために浅く首を下向かせた程度だったが。
 男は、今度は無表情にエルゼリンデの亜麻色の頭髪を見下ろした。
「……体の線は弱いが、なかなか気骨のある目をしている。せめて自分の身は守れるよう精進することだ。特に、武門に縁のない貴族の子息は不当な扱いを受けやすいからな」
 規律は変えられても人心は容易く変えられないものだ。男は自嘲気味に唇の片端をつり上げて苦笑する。
 その言葉にエルゼリンデはぎくりと体を硬直させた。
 この先、果たして自分は上手くやっていけるのだろうか。ただでさえ兄と、男と偽っているのだ。誰かにばれてしまったらどうしよう。大変なことになるのは目に見えている。それにそれに、上官にいびられて、同僚に陰湿ないじめとか受けてしまうかも。甲冑や靴を隠されるとか、ご飯横取りされるとか!
「そう今から心配する必要はないが」
 エルゼリンデの顔色が曇ったのを見かねてか、男が苦笑混じりに告げる。
「まあ、心構えのあるのとないのとでは違ってくるからな」
 フォローになっていないことは、彼女にも分かった。
 そうしてまた、今度は至近距離で見つめられたので、エルゼリンデは数歩先の暗雲を忘れてどぎまぎしてしまった。
「それと、もう一つ」
 今度は何を言われるんだろう。エルゼリンデはあからさまに身構えた。
「騎士の中にはお前のような容貌の男を好む者もいるから、そういう趣味がないのなら気をつけることだ」
「…………はい?」
 告げられた言葉の意味を量りそこね、眉根を寄せて訊き返す。「お前のような容貌の男」とはいったい? 女なら分かるけど、男なのに? 男だぞ?
 しかし発言者のほうはエルゼリンデの返事を肯と取ったのか何なのか、
「機会があれば、いずれ剣の稽古をつけてやろう」
 と言い残して、来た道を早足で戻って行ってしまった。
「……な、何だったんだろう、あの人」
 エルゼリンデは釈然としない面持ちで呟いた。図星をつかれたり変なことを言われて、挙句の果てに去り際にはよく分からない脅しをかけられた気分にもなった。でも道案内もしてくれたし、悪い人ではないだろう。どうやら彼も騎士のようだから、そのうち再会できるかもしれない。
 エルゼリンデは男の黒い背中が見えなくなっても、しばしぼんやりと立ち尽くしていた。そしてにわかに入隊のことを思い出し、あたふたと逆方向に駆け出した。

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