第8話

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 エルゼリンデは一人きりの部屋で、深く長いため息をついた。
 訓練が始まってから今日で15日が過ぎた。
 分隊内における彼女の立場が改善したかと言えば、そんなことはない。最初の頃のように露骨に何かされることは少なくなったが、そのぶん態度や口調にたっぷりと棘や氷が含まれるようになった。相変わらず、隊長の目の届かないところでは手厳しく当たられることも多い。
 おかげでエルゼリンデの白い肌にはあざや擦り傷が増えた。
「痕に残らないといいけど」
 薬を傷口に塗りこみながら、不安そうな呟きを零す。肩の青あざはほとんど消えていたが、じっくり見るとうっすら痕になってしまっている。怪我するかも、とは漠然と思っていたものの、こう毎日のようにどこかしら傷めてくるとは思わなかった。
 本当に、あの時の自分は考えなしだったな。
 エルゼリンデは自嘲を交えて思い返していた。
 薬を塗りこみ、包帯を巻く。塗り薬も包帯も父が持たせてくれたものだが、かなり心許なくなってきた。
「……父さん」
 それらを眺めていると、家族の姿が瞼の裏に浮かび上がってくる。
 エルゼリンデはふるふると亜麻色の頭を振ってそれを追い払った。家族のことは、極力思い出さないようにしている。そうでもしないと、今みたいに、涙が溢れてきそうになるから。
 しっかりしなくちゃ。イゼリアの家の命運は、自分が担っているんだから。エルゼリンデは目じりをこすりながら自分に言い聞かせる。
 嫡男を戦場に送る――その意味するところは、家系を絶つ覚悟で王家に忠誠を尽くすこと。だからミルファークが行かなければならなかったのだし、彼女がミルファークじゃなく妹であることを悟られても、絶対に駄目なのだ。
 大きく息を吸い込んで、気持ちを落ち着かせる。
 そこへ、扉が開く音。同室のザイオンが訓練から戻ってきたのだ。
「あ、ザイオン」
 そういえば、彼の顔を見るのも久しぶりのような気がする。
「おう」
 ザイオンは手短に挨拶すると、手早く甲冑を脱いでいく。あっという間にしまい終えると、
「じゃ、オレちょっと用事あるから」
 彼はすぐさま部屋を出て行ってしまった。何だかここ数日、ザイオンはとても忙しそうにしている。そのせいか会話の回数も目に見えて減っていた。
 ザイオンにも色々あるんだろうなあ、と大人ぶって割り切ってみても、一抹の寂しさは残る。エルゼリンデはまた嘆息して、夕食をとりに部屋を出た。


 食堂には、やはり人はまばらだった。同じ分隊の人はいるが、ガージャールやその取り巻きたちはまだ来ていないようだ。エルゼリンデはほっとした。と、はたと奥のテーブルに目を留める。
 そこには、ついさっき部屋を出て行ったザイオンの姿。その両隣には、分隊の仲間なのだろうか、同じくらいの年頃の少年が座っている。
 あれ、用事があるとか言ってたのに? エルゼリンデが首を捻りながら見ていると、そのザイオンと目が合った。
「………」
 ところが、何やら気まずそうに視線を逸らされる。ますます疑問を増幅させる態度。だが何とはなしに彼らの輪に入るのも気が引けた。結局エルゼリンデは冷ややかで妙な視線を避けるように隅っこの席に着いた。
 このところ、ザイオンとも食事をしていないなあ。卵の入った麦粥を啜りながら、ぼんやりと彼の態度について考える。朝は朝で、彼女がこっそりお風呂に行っている間に出てしまっているし、夕食前も今日と同じく先にどこかへ行ってしまう。夜もこっちが寝るまで帰ってこないことが多いし。
 ――多分分隊で仲のいい人ができたからなんだろうな。
 エルゼリンデは今の光景も照らし合わせてそう結論づける。ザイオンは社交的だし、結構訓練でも評価されてるみたいだし、当然だろう。それに引きかえ自分と来たら……エルゼリンデはまた情けなくなって、さらに俯いてしまう。
 ふと、頭上が陰った。
 彼女は顔を上げ、藍色の瞳を円くする。次いでちょっと気まずそうな表情になってしまった。
 テーブルを挟んで立っていたのは、彼女の所属する分隊の隊長、レオホルトだった。
「調子はどうだ、ミルファーク」
 温和な金髪の貴公子が労わるような声をかける。彼もエレンカーク同様、一般騎士用の食堂によく足を運ぶ。
「は、はい……まあまあ、です」
 エルゼリンデは答えながらも、居心地の悪そうに視線を四方へ放つ。
 レオホルト隊長は、相変わらずまめに彼女を気にかけてくれている。あんなことがあったのだから当たり前と言えば当たり前だ。しかし、である。これだけ日数を経れば、いくら世間知らずなエルゼリンデでも悟らざるをえない。
 レオホルト隊長に目をかけられればかけられるほど、周囲の眼差しがどんどん冷えていくことに。
 だから、最近は隊長とも接触を避けていた。とにかく目立たないようにすること。それくらいしか、自衛手段はない。だけどこういうときはすごく困ってしまう。なんせ上官、無碍に対応するなんてできない。
 困惑を抱えたまま、レオホルトの言葉にしどろもどろに応じていると、横手から新たな声が飛び込んできた。
「おい、イーヴォ」
 少し離れたところに座っていた、エレンカーク隊長のものである。平生と変わらぬ鋭い目を光らせ、同僚に手招きをしている。
「では、失礼」
 レオホルトは微笑を浮かべ挨拶すると、エレンカークのほうへ去っていく。エルゼリンデはほうっと息を吐き出した。そうして、せっせと夕食を平らげ、素早く食堂をあとにした。




 ああ、気が休まらないなあ。
 部屋へ戻る際にも、なるべくひとけの少ない廊下を選んでいくようになった。なぜなら、すれ違う騎士たちに変な目で見られたり、変なことを言われたりするからである。
「あの」
 突然背中に遠慮がちな声がぶつかったのは、演習場へ向かう廊下に差し掛かった時。
 内心おっかなびっくり振り向くと、同じ分隊の新兵が包みを抱えて立っていた。
「……な、何か?」
 警戒の色を隠せず、その青年に訊ねる。彼はしばし逡巡した顔でエルゼリンデを凝視していたが、意を決したのか、口を開いた。
「これ、使ってくれ」
 抱えていた包みを渡される。中には塗り薬や包帯が入っていた。
「……え?」
 きょとんとして、青年の顔を見直す。彼は気まずそうに続けた。
「いやその…お袋が大量に持たせたんだよ。でも俺はそんなに使わないし。あんた、結構怪我してるから、こういうの必要なのかなと思ってさ」
 エルゼリンデはまだ間抜け面をしている。
「あ、要らないなら誰かほかの奴にでもやってくれ」
「……あ、う、ううん! ちょうど足りなくなってきてたんだ。ありがとう、使わせてもらう」
 我に返ったエルゼリンデは勢いよくかぶりを振り、包みをぎゅっと抱きかかえた。すると、青年がちょっと笑顔を見せる。
「ならよかった……あんた、イゼリア子爵の息子だって聞いたけど、今回の入隊は財務卿失脚がらみなんだろ?」
「ど、どうしてそれを?」
「あー、まあ、俺も同じなんだ。召集命令が出て、それで渋々、な」
「そ、そうなんだ……」
 意外や意外、同士がいた。そのことにエルゼリンデは驚き、少し安心感を覚えた。
「お、俺はこんなことぐらいしか手助けできないけど……でもこの戦いが終わったら帰れるんだし、それまで頑張ろうな」
 青年は最後早口になってそう告げると、人目を気にするように引きかえす。
 エルゼリンデは少しの間、ぼうっとその場に立っていた。
 嬉しかった。表立って庇ってくれたわけでも助けてくれたわけでもない。ほんのささやかな善意。だけどそれは温かいチョコレートを飲んだときのように、ささくれた心にじんわりと沁み込んでいく。
 よかった、みんなから悪く思われていたわけじゃないんだ。エルゼリンデは包みを大事そうに抱きしめ、再び歩き始めた。
 彼らの傍観を、責めるつもりはまったくない。だって、自分だって同じことをしたのだ。最初の朝食時の光景が甦る。あの時ただ遠巻きに眺めるだけだった、そんな自分に今の彼らを責める資格なんてない。
 心持ち軽くなった足取りで部屋へと向かう。その途中、また彼女は呼び止められた。
「やあ、ミルファーク」
 前方から、栗色の髪と鳶色の双眸を持つ少年が近づいてくる。それは何だかんだで彼女に構う、セルリアン少年であった。
「……何か用?」
 彼女のセルリアンに対する心証は、複雑のひとこと。彼女を間接的に侮辱することを言ったかと思えば、親切ごかした忠告をしてきたり。その一見一貫性のない行動にエルゼリンデは戸惑いを覚えていた。もっとも、彼女に有益になることをしてくれたことはないのだけど。
「この前ね、変な噂聞いちゃってさ。それでミルファークにも教えておいてあげようと思ったんだ」
「……噂?」
 嫌な予感を胸に訊き返す。セルリアンは至近距離まで来て、声を低くした。
「あのねえ、ミルファークさ、レオホルト隊長と噂になってるよ。親密な関係だって」
「……は?」
 エルゼリンデは眉根を寄せた。噂になるってどういうこと? 親密な関係って?
 セルリアンは何だか呆れた表情で分かりやすく言い直した。
「だから、君とレオホルト隊長が恋人同士だって、そう言ってるの」
 ……恋人同士? 自分とレオホルト隊長が?
「…………ええええええっ!?!?」
 エルゼリンデは声を高くし、のけぞってしまった。
「ど、どどど、どうして? いいいいいったいな、何でそんなことにっ!?」
 だって、「ミルファーク」は男である。そしてレオホルト隊長も男。それでどうしてそんな噂がでてくるのだ? そ、それとも自分が女だと言うこと、実はばれてるのだろうか?
 恋人同士という単語に、彼女の頭の中は引っ掻き回されていた。
 一方のセルリアンは、可愛らしい顔に興味の色を差して、狼狽しきりのエルゼリンデを見つめている。
「あはは。君、こういうの何にも知らないんだねえ。別に男同士でだって、そういうことはするんだよ。まあ、慣れれば結構いいものだって」
「だっだだだだだってっ、お、男同士って男同士って……そんな!」
 エルゼリンデは真っ赤な顔で頭を何度も振る。にわかには信じられない事実を聞かされ、その衝撃で先刻の小さな親切も吹っ飛ぶ勢いだ。
「まっ、その反応をするってことは、ミルファークにはそんな性癖はないんだね。だったら尚更気をつけたほうがいいよ。レオホルト隊長とのことだって、君が色目使って取り入ったことになってるから」
「なっなっ……」
 もはやちゃんとした言葉を出せる状態ではない。陸に上げられた魚よろしく、空しく口を開閉させるだけである。
「ま、要は男好きって思われてるってこと。だから最近みんなよそよそしいんだよ」
 そんな馬鹿な。エルゼリンデの赤い顔から、音を立てて血の気が引いていく。
 そうしてすぐに、最近のザイオンの不審な態度に行き当たった。
 つまりザイオンは――彼女を避けていたのだ。

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