第13話

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 よろよろと覚束ない足取りで部屋に帰り着いたのは、就寝の鐘が鳴ってしばらく経ってのことだった。
 ――き、厳しいなんてもんじゃない……!
 エルゼリンデは胸中でザイオンに抗議する。練習内容もそうだが、ちょっとでも怯んだり隙ができると無慈悲な怒声が降りかかってくるのだ。その迫力といったら! 雷よりも遥かに恐ろしいと、エルゼリンデは確信していた。
 既に意識は朦朧、筋肉も悲鳴をあげている。明日の通常訓練に耐えられるかどうかも危うい。それ以前に多分早起きはできそうにないから、お風呂もお預けだろう。
 部屋の扉を開けると、ザイオンはもう寝ているようだった。彼を起こさないよう、エルゼリンデもそっと寝台の上に横たわった。
 もう、ザイオンとも結構話をしていないような気がする――色々あって疲れきった頭の片隅で、そんなことを考える。そうして、稽古が終わったあとでエレンカーク隊長が告げた言葉も思い出す。
「ザイオンのことだけどな。お前には兄貴風を吹かしてたようだが、あいつもまだ子供だ。どう対処していいのか分からねえことも山ほどある。だからここはひとつ、お前が大人になってやれ」
 とりあえず肯いておいたが、どういうことなのかいまいち把握できなかった。大人って、そんな急になれるものなんだろうか?
 よく分からないけど、普通に接するってことなのかな。
 それにしても、やはりエレンカークはザイオンに目をかけているらしい。故郷が近いこともあるのかもしれないな。徒然と考えながらも、今度こそ眠るために瞼を下ろした。


 次の朝は久しぶりにバケツを叩いたような騒音に起こされた。
 どうでもいいけどこの目覚ましの音は何とかならないものか。心臓に悪い。うつらうつら思いつつ、のそりと起き上がると、やはり起きたばかりのザイオンと視線がかち合った。
「…………」
 ザイオンは決まりの悪そうな表情で、黄土色の双眸を左右に揺らしている。
「おはよう、ザイオン」
 普通に、普通に。エルゼリンデは何気ない口調で挨拶すると、いまだふらふらする足取りで顔を洗いに部屋の外に出る。だるさは残るが、危惧したほどではないし、筋肉に痛みもない。体が汗でべたついているのは致し方ないにしても。
 冷水で顔を洗い、幾分寝惚けまなこから解放されて部屋に戻ってくると、ザイオンはまだ神妙な顔つきで寝台に座っていた。
 おや? エルゼリンデが首を傾げる。
「ザイオン、顔洗わないの?」
「ああ……」
 何だか返事も歯切れが悪い。彼は視線を彷徨わせたまま、呟く。
「そのさ……」
「何?」
 言いたいことははっきりと口に出すザイオンにしては珍しいほど曖昧だ。
「あー……いや、何でもねえ」
 言葉を濁して立ち上がると、あとは無言で部屋を出て行ってしまった。
 いったい何だったんだろう? エルゼリンデは頭の中に疑問符を浮かべたが、ぼさっとしているとあとが怖いので、朝食を取りに食堂へと赴いたのだった。




 それから三日後。
 相変わらず周囲の自分を見る目はよそよそしいが、だいぶ気持ちも落ち着いてきたし、この状況にもめげなくなってきた。レオホルト隊長も、よほどのことがない限り彼女にあまり話しかけなくなったことだし。
 それに、遠征まで半月を切り、にわかに周辺も準備に慌ただしくなってきている。訓練も少し前から分隊ごと、新兵だけの内容から、従騎士も加わった騎士団全体のものに切り替わった。
 でも、そもそもどうして、今の時勢に遠征など行なうんだろう。
 それはエルゼリンデにとって、前々からの疑問だった。
 ネフカリア地方は現在、ライツェンヴァルト王国の東の隣国、モザール公国の領土である。建国からしばらくはモザールとの領土争いが続いたが、数代前の王の時代に和平条約が結ばれてからはたまに国境で小競り合いが起こる程度、目だった戦いは起こっていない。
 せっかく平穏を保ってるんだから、わざわざ戦争など吹っかけることはないのに。そうエルゼリンデは思うのだが、むろん表立って口にできるような類の発言ではない。
 ゆえにエルゼリンデはその晩、恒例となりつつあるエレンカーク隊長との稽古の途中で、こっそりと自分の考えを披瀝してみる。
 すると、エレンカークは苦笑混じりに同意を示した。
「そりゃそうだ。費用もばかにならねえし、する必要なんざねえからな」
「じゃあ、何でするんですか?」
「ネフカリアにはラピスラズリのでかい鉱脈がある」
「そのためだけに、ですか?」
「ラピスラズリは高値で売れるからな。あとは軍の士気を高めるためじゃねえのか?」
 士気を高める?
「……高めてどうするんですか?」
 エレンカークは質問者を一瞥した。どこか呆れたような目つきで、であるが。
「やる気のない、おまけに弱い軍隊を抱えて国が保てると思うか?」
「お、思いません」
 エルゼリンデは気圧されたように少し胸を反らし、ふるふると首を振る。
「ここ十年近くでかい戦いはねえ。それは平和でいいことなんだが、盗賊の討伐や反乱の鎮圧ばかりだと、不満を漏らす奴らもいるってことだ」
「はあ……でもやっぱり、しなくてもいいような気がするんですけど」
 納得のいったような、しかし釈然としないような、複雑な心境で呟く。
「ま、これはあくまで俺の推測に過ぎねえが。この前の財務卿失脚も関係してるとかいう噂も流れてるしな。お上の考えてることなんざ、下っ端には分からねえもんだ。それにな、ミルファーク」
 エレンカークの褐色の双眸が彼女を見据える。エルゼリンデは思わず姿勢を正した。
「俺らの仕事は戦場で結果を出して、生き残ることだ。そんな小難しいことは上の連中に任せときゃいいんだよ」
 言われてみればその通りで、エルゼリンデとしては肯くほかない。
「分かったら稽古に戻るぞ。休憩は終わりだ」
 無情な一言がその話題を打ち切った。


 幾分マシになってきたとはいえ、まだよろめく足を引きずって部屋に戻る。扉をそっと開いて、藍色の双眸を軽く瞠った。いつもは寝ているはずのザイオンがまだ起きていたからだ。
「……あれ、まだ起きてたの?」
 疲労困憊ですでに瞼が重たいエルゼリンデは、寝台に潜り込みながら問いかける。
「……ちょっと、話があってな」
 ザイオンの声は、どことなく深刻さを帯びている。
「話?」
 エルゼリンデは寝転んだまま首を動かして彼を見やる。ザイオンはいったん彼女から視線を外し、しばし逡巡してから、またその顔を見つめる。
「……あのさ。お前さ、最近夜に何やってんだ?」
 不審と疑惑の光が、黄土色の双眸にある。エルゼリンデは三度ばかり目を瞬かせて、ザイオンの顔を見直した。正直に話してもいいものか。一瞬だけ躊躇が生まれたが、しかし彼のことだ。避けられていたってむやみやたらに他言するような性格じゃない――と信じたい。
「何って、エレンカーク隊長に稽古つけてもらってるんだけど」
 率直に打ち明けると、ザイオンの目が点になった。次に口をぽかんと開く。
「はぁ、稽古ぉ? エレンカーク隊長と?」
 普段のきびきびした口調とはほど遠い、間の抜けた声で彼女の言葉を反復する。そうだよ、とエルゼリンデが肯けば、再び息を呑んだ表情でじっと凝視してくる。
 やがて、ザイオンは大きく、深々と息を吐き出した。そして安堵を含んだ声を漏らす。
「……なんだ、そうか。オレはてっきり……」
「てっきり?」
 言葉の端を聞きとがめ、エルゼリンデが眉を寄せる。
「ああ、いや、その……ほら、レオホルト隊長と噂になってただろ? だから、な……」
 やっぱりザイオンも知っていたのだ。第三騎士団内に広まっていたのだから、当然だろうけど。
「お前、レオホルト隊長とは……何もないんだよな?」
「あるわけないよ」
 念を押すように訊ねられ、エルゼリンデは憮然と答える。ガージャールの一件以来、エレンカークの計らいのおかげか、レオホルトが彼女に無闇に話しかけることはなくなった。それに、女の立場になって見てみても、お伽噺の中に登場するような貴族らしい貴族で格好いいなあ、とは思うが、彼にそれ以上の興味はないのだ。
 エルゼリンデは、まだ恋というものを知らない。
 しっかり否定したにもかかわらず、ザイオンの顔はまだ曇ったままだ。
「……ついでに訊くけど、そっちの趣味もないよな?」
「そっちの趣味?」
 どんな趣味? と続けると、ザイオンはがくりと肩を落とした。
「……そうだったな、お前色々アレだもんな。訊いたオレが馬鹿だった……」
 何だか、そこはかとなく馬鹿にされている感じがして、エルゼリンデはちょっと不愉快だった。が、そのあと顔を上げたザイオンの真剣な表情を目にして、そんな感情も吹っ飛ぶ。
「その……色々と悪かったな。ごめん」
 唐突な謝罪にぽかんとしてしまったが、自分を避けていたことに対してだと思い至り、エルゼリンデはかぶりを振った。
「ううん、別にそんなに気にしてないよ」
 結構ショックだったけど。そう言おうとするも、「大人になれ」とのエレンカークの一言を反芻し、心の中にしまっておく。
 彼女の返事を耳にしたザイオンは、あからさまにほっとした様子だった。
「よかった」
 まだどこか翳りのあるものの肩の荷が下りたかのような笑顔を向けられ、ザイオンと元通りに話せてよかった、とエルゼリンデも安堵の表情を垣間見せる。
 ザイオンが不意に眉を顰めたのはその直後のこと。
「でもさ、何があったのか知らないけど隊長直々に、しかも個人的に稽古してもらうってちょっとまずいんじゃねえか?」
 ほっとしてすっかり眠くなっていたエルゼリンデは、彼の一言にぎくりとした。
「……やっぱりそう思う?」
 レオホルト隊長の件もあったので薄々感じていたことだが、改めて他人に指摘されると不安が増す。
「師弟関係なんて普通にあるもんだし、別におかしいことじゃねえけど。でもお前の場合はあんな噂とかもあるし、傍から見れば特別扱いされてると言われてもしょうがないだろうな」
 ザイオンはもっともらしく腕組みした。
「そこで、だ。オレも一緒にやってりゃ、少なくとも矛先は分散されるんじゃねえのか?」
 まあ、そうだ。エルゼリンデは横になった姿勢のまま肯く。
「だから、明日からはオレも参加するっつーことで」
 単に自分も稽古をつけてほしかっただけなんじゃ? その考えが脳裏をよぎったが、やはり言葉にしないで、エルゼリンデはもう一度肯いたのだった。

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