第14話

BACK || INDEX || NEXT

「ふう……」
 水に浸かり、汗と汚れと疲れを落としながら、エルゼリンデはため息を落とした。
 今はまだ太陽も顔を出す前の早朝、浴場近くにも人の気配はない。
 エレンカーク隊長に稽古をつけてもらって早4日。態度こそ思いっきり厳しいが、力加減はかなり緩めてくれているのだろう。体に出来ていたあざは消えかかっているのが多く、増えていない。
 ふと、何気なく、二の腕をつまんでみる。太さはあまり変化ないが筋肉でカチカチだ。自分の体に視線を下ろすと、ほとんど膨らみのない胸、くびれのない腰が目に入った。
 棒っきれ。この前エレンカーク隊長が放った言葉通りの体。
「うーん」
 エルゼリンデは呻った。手はマメだらけだしお尻だって全然大きくなってないし、何より月のものだって……まだ来ていない。
 女性らしさが表れていないのは、少年だと偽るには有利になる。だからむしろ願ったりのはずなのだが。
「棒っきれかあ……」
 自分の体を隠すように、膝を抱えて丸くなる。騎士団に入ってから女の人の姿を目にすることは滅多にないが、たまに見かける彼女たちには、女性らしい柔らかさと優美さがあった。そういえば近所の同年代の女の子たちだって、皆エルゼリンデより胸もお尻も大きくて、女の子らしい。
 もしかして、このまま男になってしまったらどうしよう。そんな、ありもしない未来まで想像してしまい、はたと気がつく。
 ――今まで、そんなこと気にならなかったんだけどなあ。
 エルゼリンデは内心で首を傾げた。
 当然ながら、だからと言って今胸やお尻が膨らんでも、月のものが始まってしまっても困るのだ。せめて遠征が終わるまでの間は、このままの体型でいてほしい。
「棒っきれ……」
 だけど、なぜだか胸がモヤモヤする。
 エルゼリンデはそのモヤモヤを持て余して、思わず頭のてっぺんまで水の中に潜り込んだ。




 目の前に佇む背の高い青年を見上げて、エルゼリンデは藍色の双眸を瞠った。
「本日より従騎士としてお仕えさせていただきます、ナスカ・アルヴェーゼンと申します」
 ナスカと名乗る青年が、折り目正しく一礼する。もっとも、礼儀はあれど感情は感じられなかったが。
「あ、は、はい……こ、こちらこそ」
 当惑しつつも頭を下げると、ナスカは僅かに眉を顰めた。
「あなた様は騎士で貴族なのですから、私に頭を下げる必要はありませんが」
 表情と同様、無機質な声音で指摘される。
「は、はあ」
 生返事をしながらも、どことなく釈然としない。なんせ騎士と言っても新米でしかないし、貴族と言ってもあるのは爵位だけだ。父はともかくとして、自分が子爵令嬢として扱われた経験は乏しい。
 どうしたものかなあ。静かに控える従騎士の青年を目の当たりにして、エルゼリンデは途方に暮れていた。
 騎士には最低一人の従騎士がつく。
 従騎士とは文字通り、騎士に従い仕える存在である。貴族の中には戦地にも多くの従者を連れてくる者が多いので、普段の身の回りの世話をするということは稀だ。それよりはむしろ戦場での援護や護衛が主な役目となる。ちなみに従騎士は例外なく平民である。貴族であればほぼ無条件に騎士身分を与えられるが、平民の場合、騎士団に入団した当初は従騎士の身分から出発するのだ。
 今回の遠征に当たっても、これまでの慣例で新入り貴族たちに従騎士がつけられた。エルゼリンデも例外ではなく。
 それがこのナスカである。
 年の頃は、20歳に差しかかるぐらいだろうか。赤銅色の肌に黒い髪と瞳、がっしりとした長躯。金髪碧眼が多いライツェンヴァルトの中では異色だ。ここより南西のアブハル地方の出身か、あるいはアブハル人の血を引いているのかもしれない。
 それにしても、エルゼリンデが棒っきれなら、ナスカはまっすぐに伸びる若木そのもの。若いながら物腰も落ち着いていて、それなりに戦場での経験もありそうだ。エルゼリンデのような戦場未経験者にとって、こういう従騎士のほうが心強いだろう。
 しかし、顔合わせの挨拶も済んでともに訓練に移っても、エルゼリンデの戸惑いは解消するどころか、いっそう増していくばかり。
 まず何より、誰かに世話を焼かれたことがほとんどない。リートラントに領地を持っていた頃は侍女や使用人がいたが、現在は家政婦のおばさんを一人雇っているだけ。それに、両親から「自分でできることは自分でしなさい」と教えられてきたこともあって、自然と身の回りのことは独力でこなすようになってしまった。騎士団に入る前は、家事もやっていたくらいだ。
 そしてもうひとつ。
 ナスカのエルゼリンデを見る瞳には、何の感情も映っていないのだ。冷たさも厳しさも温かさもない。
 彼女に対する態度も、露骨に避けられている感じではないものの、どこか隔意を持たれているようだ。
 たとえば、昼食時のこと。
「……あの、ナスカさんはどこの出身なんですか?」
 思い切って話しかけてみると、ナスカは顔合わせの時と同様に、僅かに眉を動かした。
「ナスカ、で結構です」
 やはり無感動な口調。
「え、ええと……そ、それじゃ、ナスカ、あの」
「出身はオルトブルグ地方です」
「……そ、そうなんだ。オルトブルグって言ったら」
「ミルファーク様」
 ナスカの黒い目が、さらに話を続けようとしたエルゼリンデのほうを向く。少し強くなった語調に、エルゼリンデは思わず閉口する。
「私は自分のことを話すのは好きではありません。そのくらいで止めていただけますか」
 ぴしゃりと言い放たれる。
「あ……ご、ごめんなさい」
 エルゼリンデはしゅんと項垂れた。ナスカの次の言葉はなく、会話ともつかない会話はそこで終了したのである。


 やっぱり、嫌われてるのかな。
 変な噂や周囲の視線を思い出し、エルゼリンデは嘆息した。さっきのは自分も悪かったし、あまり話しかけないほうがいいのかもしれない――本当は、これから確実にお世話になるんだから、仲良くなりたいのだけれど。
 訓練終了の声とともに馬から降りながら、エルゼリンデはもう一度嘆息を漏らした。今日は訓練にも身が入らなかった。もうすぐ遠征だというのに、こんな調子じゃ困る。
 しっかりしなきゃ。胸中で呟き、手綱を握る手に力を込める。
「ミルファーク様」
 そこへ、従騎士の声がかかり、エルゼリンデは後ろを振り返った。ナスカが相変わらずの無表情で佇んでいる。
「馬を」
「馬? 馬はこれから戻しに行くんですけど」
 きょとんとしながら返答すると、彼は顔色ひとつ変えずにつかつかと歩み寄り、エルゼリンデの白い手から手綱を奪った。
「今日から、これは私の仕事ですので」
 邪魔をするなという言葉が言外に込められている。さっさと遠ざかっていくナスカの背中を、エルゼリンデは困惑と少しのやり切れなさとともに見つめる。
 しばらくそのまま立ち尽くしていると、視界の端にザイオンの姿が飛び込んできた。
 彼もまた、従騎士を一人従えている。同い年くらいだろうか、ザイオンは引いてた馬の手綱を当然のように彼に手渡すと、なにごとかを指示して厩へ行かせる。あまりにも自然な動作だったので、エルゼリンデはぽかんと凝視してしまった。
 不意に、ザイオンの黄土色の双眸がエルゼリンデの顔に留まる。こちらに気がついたようで、大股歩きに近づいてくる。
「お前、なに間抜け面してんだよ?」
 揶揄半分に指摘され、慌てて表情を引き締める。もう遅いって、とザイオンはさらに笑う。
 昨夜の件から、ザイオンは前と同じように接してくれるようになった。それがエルゼリンデには嬉しい。
「今の、ザイオンの従騎士?」
 問いかけてみると、彼はあっさりと肯いた。
「ああ。もともとうちの従者だったから、おかげさまで気安くやれてよかったよ」
 うちの従者? エルゼリンデは藍色の瞳を丸くした。
「ザ、ザイオンに従者なんていたの!?」
 あまりに大げさに驚いてしまったせいか、ザイオンはむっとしたように眉を寄せた。
「そりゃあ、いるに決まってんだろ。ま、数はそんな多くねえけどな。それに王都に来るのだって徴兵した領民たちを連れて来なきゃならないんだから、世話役が必要だったし」
「……」
 そ、そうか。考えてみれば貴族なんだから従者の一人や二人、いて当然だろう。
「ミルファークんとこは、連れて来なかったのか?」
 ザイオンの質問に、エルゼリンデはぎくっとした。
「……連れて来ないんじゃなくて、いないんだけど」
「……はあ?」
 ザイオンがあっけに取られたように訊き返してくる。
「だから、うちに従者はいないの」
 ちょっとむきになって言い直すと、今度は少年の顔に驚きが広がった。
「マジで?」
 無言で首肯する。
「はー……お前んちってやっぱり貧乏なのか。大変だなあ」
「び、貧乏なのもあるけど! でも、もともと父さんは、自分でできることは自分でっていう性格だったから。父さんにだって、従者はいないし」
 また家を貧乏呼ばわりされてしまい、エルゼリンデは空しい反論を試みる。すると、またまたザイオンは仰天した。
「へえ。お前んとこの親父さん、かなり変わった人なんだな。平民なら分かるんだけどさ、イゼリア子爵家ってそこそこ続いてるんだろ?」
「うん。父さんのひいひいお祖父さんの頃から」
 マヌエスは5代目の当主である。
 にしても、やはり父の考え方は貴族社会の中では異端なのか。昔から色んな人に「変わり者」と評されてきた父であるが、エルゼリンデはこのときようやくその意味を把握したのだった。

BACK || INDEX || NEXT


inserted by FC2 system