第21話

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 迷わないといいけど。
 城門をくぐって城の裏手に回りこみながら、エルゼリンデは不安を隠しきれなかった。
 2日後の昼にまた来い。そう王弟殿下に言われた日があっけなく来てしまった。その待ち合わせの場所へ来たのは一回きり、それも往路はどこをどう通ったかまったく把握できていないのだ。これで不安にならないほうがおかしい。
 これで迷ってたどり着けなかったら……脳裏に最悪の想像がもたげ、エルゼリンデはぶるっと身震いする。いくらアスタール殿下が寛容だとは言え、こうも失礼ばかり働いてしまっているようでは、そのうち堪忍袋の緒を切らせてしまいかねない。
 それにしても、訊きたいことって何だろう?
 歩く足は止めずに、腕を組んで首を捻る。ひと月前に会ったばっかりの、しがない子爵家の娘――今は息子になっているが――に何を訊ねるというのだろう。エルゼリンデには思い当たる節が……ないわけではない。ひとつだけ、存在した。
 も、もしかしてやっぱり女だってばれてるとか? ひと月前に王宮で遭遇したとき、初見でずばり言い当てられてしまったことを思い返す。あの場では何とか誤魔化せたのだが、よもやこうして再会することになるとは夢にも思っていなかったので、このまま押し切れるかは微妙なところだ。
 もし発覚したら。それは背筋どころか全身が凍りついてしまいそうな想像だった。
 罪に問われ、まず間違いなく爵位は剥奪されるだろう。ほとんどないに等しい財産も没収されるうえ、運が悪ければ一家全員処刑ということになりかねない。自分だけならまだしも、父と兄を巻き添えにすることだけは避けたいところ。
 一抹の希望は、王弟殿下の寛容さと気前の良さだろうか。正直に謝ってお願いすれば、家族の命ぐらいは助けてくれるかもしれない。まあ、取り越し苦労に終われば一番良いのだけども。


 そのうち、どうにか見慣れた風景の場所へとたどり着くことができた。ほっとひとつ息を吐き出して、周囲を見渡す。と、2日前と同じ木の陰に、目的の人物を発見する。アスタール殿下は、幹に背を預け両目を閉じていた。昼寝をしているようだ。
 仮にも国王陛下の弟で、しかも今回の遠征の最高司令官でありながら、護衛もつけずに一人で昼寝なんかしていて大丈夫なんだろうか。エルゼリンデはちょっと心配したが、杞憂と言うやつかもしれなかった。何せ彼はかなりの剣の達人なのだから。
 なるべく足音をたてないように近づいて傍に腰を落としても、アスタールの両目が開く気配はない。起こしたほうがいいのか、それとも起きるのを待ったほうがいいのか。王弟殿下の寝顔を横目にしながらエルゼリンデは逡巡した。
 しかし、本当に格好いいなあ。失礼は承知の上、ついその容貌を観察してしまう。兄であるシグノーク陛下も美形だと、たまたま国王の行幸を目撃したミルファークが語ってくれたことがあったから、きっとそういう血筋なのだろう。建国の祖、グスタフ大王も、肖像画ということを割り引いてもかなりの美丈夫だし。
 きっと、女の人も放っておかないんだろうな。宮廷の醜聞や噂話とは無縁のエルゼリンデでも、それくらいは想像がつく。
 もし、自分が「女」として出会っていたら?
 することがなくて暇を持て余したエルゼリンデは、徒然と空想してみた。自分も貴族の令嬢らしく、殿下の歓心を買って、あわよくば結婚できるよう振舞うのだろうか――肝心の歓心とやらをどうやって買ったらよいものか、さっぱり見当がつかないけれど。
 だがそれはまったく現実味のない想像だった。多分、今と同じく呆れられるだけのような気がするし、なにぶん相手のいる場所が雲の上すぎる。殿下のお妃だなんて自分には荷が重いどころか、そもそも身分差からして天地がひっくり返ってもありえない。
 まあ、絶対になれないと思うけど、と心の中で付け加える。王族や大貴族と結婚したって、贅沢な暮らしはできるだろうが、そのぶん大変な思いをすることは容易に思いつく。下手をすれば何十人にもなる愛人と渡り合う自信も才覚も、エルゼリンデにはなかった。もう15歳だから自分も近い将来結婚するのだろうが、父のような真面目で誠実で優しい人と慎ましい生活を送るのがささやかな理想なのだ。
 そこまで考えて、ふとエレンカーク隊長の顔がよぎったものだから、エルゼリンデは大いに狼狽してしまった。
 一人で顔を真っ赤にしていると、
「……何をさっきから百面相してるんだ?」
 にわかに横から低い声がかかり、エルゼリンデは口から心臓が飛び出してしまうんじゃないかと思うほどに驚いた。
 いつの間に目覚めていたのだろうか、アスタールの蒼い目がこちらを捉えている。慌てふためくエルゼリンデをよそに悠々と座り直した殿下は、なおも訝しげな視線を寄越した。
「で、人の顔をじろじろ見ながら、何を考えていたんだ?」
「――!!」
 何気なく放たれた一言は、彼女の動揺をいっそう深めた。まさか殿下との結婚がどうのだとか、そんな非現実的かつ他愛もないことを考えていたなんて口が裂けても言えない。
「すすす、すごくくだらないことなので、き、気にしないでくださいっ!」
 舌をもつれさせながら答えて、頭を勢いよく振る。
「ええと、そ、それでっ……ほ、ほほ本日は何の御用でしょうか!?」
 話を逸らしたい一心で、気がつけばエルゼリンデは自分にとってあまり思わしくないであろう本題を持ち出していた。
「ああ、そうだったな」
 幸いにもアスタールは深く追求しないでくれたので、エルゼリンデはこっそりと安堵の息を漏らす。王弟殿下は身体の横に置いていたらしい一抱えの籠を、まだ頬を赤く染めたままの彼女の前に持ってきた。この前と同じパターンで、昼食が入っているようである。
「お前にひとつ訊いておきたいことがあるんだが」
 中から羊肉のピラフの入った器を彼女に手渡しながら、アスタールが切り出した。先ほどの不吉な予想が再びエルゼリンデの体中を駆け巡り、今度は顔面を蒼白にする。
 身を強ばらせて次の言葉を待つエルゼリンデに、王弟殿下はこう言った。
「騎士団での生活はどうだ?」


「はっ…………はい?」
 不吉な宣告――ではなく日常会話のようなその発言に、エルゼリンデは少なからず拍子抜けしていた。
「以前言っただろう。武門の出じゃない貴族は不当な扱いを受けやすいと」
「あ」
 ようやく質問の意図を把握して、小さく声をあげる。どうやら最悪の展開にならずに済んだと胸を撫で下ろす一方、さてどうしたものかと戸惑った。遠征前の訓練のことは、あまり進んで話したくない思い出であるからだ。
「別に何事もなければそれでいいんだが、お前のように見るからに騎士向きの体格じゃない者は、過去の例を鑑みてもそのような扱いをされることが多いからな。それに、少し前に第三騎士団から処罰者が出たと言う話も耳にした」
 ガージャールたちのことだ。エルゼリンデはぎくりとした。何もなかったと嘘をついてしまおうかとも思ったが、しかしアスタールの真摯な表情を見て、それは許されないように感じた。
 ……そういえば、殿下は軍隊の改革に取り組んでるって聞いたっけ。
 この問いかけも関係しているんだろう。だったら、嘘は良くない。
 思い直したエルゼリンデは、ピラフの器を抱えたまま背筋を伸ばし、ぽつぽつと語り始めた。ガージャールたちのこと、変な噂が流れたこと…と。詳細に説明することは何となく嫌だったので、すぐに話し終えてしまったが。
 アスタールはその間、一言も口をはさむことなく、黙然と耳を傾けていた。エルゼリンデが口を噤んでもなおそのままだったので、彼女はまたしても居た堪れなさを味わうこととなった。
「……なるほど」
 しばらくして、アスタールがようやく言葉を発する。
「やはり未だそのような行為が横行してるか」
「あ、でも、今はもう何ともありません。エレンカーク隊長やレオホルト隊長も、良くしてくれているので」
 あまりにも深刻な表情をしているものだから、慌てて付言する。彼女の言葉を聞いて、アスタールは眉を上げた。
「エレンカーク……スヴァルト・エレンカークか」
 確認するような口調で呟く姿を見て、エルゼリンデはエレンカーク隊長が黒翼騎士団に所属していたことを思い出した。だとすれば当然、団長である王弟殿下も知っているだろう。
「それは運が良かったな。だが、もしエレンカークがいなかったら、お前は今頃ここにいることすらできなかったかもしれないだろう」
「……」
 エルゼリンデは返す言葉がなかった。まさしくその通りだったからだ。
「上に立つ人間の意識も変わらないと、いくら規律を変えたところでなかなか浸透していかないものだ。こと第三と第四の団長は、頭が固いことで有名だからな」
 アスタールは嘆息を落とし、鋭利に整った顔を自嘲気味に歪める。
「法に明記すれば、表面化こそしなくなるがその分地下に潜りやすくなるとはよく言ったものだが……確かに、俺のやっていることは理想論でしかないのかもしれない」
 独り言のような、というより明白な独白を耳にして、エルゼリンデは意外さを隠せなかった。自分よりはるかに恵まれた地位にいるはずの王弟殿下でも苦労することがあるのだ、という事実にである。下っ端の偏見かもしれないが、華やかな王族や貴族はそういったものに無縁だという思い込みがエルゼリンデの中にも例外なくあっただけに、目から鱗が落ちる思いだった。
 しかし、だからといってアスタール殿下に何をどう答えていいものか、エルゼリンデには分からなかった。気の利いたことなど返せるはずがないのは自覚していたし、そもそもはじめから彼女の返答など求められていないだろうことは、ぼんやりと感じ取れた。そうすると、自分はまだまだ子供だと思い知らされて情けなくなる。
 エルゼリンデは降りかかった沈黙に戸惑う余裕もなす術もなく、膝の上に置いたピラフをじっと凝視するだけだった。

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