第23話

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 到着から6日後、遠征軍の本隊はレークト城を出発した。次の中継地点はフロヴィンシア城、そこまでおよそひと月の間、長い行軍と野営が始まる。
 ここでは、色々とあったなあ。
 城下の民の見送りを受けながら、エルゼリンデは馬上でこの6日間の出来事を回想した。黒翼騎士団員と相部屋になったことやレオホルト隊長の突然の告白にも驚いたが、何より王弟殿下と再会するとは夢にも思わなかったので、これが一番の驚きだった。おまけに昼食までご馳走してもらったし。
 しかし、である。
 エルゼリンデは変な顔で先日のことを思い返していた。
 アスタール殿下に、怒られてしまった。つまり、不興を買ってしまったということだ。そう思うと、背筋がぞっとする。自分が怒られるならまだしも、もし父がとばっちりを受けてしまったらどうしよう。殿下は周囲からの評判もいいから私情だけで滅多なことはしないだろうが、そうは言っても易々と気の休まる話ではない。
 でも、とエルゼリンデは胸中で異論を唱えてみる。怒られたのだって、ちょっと理不尽な気もする。何せ、自分がなぜ怒られたのか、当のエルゼリンデ自身にも把握できていないのだから。変なことを言われて突然怒られた。それが彼女の認識である。
 それにしても、自分のあずかり知らぬことで嫌われたり、好かれたり、怒られたり……世間は色々と難しいものだ。
 そうして、遠征軍が追加の人員や物資を合わせて膨れ上がったように、エルゼリンデの心の荷物も増えてしまった。それも、かなりの重さをともなって。レークト城に置いていきたいなあと考えても、一度抱え込んだものをほいほいと手放すこともできない。エルゼリンデは憂鬱をたっぷり含んだため息を吐き出した。すると、
「おいおい、やけに辛気くさいじゃないか、未来の我が弟子よ」
 からりとした声が、すぐ真横で聞こえてくる。この6日間で聞き慣れたが、それにしてもいまこの場でその声がするというのはおかしい。空耳だろうか。眉を顰めつつ横に視線を動かすと、濃茶の双眸とかち合った。
「シュ、シュトフさん……!?」
 エルゼリンデが仰天したのも当然だ。ここは第三騎士団の隊列で、黒翼の騎士はもっと前にいるはずなのだから。一瞬、ぼんやりしていて自分が間違えたのかとひやりとしたが、すぐうしろにはナスカがいるし周囲も見知った顔ばかり。ちなみにすでに市門を抜けて農村を通過している最中だと、ようやく気がついたのもこのときである。
 どうしてここに、と問うよりも早く。
「おい、そこの不良騎士」
 鋭い声が後方から飛んできた。振り返ると、崩れ始めた隊列を縫ってエレンカーク隊長が馬を進めてくるのが見える。
「何でてめえらがここにいるんだ」
 てめえら? エルゼリンデはちょっと首を傾げてシュトフのほうに目を戻すと、すぐ傍らに薄い金髪の騎士がいた。シュトフの同僚のカルステンスである。
「何でって、まあ、暇つぶしと隊長への挨拶を兼ねて未来の弟子の様子でも見ようかな、と思っただけですよ」
 シュトフは抜け抜けと応じた。エレンカークは軽く眉を上げると、鋭い目をカルステンスに向ける。カルステンスはどこか呆れたように肩を竦めた。
「昨夜、うちの隊長と女のことで喧嘩しましてね。シュトフに全面の非があるので、居づらくなったんじゃないんですかね」
「何言ってるんだ。心の狭い隊長の顔なんざ拝みたくなかったからだぞ。まったく、何であんなネチネチした男がもてるんだか」
 シュトフはカルステンスを睨みつけたあと、そう慨嘆した。
「どっちもどっちじゃねえか」
「まったく同感ですね」
 エレンカークとカルステンスが呆れ顔で断じる。それから、エレンカーク隊長の褐色の目が呆気にとられているエルゼリンデを捉えた。
「ところで、未来の弟子って何のことだ?」
「気にしないほうがいいですよ。とてもくだらないことですから」
 隊長の疑問に即答したのはカルステンスである。
「くだらないって、お前な、失礼にもほどがあるぞ」
「事実だろう」
「……」
 シュトフの抗議をカルステンスは冷然と受け流した。やっぱり仲が良さそうに見えるけど。エルゼリンデは彼らの様子を傍観しながら、その認識を強くしていた。
 ともあれ、シュトフとカルステンスのおかげで行軍が明るくにぎやかになったのは、何かと悩みごとの多くなってしまったエルゼリンデにとっては幸いだった――従騎士のナスカは、露骨に嫌な顔をしていたけれど。




 その出来事が起きたのは、クート城の次の城塞、バーナルディンでのことだった。
 小さい城塞のため、遠征軍の上層部を除いた騎士たちも周囲の草原に天幕を張って駐屯していたが、その日エルゼリンデはレオホルト隊長に使いを頼まれて城塞内にやって来ていた。
 レオホルト隊長は、レークト城での一件以来、何事もなかったかのように振舞っている。あまりに自然すぎて、あれは夢だったんじゃないかと疑ってしまうほどだ。そんなものだから、エルゼリンデも彼を前にして返事をすることができず、戸惑うようなほっとしたようなもやもやとした気持ちを引きずっていたのだった。
 今日のお使いは、家畜補充の申請書の提出である。第三騎士団の騎士数人が家畜を奪って軍隊から逃亡してしまったためだ。あらましを聞いたときは驚いたが、遠征ではわりとよくあることらしい。
 書類を無難に提出し終え、ほっと一息つきながら天幕への帰途を辿り、厩の横を通り過ぎようとしたときだった。
 突然、厩のほうから男の怒鳴り声と鞭がしなる鋭い音が聞こえ、エルゼリンデはびくっと身を竦めて立ち止まった。気になって足をそちらへ向ける。
 目の前に飛び込んできたのは、あるいはありふれた光景だったのかもしれない。身なりのいい若い騎士が、従者らしい少年を鞭打っていたのだ。しかしエルゼリンデにとっては、見慣れぬ、そしてまったく不愉快な光景であった。
「な、何してるんですか!?」
 矢も楯もたまらず、エルゼリンデは声をあげて駆け出していた。若い騎士の碧眼が不意に現れた闖入者に定め置かれる。
「き、騎士ともあろう人がそ、そんなことをするだなんて、道に背きます」
 勇気を奮い立たせて騎士を睨みつけると、彼の端整と言ってもよい顔が不快に歪められた。
「君みたいなチビに騎士の心構えとやらを説教される覚えはないね。それにこれは僕の従者だ。僕の好きなように扱って何が悪い」
 少しも悪びれない態度で反論してくる。
「そもそもこれが、僕の馬の手入れを怠ったから、懲罰でやっていただけだ。叱っていただけじゃないか。それのどこが悪い」
「だ、だからって、や、やりすぎなんじゃないですか?」
 うるさい、と言わんばかりに若い騎士はかぶりを振り――はたとその動きを止めた。何やら軽く眉根を寄せて、エルゼリンデの顔を凝視する。
「……ああ、その顔……ひょっとして、イゼリア子爵の息子か?」
 思いも寄らない言葉を投げられて、エルゼリンデは藍色の双眸を瞠った。
「ふうん、なかなか元気でやってるようじゃないか……気に入らない顔つきだけど」
「……どうして、私のことを?」
 警戒した表情で訊ねるも、騎士は薄ら笑いを張りつけたまま、ふとエルゼリンデの肩越しに視線を転じた。
「ああ、ほら。君の従騎士が来てる」
 なかば反射的に顧みると、いつの間にやって来ていたのか、赤銅色の肌をしたナスカが少し離れた場所に佇んでいる。そちらに気を取られているうちに、若い騎士は鞭をしまってナスカとは逆の方向に歩き始めた。彼に促された従者の少年は、暗い表情のまま立ち上がって、エルゼリンデのほうは見ずに騎士に従う。
「ま、せいぜい生き残れるよう頑張ることだね」
 謎の騎士はその一言と嫌な感じの笑顔を残して、彼女の前から去っていった。


 ――いったい、あの騎士は何者だったんだろう。自分のことを知っていたようだけど。
 何が何だか分からぬまま、茫然と立ち尽くすエルゼリンデの背中に、従騎士の冷ややかな声が当たる。
「ミルファーク様」
 はっと我に返って、ナスカを見やる。彼は相変わらずの無表情で言葉を続けた。
「先ほどのあれは、良くなかったと思います」
 どうやら今の件を言い指しているようだ。良くなかったって? エルゼリンデが逆に問いかけると、従騎士は珍しく彼女の藍色の目をまっすぐに見返した。
「ああいう場面で従者を庇っても、何も解決しません。むしろお前のせいで誇りを傷つけられた、などと言いがかりをつけられ、いっそうひどく折檻されるだけです」
 ナスカの説明に、エルゼリンデは愕然と言葉を失う。
「ミルファーク様は親切のつもりでやられたんでしょうが、何も知らぬ第三者からの好意は、迷惑以外の何物でもないのですよ」
「…………」
 口調こそ淡々としていて、咎めるふうでもなかったが、その分エルゼリンデを襲った衝撃も大きかった。
「そんな……」
 唇がわななく。晴天にもかかわらず、視界が一瞬にして暗くなる。
 そんなつもりじゃなかった。ただ、目の前の理不尽な仕打ちを止めさせたい一心だったのだ。自分も少し前まで似たような体験をしたから、余計に放ってなどおけなかった。
 それなのに、自分のしたことは、迷惑だったのだろうか。間違っていたのだろうか。
 ショックのあまり何も言えないで立ち竦むエルゼリンデに、ナスカは表情を変えずこう言った。
「今回のことはいい勉強になったでしょう。次からは気をつけていただければ、それで良いのですから」
 早く陣に戻りましょう。そう促して、ナスカは背を向ける。彼の姿が遠ざかっても、エルゼリンデはしばらく動けなかった。が、このまま立っていても何にもならないことを悟り、蒼ざめた顔のまま従騎士の後を追った。

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