第25話

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 華やいだ周囲とは対照的に、エルゼリンデは曇り顔を引きずっていた。
 原因は無論のこと、今日同室になったばかりのセルリアンにある。
 はあ、どうしよう。給仕から受け取ったぶどう酒のグラスを手に、ため息ひとつ。フロヴィンシア城主、つまりフロヴィンシア総督の好意による、歓迎式を兼ねた夜会の席にありつけたと言うのに気分はどんよりと沈んだまま。壁に寄りかかって広大すぎる広間に散らばる大勢の騎士を眺めながら、エルゼリンデの思考は先刻へと巻き戻っていった。


「二人っきりになれたのは、王都で以来だね」
 栗色の髪と鳶色の双眸を持つ少年は、自分よりもずっと可憐な笑顔を浮かべて、エルゼリンデの隣に腰掛けてくる。思わず腰が引けてしまった彼女に構わず、セルリアンは続けた。
「嬉しいな――ミルファークとは、色々と話したいこととかあったし。そう、色々とね」
 エルゼリンデが寝台に座ったままじりじり後ずさる都度、セルリアンがにじり寄ってくる。そして不意に少年の白い手が頬に当てられたので、エルゼリンデは咽喉の奥で呻いて身じろぎした。
 セルリアンは、彼女の怯えた反応を見て、満足げに鳶色の大きな瞳を細める。
「ふふ。今日のところは挨拶程度にしておいてあげる」
 片手はすぐに離されたので、エルゼリンデは全身の力は抜かないまでも、僅かにほっとしていた。「今日のところは」と言う部分には、大いに引っかかっていたけれども。
「それにしても、偶然とは言えこうして同室になれるなんて、神様の思し召しかも知れないね」
 少年が満面の笑みで言う。エルゼリンデは顔を引きつらせた。
 セルリアンの口から「偶然」という言葉が出てきても、まったく真実味を帯びて聞こえないのはなぜだろう。そう、胸中で首を傾げるエルゼリンデだった。




「何しけた面してんだよ。せっかくの歓迎式なのにさ」
「――!?」
 愉快ではない回想は、唐突に闖入してきた陽気な声に中断された。すぐ真横に目を向けると、エルゼリンデと同じく騎士服に身を固めたザイオンが不思議そうな表情で自分の顔を覗き込んでいた。
「あ、ザ、ザイオン、いつからそこに?」
「いつって、今さっき」
 驚きに速まる動悸を抑えながら訊ねると、ザイオンはそう答えて眉根を寄せた。
「お前さあ、最近、ぼんやりしてること多いよな……って、ぼけっとしてんのは前からだけどさ、なんか、今はちょっと違う感じなんだよな」
 エルゼリンデは目を瞬かせた。ザイオンが鋭いのか自分が分かりやすいのかは微妙なところだが、悩んでいるのを勘付かれていることは確かだ。心配させて申し訳ないなと思いつつ、何と答えればよいものやら迷っていると。
「もしかして、戦いに行くのが怖くなったか?」
 黄土色の双眸を不敵に閃かせ、ザイオンが重ねて問いかけてくる。
「そんなことないよ」
 弱虫扱いされたようで、エルゼリンデはむっと頬を膨らませた。そもそも戦争自体、未経験の身では漠然とした想像の世界でしかないのだ。具体的な恐怖が伴うはずもない。それはザイオンとて同じことだろう。
 そのザイオンは彼女の表情を見て、今度は悪童めいた笑みを覗かせる。
「ようやっと、元の調子が戻ってきたか」
 どこか安堵した口調に、エルゼリンデもつられてほっとした。ザイオンと話していると、自然と心が解れていく感じがする。
「んで、結局何があってそんな憂鬱そうにしてたんだ?」
 いたって気軽に訊ねられると、答えるほうも気楽になるものだ。
「うん、それが……」
 エルゼリンデは嘆息混じりに、セルリアンと同室になったことを告げる。すると、ガキ大将の雰囲気を残す少年の顔から笑顔がさっと引いていった。
「うっわ、マジで? ……お前って運がいいのか悪いのかよく分からないよなあ」
 さすがの彼も、心の底から同情した眼差しを不幸な同僚に向ける。まったくだ。強くそう思いながら肯くと、ザイオンがこんなことを提案してきた。
「変わってやろうか?」
「え?」
 我が耳を疑って、エルゼリンデが訊き返す。
「だから、部屋だよ。本当はいけないんだろうけど……お前には、借りもあるしな」
 ザイオンはちょっと気まずそうに顔を顰めて、日焼けした頬を掻いた。借りって何だろう? 何にも貸した覚えはないのだけど。エルゼリンデはそれが何なのか分からず首を捻る。
「あいつと一緒にいて、もし、また変な噂が立ったりしたら困るだろ?」
「……あ」
 そこではじめて、エルゼリンデは遠征前の訓練時のことに思い当たっていた。ザイオンはそのときの二の舞にならないか、憂慮してくれているのだ。
 真顔になった歳の近い同僚に対して、しかしエルゼリンデは頭を振った。
「……ううん、大丈夫だと思う」
 もしもザイオンがセルリアンの毒牙の餌食にでもなろうものなら気の毒だし、自分の心中も穏やかではないだろう。
「本当に大丈夫か?」
 ザイオンは愁眉を崩さぬままであったが、エルゼリンデは「大丈夫だってば」と精一杯明るい口調をつくって答えた。
「ならいいけどな。まあ、何かあったら力になるからさ…今度こそ。それに今はオレだけじゃなくて、エレンカーク隊長とかもいるし」
 少し早口でまくし立てて、照れ隠しなのか、エルゼリンデの顔から広間の一点に視線を動かす。つられてそちらを見やると、レオホルトら隊長格の騎士たちと談笑するエレンカーク隊長の姿がある。騎士服に身を包んだ彼は、体格的に恵まれていると言えないものの傍らのレオホルト隊長や、はるか遠い場所で偉そうな人たちに囲まれている王弟殿下よりも格好良く、エルゼリンデの目には映った。それは単なる贔屓目ではない…と思いたい。
 試しに隣のザイオンに今思ったことを告げてみると、
「うん、確かに」
 と我がことのように得意げな表情で同意を示す。
「でも、アスタール殿下もやっぱり凄い人だったぞ」
「……そっか、ザイオンはこの前手合わせしてもらったんだっけ」
「おうよ。圧倒的な力量の差を感じたけどな」
 まるで獅子と鼠だった。ザイオンは腕組みをして自分と黒翼騎士団長を評する。
「そうなんだ……」
 エルゼリンデは顔を僅かに蒼くして、遠くのアスタール殿下をちらりと一瞥した。そんな殿下を怒らせてしまった自分はいったいどうすればいいんだろう。
 彼女の胸中とは裏腹に、ザイオンは暢気な声で話しかけてくる。
「何か食いもんでも取ってくるか。まだ何も食ってないんだろ?」
 ちょっとそこで待ってろと言い残すと、豪勢な食事の並ぶ円卓が林立する中央へと歩いていく。エルゼリンデがややぼんやりと彼の後ろ姿を見送っていると、ザイオンの元に近づく影がひとつ。淡い色の綺麗なドレスを着た令嬢である。年の頃はちょうど自分と同じくらいだろう。彼女は上品な笑顔を浮かべ、ザイオンに優雅な一礼を送った。ザイオンは急な出来事に戸惑ったようだが、何とかぎこちないながらも返礼し、そのままなにごとか少女と言葉を交わしている。
 今日の夜会には、貴族や有力商人らの婦人、令嬢がたも少数ながら出席しているのだ。エルゼリンデは今更ながらそのことに気がつき、ぐるりと広間に視線を巡らせてみた。
 着飾った女性たちの中には、自分と同じ年頃の少女も多い。彼女らを眩しそうに眺めたあとで自分の姿を見下ろすと、ふといつかのモヤモヤが再び胸中をもたげた。服装のせいもあるのかもしれないが、今の自分は周囲から「頼りない少年」に見られるほうが自然だろう。2ヶ月前に比べて背は少し伸びたものの、相変わらず女性としての成長の兆候すらない。
 綺麗だなあと、女性たちを見て思わずため息が漏れる。
 エルゼリンデにはこれまでドレスを着て夜会に出席した経験はない。きっとこれからもないだろう。
 もちろん年頃の少女であるから、一度くらい綺麗に身を飾って素敵な人とダンスを踊ってみたいなと思うこともある。
 そこで何気なくエレンカーク隊長らのいた方向に目をやって、エルゼリンデはどきりとしてしまった。
 隊長たちの輪の中に、妙齢の女性が二人加わって談笑している。
 ただそれだけなのに、その様子を目の当たりにしたエルゼリンデは慌てて視線を外す。妙に胸がどきどきして、それなのにずきりと痛む。どうしてだろう。自問するも、答えはどこからも返ってこない。そのうち、ふいに目頭まで熱くなってきたものだから、エルゼリンデはびっくりして何度もかぶりを振った。
 もう一度騎士服を着た自分の姿を目でひと撫でして、唇を噛む。
 兄と、男と偽ることを選んだのも決めたのも自分自身だ。だから周りの女性たちと比較して悲観する気持ちにはならない。なってはいけないのだ。
 それに。

 ――本当は、自分は騎士ではない。

 嘘をつき、周囲の目を欺いて、おまけに女が剣を取ってはならないという不文律の規律まで破っている。そんな罪悪感は、顔を覗かせるたび、エルゼリンデの良心をちくりと刺激していた。
 ガージャールらが処罰されたと聞いてもすっきりしなかったことや、王弟殿下に騎士団での様子を問われたときあまり気が進まなかったのは、自分も嘘をついていて規律に反していると言ううしろめたさもあったのかもしれない。やむをえない事情があるとは言え、嘘は嘘だ。
 けれど、とエルゼリンデは口角を引き結んだ。社会的な公正さよりも、イゼリアの家と家族を優先した以上は何としてでも、何があってもちゃんと男だと偽りとおして頑張らなければ。
 綺麗なドレスや夜会への憧れを振り切るように亜麻色の頭を振り、エルゼリンデは表情を引き締める。
 その藍色の目に、いつの間にか令嬢と別れたザイオンが料理を取り分けた皿を手にこちらへ戻ってくる姿が映った。

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