第29話

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 ひゅっと冷えた空気を縦に裂く。
 エルゼリンデは気難しげな表情で、剣を何度も振り下ろしていた。
 バルトバイム伯の孫との結婚といい、先ほどのセルリアンといい、わけの分からないことだらけだ。だが、わけの分からないながらも、先行きへの漠然とした不安は肌で感じていた。
 それを振り払うように、エルゼリンデはなおも剣を振り続ける。
 せっかくザイオンと街へ出かけて気分を晴らしたというのに、そのあと立て続けに嫌なことが二つも襲ってくるなんて。セルリアンが出て行ってからしばらくは寝台に横になって唸っていたのだが、不意に体を動かしたくなって、こうして宿舎の裏にやってきた次第である。
 額に汗が滲みかけたところで、いったん木刀を下げる。息を吸い込むと、乾いた冷たい空気が肺に流れ込んだ。快い疲労感が体を包んでいたし、気分もすっきりしている。
 やっぱりこうやって、うじうじ悩んでいるより体を動かしたほうがいいな。エルゼリンデは確固たる思いで肯くと、周囲をぐるりと見回した。辺りはもう薄暗く、気温も先刻より下がってきている。もう夕食の時間だし、そろそろ戻ったほうがいいだろう。エルゼリンデは兵舎のほうに引き返した。
 急にその足が止まったのは、自分の宿舎の入り口に差し掛かったところだった。少し離れた、石造りの建物が並ぶ一角が何やら騒がしい。松明の明かりが宵闇を皓々と照らし、その下に十数人の騎士が屯している。事件でもあったかのような様子だ。
 何だろう? エルゼリンデは野次馬根性を抑えきれず、そちらへと方向転換する。
 やはり彼女と同じ考えの者も多いようで、その場に集まった騎士の半数以上は野次馬らしかった。人の壁の隙間からどうにかその中心を覗き込むと。
 だらりと垂れ下がった人の腕が視界に入ってきて、エルゼリンデはどきりとした。
 脱力しきった騎士が、二人がかりでどこかへ運ばれていく途中だった。顔は血の気が失せ、その両目はいっぱいに見開かれたまま、ぴくりともしない。既に死んでいるのは遠目にも分かる。視線をまた中心へ転じると、地面にうつぶせに倒れた騎士の姿。こちらも絶命しているようだった。
 ただならぬ空気にかすかな不安を覚えたエルゼリンデは、野次馬たちの顔を視線で一巡した。そして見知った顔を発見し、声をかける。
「ウェーバーさん」
 同じ団のハインリヒ・ウェーバーは渋い顔で目の前の光景を見ていたが、後輩とも言うべき小柄な騎士の存在に気づいて表情を寛げた。
「よう、お前さんか」
「何があったんですか?」
 すぐ傍まで近づき、小声で訊ねる。ウェーバーは再び眉根を寄せた。
「ああ、単なる脱走騒ぎだ」
 不審な動きをしていた二人の騎士が見回りに見咎められ、その際剣を抜いて見回りの騎士を殺傷しようと試みたが、あえなく返り討ちに遭ってしまった。ウェーバーは声を潜めつつ、やや早口に説明した。
「その見回りが、エレンカーク隊長だったっていうのが不運だったな」
 エルゼリンデは藍色の目を瞬かせると、慌てて騎士の群れからエレンカーク隊長の姿を探す。小柄な隊長は、抜き身の剣を握ったまま周囲の部下たちに何やら指示を出しているところだった。近くにはレオホルト隊長もいる。
 エレンカークの手に握られた刀身からは血が滴っており、エルゼリンデはまたしてもぎくりとしてしまう。
 そのうちに、騎士の一人が野次馬たちにこの場を去るよう声を張り上げた。ウェーバーを含め関係者以外はあらかた夕食に向かったが、エルゼリンデは少し距離を置いたものの、なぜだか足を動かすことができないでいた。立ち竦んだままぼんやりと、もう一人の遺体が運ばれていくのを見送る。
「ミルファーク」
 不意に声をかけられ、エルゼリンデははっと我に返った。声の方向に首を動かすと、長い金髪をうしろでひとつに束ねた、優美な物腰の騎士が足早に駆け寄ってくるのが目に映った。レオホルト隊長だ。
「まだこんなところにいたのか」
 速く現場を離れるように。そう告げられ足を食堂のほうへ向けかけ、エルゼリンデはふと動作を止めてレオホルト隊長を仰ぎ見る。
「あの、隊長」
 気がついたときには口が勝手に動いていた。
「あとでお話したいことがあるんですが」
 こんな、脱走事件が起こった直後に無関係の話題を切り出すのは不謹慎かもしれない。そんな考えが頭をよぎるも、この前の件に決着をつける絶好の機会だと、もう一人の自分が囁きかけている。
 レオホルトは軽く目を瞠ってしばしの間小柄な部下を見下ろしていたが、やがて端整な顔を引き締めた。
「……夕食後で構わないか?」
 エルゼリンデは無言で、ぎこちなく肯き返した。




 何をどう告げたらいいんだろう。
 夜風に華奢な体を預けながら、エルゼリンデは早くも後悔を覚えていた。早いうちにはっきりしておいたほうがいい。いつか王弟殿下に言われたとおり、何とかしようとは思う。さっきもその一心であんな風に切り出したのだから。
 ところが、である。何とかしよう――その肝心の「何とか」とは具体的にどうすればよいのか、エルゼリンデにはよく分かっていなかった。
 やっぱり、断ったほうがいいのかな。そう思うものの、好意を打ち明けられただけで自分にどうしてほしいのかまでは言われていないのだ。それなのにどうやって断ればいいのだろうか。
 上手い言葉が見つからずに途方に暮れかけていると。
「すまない、遅くなった」
 張本人が現れ、エルゼリンデの体が緊張に強ばる。
「……あ、そ、その……す、すみません。お忙しいのにお呼びたてしてしまって」
 心の準備不足による動揺に支配されつつも、何とか用意していた台詞を口に出すことができた。
「いや、気にすることはない」
 頼りない星明りだけなのでうっすらとしか見えないが、レオホルト隊長は薄く微笑しているようだ。
「それで、話というのは?」
 訊ねられ、いまだにどう切り出したらいいか悩んでいるエルゼリンデは、目に見えて息を詰まらせた。
「え、ええと……その」
「――この前のことだろう。だいたい察しはついていた」
 静かな声音に確信を含ませ、レオホルト隊長が浅く頷く。
「それに私も、君に詫びなくてはならなかったしな」
「え?」
 エルゼリンデは意外な台詞を聞いて目を円くした。そうして優美な物腰の隊長を見上げ、その顔に浮かんでいるのが自嘲の笑みであることに気づく。
「私が一方的に思いを告げたせいで、君を困らせてしまっただろう。あれ以来元気のなくなった君を見るたび、心が痛んで仕方がなかった。この先何があっても悔いのないようにと、私は自分のことしか考えていなかったのだから」
 本当に申し訳ないことをした。率直に謝罪を述べるレオホルトの姿を、エルゼリンデは絶句したまま凝視していた。確かに唐突な告白には大いに驚愕し、戸惑いもした。だが少なくとも困ったり、ましてや迷惑に思ったことはない。
「あの」
 意を決したエルゼリンデは、苦悩を表すかのように唇を噛みしめるレオホルト隊長へ向け、口を開いた。
「あ、あのときはびっくりして、失礼な態度を取ってしまったかもしれません……だけど、隊長のお気持ちは本当に嬉しく思っていますし、感謝しています」
 向こうはこっちのどこに好意を持ってくれるかなんて分からないんだからな、好きになってくれてありがとうと感謝の気持ちを持つことが大事なんじゃないか――いつぞやシュトフの放った言葉が耳の奥に反響する。なぜかカルステンスには呆れられてしまったが、そういう感謝の心は大切だと、エルゼリンデは信じていた。
 が、しかしそれだけで話は終わらないこともまた自覚している。
「……でも、その、隊長は上官として尊敬していますけど」
「分かっている」
 彼女の言葉を遮って、レオホルトはゆっくりとかぶりを振った。
「私の気持ちに君が応えられないことは最初から分かっていたのだから、無理に考えてくれなくてもいいんだ」
 戸惑いを覗かせるエルゼリンデに微笑を向けたが、苦しみを拭いきれていないのは夜目にも明らかだった。
 隊長の表情を目の当たりにして、ずきりと胸が痛む。
「……さあ、もう夜も更けてきたことだし、部屋に戻って休んだほうがいい」
 立ち竦んだままのエルゼリンデに、レオホルトは努めて普段どおり、隊長として声をかける。エルゼリンデは彼の顔を見上げたままだったが、何となく一人にしてほしいのかもしれないと感じた。
「……あの、私、これからも隊長の部下として、役に立てるよう頑張ります」
 何か言わなければと思ったが、何ひとつとして気の利いた言葉が出てきてくれない。もどかしさを抱え、それだけを拙い口調ながらも伝える。
「――私も上官として、部下である君が無事生還できるよう全力を尽くそう」
 小さく笑みを返すレオホルト隊長に深々と頭を下げると、エルゼリンデはなかば小走りに彼の許を離れた。
 胸が、細い針で刺されたみたいにちくちく痛む。
 自分がいくら好意を持っていたって、相手に応える気持ちがないと伝わらない辛さは、おぼろげながら実感できる。従騎士のナスカと自分との関係が、どこかそれを想起させるからだ。
 けれども、胸の痛みはそのことだけではなかった。
 ――自分はずるい。
 下草を踏みしめ宿舎を目指しながら、唇を噛み締める。結局自分からはっきりすることができずに、レオホルト隊長の優しさに甘えてしまった。それに、彼があれほど苦悩していたのはエルゼリンデを男だと思っていたからなのだろう。だとしたら困らせてるのも自分のほうなのだ。
 それでも、どうすることもできない。
 隊長の望む形で思いに応えることはできないし、自分が女であると告白することだってできない。だから、このぐちゃぐちゃの、混沌とした感情は自分の胸の中に飲み込んでおかなければならないのだろう――きっと。
 エルゼリンデは立ち止まり、冷えた空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
 そのときだった。
「ミルファークか?」
 不意に、誰かの声が夜風に乗って聞こえてくる。エルゼリンデは驚きのあまり心臓を止めかけながら、首を左右に動かして声の持ち主を探った。
「こんなところで何してやがる」
 自分を射抜く、鋭い眼差し。
「エ、エレンカーク隊長……」
 エルゼリンデはおっかなびっくり呟いた。そういえば今日の見回り当番は、この鷹に似た目を持つ隊長だった。
「ちょ、ちょっと夜風に当たりに……その、眠れなかったので」
 エレンカークを前にしておちおち固まってはいられない。エルゼリンデは驚愕から何とか立て直すと、隊長の質問に答えた。正確とは言えなかったものの。
「それならいいが」
 エレンカーク隊長は肩を竦め、ふと話題を変えた。
「ところで、イーヴォを見かけなかったか?」
「――!?」
 またもや心臓に悪いことを訊かれてしまい、背中に冷たい汗が流れていくのを感じる。
「え、えっと……み、見てません、けど……」
 狼狽と嘘をつくことへのうしろめたさに苛まれながらも、どうしても事実を告げることはできなかった。だがあからさまに不審な態度だったので、当然ながらエレンカークは眉を顰める。そのまましばらく部下の表情を窺っていたが、
「……まあいい」
 幸いなことに今回は深く追及されず、エルゼリンデは思わず安堵のため息を漏らした。
 そんな彼女に対して、エレンカーク隊長は続けざまにこんな言葉をかけてくる。
「じゃあ、お前が代わりに付き合え」
「……は?」
 エルゼリンデはぽかんと口を開き、強面の隊長を見つめた。

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