第33話
「それで、どうするんだ?」
ゲオルグの抑えた声が耳に滑り込んできて、エルゼリンデはしばらくの硬直から脱した。
「どうする……?」
それでもまだ要領を得ない顔で、のろのろと彼のほうを向く。
「俺たちと一緒に脱走するかどうかだ」
脱走。エルゼリンデは固唾を飲み込んだ。頭と気持ちの整理がつかず、結論を出すどころではない。
「まあ、こっちもいきなりだったし、すぐに答えを出すのは無理だと思うけど」
なかなか口が開けずにいるエルゼリンデだったが、ゲオルグは彼女の心情を察していたようである。彼は目もとのあたりに深刻な翳りを落とし、続ける。
「ただ俺たちのほうにもあまり時間がない。明日の夜に返事を聞かせてくれるか?」
「……分かった」
エルゼリンデは大きな戸惑いを残しつつも、ゲオルグの必死さに押される形で首肯する。
「でもひとつだけ、訊きたいことがあるんだけど」
次いでそう切り出すと、4人の間に僅かな警戒と不審に身構える気配がたゆたった。
「――何だ?」
応じるゲオルグの声にもそれが見え隠れしている。エルゼリンデは気まずさを感じつつも、話を聞いたときから胸にわだかまっていた疑問を口にした。
「うん、その……なんで私が声をかけられたのかなって思って」
貴族減らしの噂の真偽や脱走しても成功の見込みはあるのかなど、ほかにも色々と首をひねることはあるのだが、一番気にかかっていたのがそのことだった。ゲオルグとは同じ分隊に所属しているとは言え、まともに会話を交わしたのは今日を含めて2、3回程度しかない。しかもこの場にいるほかの3人とは初対面なのだ。そんな自分が、何故?
「それは、ゲオルグの一存だからね」
最初に答えたのはやや高い声の騎士だ。彼の口ぶりからは、決して歓迎しているわけではないことがありありとうかがえる。そばに座る二人の騎士もその意見に追従したところを見ると、同じ気持ちであるようだ。エルゼリンデは少し体を揺すって、改めてゲオルグのほうを見直した。
彼は若干躊躇いつつ口を開いた。
「俺たちはみんな貴族とはいえ武門からは遠いから、正直言って腕にはあまり自信がないんだ。馬には乗れるけど、仮に戦闘になったら目も当てられないだろうからさ。その点、ミルファークは境遇も同じだし剣や弓も結構使えるだろ? だからそういう奴が一人でもいてくれると心強いじゃないか」
いったん言葉を切って、ゲオルグは肩を竦める。
「まあ、それも昨日街で偶然会って、そういえばこんな奴もいたなって思い返したからなんだけど。お前も騎士団では色々嫌な目にあってきてたのに、このまま見殺しにするのは忍びないし」
要するに護衛役として買われたらしい。何だか買いかぶられていると思わなくもないが、最後の一言には心がくすぐったくなるような気分を覚えていた。「いい人だ」という印象はやはり間違っていなかった。
それにしても、とエルゼリンデはふと別のことに思いを馳せる。昨日ゲオルグにばったり出会っていなかったら、きっと彼らの計画も今回の遠征の裏側も知らずにいただろう。それが幸運なのか不幸なのかは分からなかったが、偶然とは不思議なものだと感じ入らずにはいられない。
「それに」
ゲオルグが続けた言葉に、エルゼリンデの思考は中断した。
「お前なら、計画に加わっても加わらなくても、きっと信用できるからな」
やおら強い口調で断言され眉を顰めたエルゼリンデだったが、すぐにその発言の意味するところを読みとった。
このことは絶対に口外しないように。暗にそう言われているのだろう。
「……」
エルゼリンデは無言で肯いた。彼らのしようとしていることは、明らかな規律違反だ。だけどそれを咎める気は、エルゼリンデにはなかった。自分だって同じようなものなのだから。
「とにかく、そういうわけだから考えておいてくれ」
ゲオルグはそう告げて小屋を出るよう促した。集会に対する監視の目も厳しくなっているので、あまり長居はできないのだそうだ。
「だから明日の夜にここへ来るときも充分周りに注意してほしい」
彼らにそう頼まれ、エルゼリンデはもう一度肯いたのだった。
どうしよう。
ゲオルグたちとはばらばらに別れ、ひとり宿舎への夜道を辿りながら、エルゼリンデは必死に頭を働かせていた。
貴族減らしを行なうというのは本当なんだろうか。
あまりに唐突過ぎてどこか現実味を感じない出来事だったが、しかしバルトバイム家の跡取りとの結婚話のことを思うと、腑に落ちる部分があるのもまた事実。
このままだと、自分は殺されてしまうんだろうか。
夜風が容赦なく体温を奪っていく。エルゼリンデは身震いした。
――怖い。
足元から、冷気とともに得体の知れない恐怖が駆け上ってくる。
死ぬことは、やっぱり怖い。戦争に行くことだって怖いのに、行ったら行ったで確実に殺されることになるだなんて。
やり場のない恐怖と理不尽さに押し潰されそうになりながら、それでも懸命に足を動かしてやり過ごそうとする。
もし、ゲオルグたちに加わって脱走したら?
上手く逃げることができたら、自分は殺されずに済むだろう。
「でも……」
エルゼリンデは思わず声に出して呟いていた。口の中はからからに乾いている。
でも、そうしたら残された家族はどうなってしまうのだろうか。軍隊からの脱走は、いくらあとを絶たないからとはいえ、不名誉きわまりないことである。ましてや自分は平民ではなく、一応爵位を有する貴族の子弟だ。体面を重んじる貴族社会にあって、残された父と兄が無傷でいられるとは思わない。爵位の剥奪はむろんのこと、ともすれば自分の代わりに死刑に処されることだって充分考えられる。
しかも、イゼリア家の場合は事情が特殊なだけに尚更だ。自分と兄とが入れ替わっていたことが白日のもとに晒されてしまう可能性も高くなるだろう。そうなれば余計に立場は悪くなるに違いない。
エルゼリンデは俄かに立ち止まると、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。混乱と困惑とでごちゃごちゃになった頭の中が、急速に冷まされていく。
家族を犠牲にして自分ひとりだけ生き延びて、いったい何になるというのだろう。
それに、とエルゼリンデは掌をぎゅっと握り締めた。
自分がここで逃げ出してしまったら。
瞼の裏側に、エレンカーク隊長の姿が浮かび上がる。そうだ、あの厳格な隊長は、自分が少しでも生き延びられるように鍛えてくれているのだ。そして自分をライバルだと認めてくれているザイオンや、好意を持ってくれているレオホルト隊長、何かと目をかけて良くしてくれているシュトフやカルステンス――逃げ出してしまえば、きっと彼らの信頼を裏切ることになる。
そんなことはできなかった。死にたくない、死ぬのは怖いという恐怖よりも、誰かを裏切ってしまうことへの恐怖のほうが凌駕していた。
やっぱり、脱走するのはよくない。
エルゼリンデは自分の中で結論を出し、力強く頷く。
そしてゲオルグたちにも、このまま脱走してしまってほしくなかった。エルゼリンデの脳裏に、ゲオルグ・ヴァン・ウィンケルと初めて言葉を交わしたときのことが甦る。
薬や包帯をくれた際、ゲオルグは母親が大量に持たせてくれて、と語っていた。きっと母親は彼の無事を願い、心配しているからこその行為だったのだろう。もしも首尾よく脱走できたとしても、イゼリア家と同様、彼の家族だって無事ではすまないはずだ。ほかの名も知らぬ3人の騎士とて同じ。
エルゼリンデは再び歩き出した。
明日の夜、ゲオルグたちを説得してみよう。今の彼らは殺されることへの恐怖と怒りに囚われて冷静になれないだけで、家族のことを考えれば、きっと思いとどまってくれるはずだ。それに貴族減らしのことだって、逃げ出す以外に何か方法があるはずではないか。その方法とやらは今のエルゼリンデには全然見い出せないのだが、相談したり話し合ったりしているうちに何かいい案が出てくるかもしれない。
腹の中は定まった。それなのに、どういうわけだか不安が陰を落としているようで、エルゼリンデは宿舎に戻る足を速めた。
一度後ろ暗い情報を仕入れてしまうと、どうしても人目に敏感になってしまうらしい。
宿舎が近づくにつれ、街の酒場へ繰り出していた騎士たちや見回り当番とすれ違うことも多くなり、エルゼリンデは何食わぬ顔をするのに精一杯だった。知り合い、特にエレンカーク隊長に出くわさなかったのは幸運と言ってもいい。あの鷹に似た鋭い眼差しに射竦められたら最後、隠し通すことなど不可能である。
自室の扉の前でいったん立ち止まり、安堵のため息をひとつ。ここまで来れば大丈夫だろう。今はもう夜だから、多分セルリアンはいないのだろし。
そう思いつつ扉を開けると。
「ひゃっ!?」
突如として眼前を人影が覆い、エルゼリンデは驚きのあまり一歩退いてしまった。
扉のすぐ前に立ちはだかっていたのは、同室の少年だった。セルリアンは繊細な造りの顔に満面の笑みを湛えて、エルゼリンデのほうをじっと見つめている。
彼がこんな表情をするときは、だいたい良くないことの起こる兆候だ。
エルゼリンデの背を、冷や汗とともに嫌な予感が滑り落ちていく。
「……ど、どうしたの?」
何とか室内に入り、扉を閉めながら訊ねる。すると、セルリアンは笑顔を深くしてゆっくりとこう告げた。
聞いちゃった、と。