第34話

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 唐突に放たれたその言葉をなかなか理解することができず、エルゼリンデは立ち竦んだまま、自分と大して背の変わらないセルリアンの顔を凝視した。
「……聞いちゃったって、何を?」
 背中のあたりに嫌な予感を覚えながら、こわごわと訊ねてみる。
 セルリアンは満面の笑みはそのままに、鳶色の目だけを光らせてこう答えた。
「脱走、するらしいね」
「――!!」
 いともさらりと言ってのけられ、エルゼリンデは息を詰まらせた。彼女の反応が意に適ったものだったようで、栗色の髪をした少年はさらに顔の表面に刻まれた笑みを深める。
「ミルファークも加担するつもりなの?」
「ま、まさか!」
 ほとんど反射的に否定した次の瞬間、自分の失言を悟っていた。これでは自ら認めてしまったのと同じではないか。エルゼリンデは考えの至らなさに下唇を軽く噛み締めた。
「そうなんだ。ま、君にかぎってそんなことあり得ないとは思ってたけど」
 セルリアンは大きな双瞳を猫のように細め、くるりと回って部屋の中央へとゆっくり歩いていく。
「……そのこと、どうして?」
 エルゼリンデが自分から少しだけ遠ざかった華奢な背中に問いを投げかける。得体の知れない同僚は振り向かずに答えた。
「だから、さっき聞いちゃったんだってば。たまたまミルファークが珍しくいつもの田舎者とは違う奴らと一緒にいるのを見かけたから、後を追ってみたら、その話に遭遇したわけ」
 つまりは、ゲオルグと一緒に小屋に向かうところをこの少年に目撃され、挙句盗み聞きされてしまったということだ。
 よりにもよってセルリアンに知られてしまうなんて。
 エルゼリンデは思わず自分とゲオルグたちの不運を呪っていた。これがもしもザイオンやレオホルト隊長、たとえ規律に人一倍厳格そうなエレンカーク隊長であったとしても、「話せば分かって」くれるはずだ。
 しかし、今自分の目の前にいるのは何を考えているのかさっぱり見当もつかないセルリアン少年である。
 どうすればいいんだろう。
 次の出方も読めないまま、ただただ立ち竦むばかり。不安と緊張からか全身から血の気が引き、握り締めた両手がかじかんでくる。
「やっぱりさあ」
 と、不意にセルリアンが再びこちらに向き直った。笑顔に射竦められ、エルゼリンデはぎくりと体を強ばらせる。
「脱走は、良くないことだよねえ」
 暗黙のうち同意を強いられ、ぎこちない動作で首肯する。けれども、いまだ体と心の内に冷たい汗が流れ続けているものの、彼の言葉でようやく理性が復活しつつあった。何とか打開策を考えようと必死に頭を働かせる。
「ミルファークもそう思うよね」
 セルリアンは満足そうに頷いた。
「だいたい、ここまで来ておいて自分たちだけのうのうと逃げおおせようだなんて、許しがたい行為じゃない? 僕だって好きで参加してるわけじゃないって言うのにさ」
 言葉の後半で、僅かに顔を歪める。その様子を見て、エルゼリンデは咄嗟に口を開いた。
「そ、そういえば、セルリアンはどうして騎士団に入ったの?」
 話題を完全に逸らすことはできなくても、あわよくば妙案を思いつくための時間稼ぎくらいにはなるかも――淡い期待をいだいての質問だ。
 セルリアンはぐっと眉を顰めた。
「そんなの、君には関係ないだろ」
 いつになくむき出しの棘を含んだ言葉。エルゼリンデはそこにある危機を忘れて、しばしの間瞠目してしまった。
「……とにかく、さ」
 言った側は一瞬だけばつの悪そうな表情を閃かせたが、すぐさま話題を引き戻す。
「脱走は重大な規律違反なんだから、聞いちゃった以上は何とかしないと騎士としての示しがつかないよね」
「――!!」
 話が一気に悪い方向へ進んでしまい、エルゼリンデは息を呑んだ。セルリアンの言動にいちいち翻弄されてしまっていて、これでは打開策どころではない。どうして自分はこうも落ち着きが足りないんだろう。自己嫌悪に陥りそうになるのを辛うじて押し止め、エルゼリンデは怖々と発言の真意を訊ねてみた。
「何とかするって……どうするつもりなの?」
「そりゃあ、決まってるじゃない。ちゃんとしかるべきところに知らせておかないと。不正を見逃すなんてできないからね」
 と言うことは、薄々予想はしていたとおり上官に報告するつもりなんだ。そしてそれは、ゲオルグたちの死にも直結する。
 エルゼリンデの顔に更なる緊張が走る。
 もちろん、セルリアンがやろうとしていることは正しい。だけど。
「それはもちろんそうなんだけど、でも、そうするのには事情があって……だから」
「事情、ねえ」
 彼女の言葉を遮って、セルリアンが肩を竦める。
「それを言うなら、この戦争に参加してる人もみんな、何かしらの事情を抱えてると思うんだけど。お金のため、名誉のため、生活のため……戦いが好きで来てる物好きなんてほんの一握りしかいないんじゃない? ミルファークだってやむを得ない事情があって、ここにいるんでしょ?」
 正論のはずなのに、妙に引っ掛かる物言いだな。そう思って、すぐにあることに気がつく。そう、彼が一部始終を聞いていたのなら、エルゼリンデの言わんとしていた事情、すなわち貴族減らしのことも知っているはずなのだ。
 さっと少年の顔を見返すと、セルリアンは不敵な笑みを浮かべて続けた。
「どんな事情があれ、規律違反は絶対にいけないと思うな、僕は」
 試されている。彼の表情と口調から、エルゼリンデはほとんど直感的にその事実を悟った。同時に、こうも考えてみる。もしも本当に見逃すつもりがなかったとしたら、わざわざ自分にそれを告げるだろうか。
 出した答えは――否。
 おそらく何かを試しているのか、それか自分から何かを引き出そうとしているのか。あるいはチャンスを与えてくれているのかもしれないが、それが純粋な好意から来ているとは、さすがのエルゼリンデでも思えなかった。
 しかし、何とか上手くやればゲオルグたちや自分の窮地を切り抜けることはできるかもしれない。もっとも、後にどんな代償が待ち受けているのかを考えると視界が真っ暗になりそうなのだけれど。
 まるで、獲物をおびき寄せるために甘い芳香を放つ食虫植物のようだ。
 エルゼリンデはセルリアンから視線を外し、少しの間躊躇する。けれども今はとにかく時間がほしいという気持ちが勝った。
「あの……悪いことを知らせるのは当然だと思うけど」
 呼吸を整えてから、セルリアンに向かって切り出す。
「でも、少しだけ待っててくれないかな?」
「待つ?」
 声こそ疑問形だったが、心外さは微塵も窺えない。どういうこと、と続けて訊ねられ、エルゼリンデはなるべく慎重に答えた。
「明日、みんなを説得してみようと思ってて。それで思いとどまってくれたら…その、この話は黙っててほしいんだけど……」
「ふーん」
 セルリアンは愉悦を含んだ呟きを漏らす。
「要するに、ミルファークがそいつらを説得して思いとどまらせることができたら、脱走はなかったことにしてほしいってわけだね?」
 そのとおりだったので、エルゼリンデは無言で肯いた。すると、セルリアンの挑発的な笑顔が一層深くなる。
「つまりそれって、君が僕にお願いするってことだよね」
 確認を求める一言。胸中に遠雷が轟くのを感じる。ひょっとして、自分はとんでもない外れくじを引いてしまったんじゃないだろうか。
 頬に背中にじっとりと嫌な汗を滲ませるエルゼリンデに対し、セルリアンはわざとらしく困惑した顔を作って腕を組んだ。
「ほかでもない君のお願いとあっては、僕も引き受けてあげたいのは山々なんだけど……でも、それって仮にも不正に加担するってことでしょ? そうなると僕の立場も危険に晒されかねないからさ、こう、色々と迷うところだよね」
 わざとらしい上にまわりくどい言い方だったが、意図するところは彼女にも即座に把握できた。
「……何かすればいいってこと?」
「うーん、そうだなあ」
 セルリアンはすぐには返事をせず、腕組みしたまま顔を上向けて考えるそぶりを見せる。それから数秒ののち視線をエルゼリンデへと戻し、満面の笑みで口を開いた。
「じゃあ、ミルファークが僕の言うことを何でも聞いてくれるなら、いいよ」
 ぞわっと、不吉な予感が鳥肌と化して全身を駆け巡った。やっぱり選択を間違えたみたいだと自覚するも、今更どうにもならない。
 ど、どうしよう。
 エルゼリンデは目に見えてうろたえた。ロクなことにならないのはもはや明白だ。何せ、何を言われるか分かったものじゃない。誰かに喧嘩を売って来いとか、金品を強奪して来いとか、そんなとんでもないことを指図されたらどうしよう。
 でも。
 ゲオルグの人の良さそうな顔が瞼の裏に甦る。脱走計画が露見すれば、彼らは処刑されるだろう。悪人ではないのだ。薬や包帯だってくれたし。それなのに殺されるのを黙って見過ごすわけにはいかない。
「――分かった」
 エルゼリンデはぎゅっと眉根を寄せ、ゆっくりと首を縦に動かした。セルリアンはどこか探るような上目遣いで彼女を見やったあと、にこりと頷いた。
「分かってくれて嬉しいよ」
 そう言ってエルゼリンデのほうに近づいた、次の瞬間。


 視界がぐるりと反転した。
 背中には軽い衝撃。セルリアンの可憐な顔が目の前にあるのは変わらないが、肩越しには天井の木目が見える。
 寝台に押し倒された。その事実に気がつくまで数秒の時を要した。
「な、な、な……?」
 何をしようとしてるのか。突然の出来事に口と頭が上手く回らず混乱するエルゼリンデに向かって、セルリアンは艶やかに微笑んでみせた。
「それじゃあ、さっそく」
 さっそく? 疑問符を飛ばしたのもつかの間。
 視界が翳り、唇に柔らかい感触が当たった。
 何が起きてるのか俄かに把握できず、頭が真っ白になりかけたところで、不意に理性によらず悟っていた。
 自分が、セルリアンに、キスされている。
「――――!!?」
 途端に慌てふためき、エルゼリンデは少年の両肩を押して抵抗する。と、意外にもセルリアンはあっさりと顔を離した。
 あまりのことに声すら出ず、茫然自失状態のエルゼリンデをセルリアンが見下ろす。鳶色の双眸は冷ややかな光を帯びている。
「君ってさあ」
 押し倒した体勢のまま、呟く。
「本当に馬鹿だよね」
 セルリアンは皮肉げな表情を浮かべると、体を起こして寝台を下りた。
「顔と名前しか知らないような奴を庇って自分から進んで嫌な目に合うだなんて、気が触れてるとしか思えないね」
 たっぷりと毒と皮肉の含まれた言葉を、エルゼリンデはぼんやりと聞いていた。
「ま、今回はその馬鹿さ加減に免じて、ちょっとは君のことも考えておいてあげるよ」
 あからさまに興ざめした口調とともに、足音がどんどん遠くなっていく。
 扉の閉まる音が続き、どうやらセルリアンはどこかへ立ち去ってしまったようだ。
「…………」
 ひとりになっても動くことができず、エルゼリンデはただじっと天井を見つめていた。

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