第35話

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 それは、翌日の昼下がりに起こった。

 君って、本当に馬鹿だよね。
 セルリアンの揶揄を含んだ声が頭の中でぐるぐると回っている。
「馬鹿、かあ……」
「どうかなさいましたか?」
 エルゼリンデの呟きを聞き咎めたのか、ナスカが作業をしつつ視線を向けてくる。エルゼリンデは馬にブラシをかけていた手を止め、慌ててかぶりを振った。
「ううん、何でもない」
 そうですか。彼女の従騎士はいつもと変わらぬ無表情で頷くと、黙々と馬の手入れを続ける。
 エルゼリンデはこっそりとため息をついた。昨夜の出来事とセルリアンの顔が記憶にこびりついていて、自分の馬の世話すらままならない。
 馬鹿なのかも。
 それは自分でも否定できない。何と言ったって、よりにもよってあのセルリアンに唇を奪われてしまったくらいなのだから。
 ううっ。図らずもそのときの感触を思い出してしまい、エルゼリンデは眉を顰めて身震いした。男のふりをして騎士団で男ばかりに囲まれて、最近は自分でも違和感が薄くなってきていたのだが、やっぱり年頃の少女。初めてのキスは素敵な人と、と夢見ていたのに、無残にも打ち砕かれてしまった。
 がっくり肩を落としたエルゼリンデは、何気なくナスカのほうを見やった。
「あの、ナスカ」
「なんでしょうか」
 厩の箒がけをしながらナスカが応じる。
「私って、馬鹿だと思う?」
「……はあ」
 さすがの沈着な従騎士も、直球の問いかけには面食らったようだ。箒が地面を擦る、乾いた音が止む。
 仕える騎士に向けた黒い瞳には、珍しく驚きと不審の色が滲んでいる。
 エルゼリンデはいたって真剣だった。
 誰かに確認したかったのと、ナスカだったら忌憚なく答えてくれそうな気がしたからだ。
 しばしエルゼリンデの顔を凝視していたナスカが、口を開いた。
「はっきり言わせていただけば、馬鹿だと思います」
「……」
 本当に忌憚のない返答だった。
「ですが」
 これまた直球の答えが返ってきて何の反応も示せずにいるエルゼリンデに対し、ナスカは淡々と言葉を繋げた。
「あなたを馬鹿だと思わない人も、当然ながらいるでしょう」
 エルゼリンデは藍色の目をゆっくりと見開いた。まさかこの無愛想な従騎士の口から、自分をフォローするような言葉が聞けるとは思わなかったのだ。
「世間とはそのようなものです」
 まだ若いはずなのに妙に達観した口ぶりで呟いて、ナスカは再び手にした箒を動かし始める。
 厩舎には、馬がのんびりと鼻を鳴らす音と箒を掃く音。それらの音を右から左へ聞き流しながら、エルゼリンデは棒立ちのまま両の目をぱちぱちと瞬かせていた。
 意外な思いでいっぱいだった。
 あのナスカが、ちょっとでも自分に肯定的な言葉をかけるなんて。
 まあ、結局は馬鹿だと思われていることに変わりはないわけだが、それでも「馬鹿です」の一言でぴしゃりと締めくくられてしまうよりはずっといい。
 ちょっとは仲良くなれたってことかな。
 どんより曇った心に、少し晴れ間が差した気分だ。この調子だったら、ゲオルグたちの説得も上手くできるかもしれない――そんな楽観的な気持ちすらも湧き上がってくる。
「ありがとう、ナスカ」
 エルゼリンデは久しぶりににっこりと微笑んで礼を述べると、馬の手入れを再開した。ほんの少しの間、箒の音が止んだことには気がつかなかった。




 何だか騒がしいな。
 厩から兵舎のほうへ向かう道すがら、どうにも周囲の騎士たちが落ち着きなく動き回っている様子が気にかかった。
「何かあったのかな」
 首を傾げつつ一歩後ろを歩く従騎士を見やると、彼はエルゼリンデとはまったく対照的に、気に留めるそぶりすら窺えない。そんな沈着すぎる従騎士の手前、野次馬根性を発揮するわけにもいかず、周りを気にしながらも兵舎へと歩みを進める。
 そして、緩やかな下り坂に差しかかったときだった。
「どうやら脱走者が出たらしいな」
「またか。ここにきて急に増えたなあ」
 すれ違った騎士たちの会話がエルゼリンデの耳に飛び込んできたのだ。
 ――脱走者?
 どくり、と心臓が不自然に脈打つ。
 脳裏をゲオルグの人の好さそうな顔が掠める。
 まさか。胸の奥底から湧き上がってくる嫌な予感を、エルゼリンデは必死に飲み込んだ。
「どうかしましたか?」
 突然足を止めた彼女に、ナスカが声をかける。反射的にそちらを振り向くと、表情に乏しい従騎士の眉は僅かに顰められていた。きっと自分は今、凄い顔色をしてるのだろう。
 エルゼリンデは気を落ち着けるようにかぶりを振る。
「……なんでもない。ちょっと用事ができたから行ってくるね」
 ナスカにそう告げると、返事も待たずに騎士たちが向かっている方へ駆け出した。
 どのくらい走っただろうか。フロヴィンシア城の裏手、ちょうど厩舎とは真反対に位置する鬱蒼とした場所に人だかりができていた。そこは、エルゼリンデの記憶が正しければ、城の地下牢へと続く小道のはずだ。
 大丈夫。きっと別人だ。そうに決まってる。
 走ったせいばかりでない激しい動悸を抑え込んで、エルゼリンデは人の壁をかき分け、前へ進み出る。道の右手に目を向けると、数人の男がこちらに歩いてくる光景が映った。腰と両手を縄で縛られ、刑吏に引き立てられていく、脱走者と思しき四人の騎士。彼らは皆一様に俯き、力ない足取りで牢獄への道を辿る。
 一団が呆然と眺めるばかりのエルゼリンデの前を通りかかったそのとき、騎士の一人が俄かに顔を上げ、見物人の群集に視線を投げかけた。
 全身の血液が、急速に冷えていく。
 エルゼリンデの目の前にあったのは、ゲオルグ・ヴァン・ウィンケルの顔だった。
 周囲のざわめきが消え、痛いくらいに脈打つ心臓の音しか聞こえなくなる。どうして、と疑問が頭に浮かぶより早く、ゲオルグの瞳が彼女を捉えた。
 そこに彼らしい優しげな面差しはなかった。両目に浮かぶのは非難と怒りの色。
「裏切り者」
 声にこそならなかったが、ゲオルグの表情は明らかにそう糾弾していた。
「……!!」
 違う! 私じゃない!
 胸中の叫びが、言葉として放たれることはなかった。声は呼気ごと咽喉に張りつき、体は鈍い痺れに覆いつくされている。
 ただただ立ち竦むエルゼリンデの前を、ゲオルグたちが通り過ぎていく――罪人として。
「また脱走か。それも二人が第三の連中だと」
「あの団はどうなってるんだ? 禿げ将軍の戦場での悪名高さに恐れ戦いてでもいるのかね」
「ひ弱な貴族のお坊ちゃんが多いからじゃないか?」
「ありゃあ、処刑されるだろうな」
「みんなまだ若いのに、馬鹿なことをしたもんだ」
 彼らの後ろ姿が道の奥に消え、周囲に群がっていた騎士たちが口々に囁き始める。
「どうやら脱走の計画が露見したっぽいけど、やっぱり宰相一派の間諜がうろつき回ってるって噂は本当だったんだな」
「迂闊に変なことは言えねえよなあ」
 ことさらに声を低くした騎士の呟きが、エルゼリンデの耳に届く。
 計画が露見した。それはつまり、脱走したところを取り押さえられたわけではないということで……
 瞬時に、栗色の髪をした可憐な少年の顔が、脳裏に閃いた。
 セルリアンだ。
 エルゼリンデは踵を返すと、弓から放たれた矢のごとく走り出した。
 どうして、どうして!
 自分と大して背格好の変わらない少年の姿を懸命に探しながら、エルゼリンデは胸のうちで空しく問い続けた。
 時間をくれるのでは、黙っていてくれるのではなかったのか。
 昨夜の苦い思い出が甦り、下唇を噛み締める。何でも言うことを聞くなら待ってやってもいい。セルリアンは確かにそう言った。セルリアンの言うことを聞き容れるのは嫌だったけど、だけどゲオルグたちを見殺しにはできない。その一心でエルゼリンデは肯いたのだ。それなのに。
 ふつふつと、怒りがこみ上げてくる。
 セルリアンの裏切りに対する怒りと、そして何より、何の対処もできずに彼のことを易々と信じてしまった自分に対する怒りだった。
 いったい自分は、どうすればいいんだろう。
 やり場のない思いを抱え、エルゼリンデはひたすらにセルリアンの姿を探した。とにかく今は、あの得体の知れない少年を問い質すことしか考えられなかった。
 食堂、訓練に使用している広場、貴族の溜まり場となっている部屋など、彼のいそうな場所をひとしきり見回ったエルゼリンデが最後にたどり着いた場所は、宿舎の自分の部屋だった。
 ドアノブを握り締め、扉を開ける。薄い光の差す部屋を視線でぐるりと見回し、寝台のところで目を留めた。
「おかえり、ミルファーク」
 悠然と寝台に腰かけていたセルリアンは、エルゼリンデの姿を認めると、いつものように花開くような笑顔を浮かべた。
 エルゼリンデは無言のまま、扉を後ろ手に閉めた。乱暴に閉められた扉が抗議の叫び声を上げたが、今はそんなことを気にしている余裕などない。
 セルリアンのほうは、憎たらしいくらいに余裕綽々だった。
「どうしたの、そんなに怖い顔して」
 きょとんと首を傾げながら、平然と訊ねてくる。彼は何もかも分かっていて、そのうえでこんな態度を取っているのだ。
「……」
 エルゼリンデは頭が沸騰していくのを自覚する。
 そうして、藍色の双眸にありったけの怒りと非難を込めて、セルリアンの笑顔を睨みつけた。

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