第36話
「どうして」
わななく唇からまず零れ落ちたのは、その一言だった。
「……どうして」
言いたいことは胸の中に、ありすぎるほど溜まっている。それなのになかなかその先の言葉が出てきてくれない。エルゼリンデは苛立ちともどかしさを抱えたまま、ただセルリアンを見据える。
エルゼリンデよりもよっぽど少女らしい繊細な面立ちの少年は、物柔らかな微笑を浮かべているように見えた。だけどそれが見せかけであることをエルゼリンデは知っている。顔は笑っているが、心はちっとも笑っていない。そんな笑顔だ。
「怒ってるみたいだけど、何かあったの?」
表情は崩さずに、いともあっけらかんと問うてくる。こちらを揶揄した応対をされ、エルゼリンデはかえって気を若干落ち着けることができた。
「……ゲオルグたちが、脱走容疑で、捕まったって」
セルリアンを睨みつけたまま、一言一言、噛み締めながら告げる。彼は僅かに眉を上げただけだった。
「ああ、なんだ。そのこと」
他愛もない、単なる世間話をするような口調。エルゼリンデは思わずかっとなってセルリアンに詰め寄った。
「待っててくれるって言ってたのに、どうして――!」
話が違う。そう詰るエルゼリンデに対し、セルリアンは細い肩を竦めてみせた。
「嘘つき呼ばわりは、ちょっと酷いんじゃないかなあ。僕は時間をあげるとは言ってないよ。君のことも考えてあげるとは言ったけどね」
冷静な反論に、エルゼリンデは言葉を失った。
指摘されてみれば、確かにこの少年の口から「猶予をあげる」という明確な約束を引き出したわけではなかった。
でも、だけど、あんな話の流れで、おまけに唇まで奪われて、それで「そんなは約束していない」だなんて、いくら何でもあんまりだ。
「そ、そんなのずるい! 卑怯じゃないか!」
エルゼリンデの声が怒気を強く帯びる。セルリアンのせいで、ゲオルグたちを思いとどまらせることはおろか、裏切り者だといわれのない糾弾を浴びてしまったのだ。
笑顔を向けたままの少年を、絶対に許せないと思った。初めて、他人に憎しみを覚えた。
怒りと憎しみに燃え上がる藍色の目を見つめていたセルリアンが、ゆっくりと口を開いたのは、しばしの沈黙が流れたあとのこと。
「僕が、卑怯?」
気分を害するどころか、むしろ彼はエルゼリンデの様子を面白がっているようにも見える。
「ふうん。脱走って重罪を見逃すことなく、立派に騎士の務めを果たしたこの僕が、卑怯ねえ」
すっと、鳶色の双眸を細める。
「じゃあ、情に流されて犯罪から目を背けて、説得なんて言葉を使って何もかもなかったことにしてしまおうとしてた君は、どうなの?」
決して責めたてる声ではないが、エルゼリンデの沸騰した頭に冷水を浴びせかけるには充分すぎた。
全身から、熱が、怒りが、苛立ちが急速に引いていく。
何も言えなかった。
セルリアンの言い分はもっともだった。どんな事情であれゲオルグらが脱走を図っていたことは事実。そして、思いとどまらせようと思っていたとしても、傍目には見逃したと見なされて当然なのも事実。結局は自分のほうが、法にも騎士の道にも背いているのだ。
すっかり勢いを削がれて俯くエルゼリンデを一瞥し、セルリアンは続けた。
「それにさあ、君は僕に感謝してしかるべきじゃない? それこそ非難されるいわれはないよ」
感謝?
エルゼリンデは眉根を寄せて少年に顔を向ける。
「ミルファークが今、何事もなくここに立っていられるのは、僕のおかげなんだよ」
いまいち要領を得ていない彼女に、セルリアンは少しだけ苛立ちを露わにする。
「本来なら君もあいつらと一緒に脱走の嫌疑をかけられて、連行されてもおかしくないんだからさ。それに、今は捕まらなくても、取調べを受けたら君のことを話すに決まってるじゃないか。裏切り者を庇う理由なんてないんだし」
最後の一言は、エルゼリンデの心に言い知れぬ痛痒を与えた。我知らず両の拳をきつく握り締める。
セルリアンは彼女の心境などお構いなしに、重ねて説明する。
「だから、僕がわざわざ上の人に『お願い』したんだよ。ミルファーク・ヴァン・イゼリアは脱走の誘いを受けたけど、きちんと断ったし本人に脱走の意思もないから、不問にしてくれって」
「……」
「これで君が牢獄に行くことも、処刑されることもなくなったんだから、さしずめ僕は命の恩人だってことだよねえ」
処刑。その言葉を聞いて、エルゼリンデの心を冷たい汗が伝った。そう、もしあのままゲオルグたちに深入りしていたら、いずれは自分も処刑に連座させられていた可能性だってあったのだ。
だけど、だからこそ解せなかった。
「……どうして、私だけを助けたの?」
セルリアンは平然と答えた。
「前にも言ったじゃない。僕は君を気に入ってるんだって。ここでみすみす見殺しにするのは面白くないなあって思ってね」
君と違って、僕は全然面識のない奴らのために自分を犠牲にするなんて愚行は犯さないからね――そう付け加えて。
言葉を返せぬまま立ち尽くすエルゼリンデの視界が、不意に翳る。
顔を上げると、すぐ鼻先にセルリアンの顔がある。寝台から腰を上げ、彼女の目の前に立っているのだ。
セルリアンは口元だけで微笑し、白い指先でエルゼリンデの頬を撫でた。そうして、どこか愉悦を含んだ声で、訊ねる。
「――今、死ななくてよかったって思ってたでしょ」
「え……?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。けれどそれもつかの間、すぐに目を見開いた。体が強ばっていくのを自覚する。確かに、死なないで、処刑に巻き込まれないでよかったと心の片隅で思っていたからだ。
エルゼリンデはセルリアンの目を覗き込んだ。心を見透かす眼差しがそこにある。
そんな彼が次に放った台詞は、またも予期せぬものだった。
「やっぱりね。でもよかった、安心したよ」
安心した? エルゼリンデが眉を顰める。鳶色の目を持つ少年は、彼女の頬から指を離さずに続ける。
「君も人間だったんだなあって、それに安心したんだよ」
やっぱり言われている意味が分からない。戸惑いの色を白い顔に浮かべるエルゼリンデに、セルリアンが笑いかける。
「さっきの卑怯って言葉も気にしてないよ。八つ当たりだと思えば可愛いものだし」
「八つ当たり……?」
「そうでしょ? 君は、彼らに裏切り者扱いされたのが気に入らなかった。だから僕を怒った」
意外どころか心外すぎる発言に、エルゼリンデの顔が蒼ざめる。彼に怒りを覚えたのは、昨日あんなことを言っていながらあっさりと密告してしまったことにだ。
それでも、「違う」と断固として否定できなかった。
――何で自分が裏切り者と思われなければならないんだろう。悪いのはセルリアンのほうなのに。
そう考えて、彼に怒りを向けたのは、本当のことなのだから。
「別に怒ってないよ」
彼女の蒼い顔を見て、セルリアンはいやに優しげな声音で囁きかける。
「人間なら誰だって、自分が一番大切なのは当たり前なんだから。他人に悪く思われたくないってミルファークが思うのも、自分を守るために他人を攻撃するのも、みんな当然のことだよ」
「…………」
「今まで見てきて、君があんまり馬鹿だったから苛々したりもしたけど――僕と同じ、そういう醜い部分も持ってたんだね。良かった」
醜い部分。
セルリアンの言葉は、鋭利な刃物と化してエルゼリンデの胸を抉った。
少年は彼女の様子を心の底から愉快そうに――それどころかある意味恍惚とした表情で見つめている。
「でも、今回のことは仕方がないと思うな。君はこうして助かったんだから、あいつらが君を裏切り者だと思って死んでいくのくらい、大目に見なきゃ。何かを得るには犠牲が付き物なんだし」
セルリアンのほっそりとした指が、頬をするりと下りていく。冷たい感触に、背筋が震えた。
「ねえ、ミルファーク」
まるで底のない深淵を覗き込んでいるかのような、暗く冷ややかな声。
「綺麗ごとだけで全てが都合良くいく砂糖菓子のような世界なんて、お伽噺の中にしか存在しないんだよ」
太陽が傾きかけている。
だんだんと黄味を帯びてきた空を、エルゼリンデは見上げることができなかった。
居ても立ってもいられなくて部屋を飛び出し、人目のない場所を求め、気がつけば木々の生い茂る裏庭らしきところへ来ていた。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
ゲオルグたちが処刑されてしまう。だけどそれと引き換えに、自分は助かった。助けてくれたセルリアンに八つ当たりしてしまった。そして……そして、死ななかったことに安堵した。
エルゼリンデは力なくその場にしゃがみ込んだ。
――私、醜い人間なのかな。
膝を抱え、うずくまる。
もしもあのとき街中でばったり会っていなかったら、ゲオルグは自分を仲間に加えようとは思わなかったはずだ。そうすれば、セルリアンに盗み聞きされることも、あんなふうに捕まることだってなかったのかもしれない。
私のせいだ。
それなのに、裏切り者だと思われたくなくて、セルリアンを責め、憎んだ。
誰かを憎いと思うなんて。
両腕で自分の体をきつく抱きしめる。
――やっぱり、自分は醜くて、駄目な人間なんだ。
醜くて、そして無力だ。何の力もない。いつも誰かに助けてもらってばっかりで、独りでは何もできないのだ。ゲオルグたちを助けることだって。
涙が頬を伝った。
何もできない。どうしたらいいのか分からない。
言い知れぬ絶望感と無力感が、全身をすっぽりと覆う。エルゼリンデはどうすることもできず、嗚咽を漏らすことしかできなかった。
どれくらいそうしていただろうか。
涙は止まらぬままにのろのろと顔を上げる。
太陽は更に傾き、影も長くなっていた。夜に侵蝕されてゆく世界を眺めながら、エルゼリンデは涙を拭った。
自分は駄目な人間だけど――それでも、このまま見殺しにすることなんてできない。
しゃくりあげながら、ゲオルグに薬を分けてもらった日のことを思い出す。周りが皆自分を避ける中で、それがどんなに嬉しかったか。
死んでほしくない。助けたい。助かってほしい。
もう、彼が脱走という罪を犯しかけたことなんてどうでもよくなっていた。
「……助けなきゃ」
再び涙を拭い、声に出して呟く。
自分一人では何もできない。でも誰かを頼ってでも、縋りついてでも、どうしても助けなければならない。
様々な思考がまだら模様を描く頭を必死に働かせる。
誰か、処刑をやめさせることのできる人は。
ぐるぐると渦巻く頭の中に、ぼんやりと浮かび上がってきたのは王弟殿下の姿だった。