第37話

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 フロヴィンシアの本城は、さすが「東の王都」と呼ばれるだけあって、規模はユーズの王城に劣らない。しかし壮麗さの面では大きく水を開けられている感がある。元々は東方進出の拠点として建設された、純然たる軍事施設であったから仕方がないと言ってしまえばそれまでであるが。
 とにかくフロヴィンシア城内は広く、堅牢で、何より複雑だった。
 ど、どうしよう。
 城内の廊下の端っこで、エルゼリンデは途方に暮れていた。その両腕には、顎の辺りまで積みあがった白い布の塊を抱えている。
 洗濯場ってどこなんだろう。
 廊下をせわしなく見回す。壁に掛かった燭台に、蝋燭の火が揺れている。ひんやりした空気に包まれ、人の出入りもない。明らかに侍女や下働きの者たちがせわしなく働いている場所からはほど遠いところに居ることくらい、城内のことなど何も知らないエルゼリンデにも分かった。
 とにかく、この洗濯物の山を持っていかなければ。
 よいしょ、と軽く呟いて体勢を立て直し、再び洗濯場を探して歩き出す。
 ――なぜ、こんなところで洗濯物を抱えて城内をうろついているのかというと。
 ゲオルグたちを助けたい一心で、エルゼリンデは涙も乾かぬうちにこの本城までやって来た。目的は、むろんのこと王弟殿下に直接会って、彼らの助命を請うためである。とは言うものの、たとえ以前に言葉を交わしたことはあるにせよ、しがない子爵家の令嬢、もとい令息がそう簡単に入城を許されるはずがない。しかも事前に約束すらしていない。警備兵に取次ぎを頼もうにも、無碍に断られて追い返されるのが関の山。
 その場の思いつきだけで来てしまったエルゼリンデは、身分の壁に阻まれしばし立ち往生していた。そこへ幸運にも従者らしき集団が入城するところに遭遇し、咄嗟の判断でその集団に紛れ込み、城内に潜入することができたのである。昼間に馬の手入れをしていたので、騎士服ではなく若干小汚い格好だったのも幸いした。
 とまあ、そこまではよかったのだが、問題はそのあと。ちょうど城内は夕食の準備で大わらわ、大勢の使用人たちが慌ただしく右往左往している。「殿下はどこにいるんだろう」とうろうろしていたエルゼリンデが使用人に間違われてもおかしくない。
「ちょっとあんた、手が空いてるならこれ洗濯場に持っていってちょうだい」
 と、恰幅のいいおばさんから山盛りの洗濯物を押し付けられ、今に至るというわけである。


「――見ない顔だね」
 突然、背中に男の声がぶつかり、エルゼリンデはびっくりして足を止めた。反射的に後ろを振り向くと、廊下の壁に凭れるように立っている男の姿。彼はエルゼリンデがそのまま動かないのを確認し、ゆっくり歩み寄ってくる。
「さっきからずっとこんなところをうろついてるから、気になってたんだけど」
 どちらかといえば穏やかな声だが、目は鋭い。
 警戒されている。
 エルゼリンデはうろたえた。身なりのよい、いかにも身分の高そうな貴族だと知れる男が目の前に立って、無言のまま彼女を見下ろしているものだから、余計に。
「あ、あああああのっ、ですね、せ、洗濯場ってどこでしょうかっ?」
 切羽詰って問いかける。洗濯場を探しているのは本当のことだし、まさか「王弟殿下はどこですか?」なんて不用意には訊けない。
「洗濯場?」
 男が表情を緩めて、代わりに眉を顰めた。エルゼリンデはこくこくと何度も肯く。
「もしかして、ずっと迷ってた、とか?」
「は、はい……その、私、こちらで働き始めて間もないものですから」
 急造にしては上手い嘘がつけたな。我ながら感心する。嘘はよくないが、もうすでに大きな嘘をつき続けているから、今更気にしたってしょうがない。
「新入りか」
 男はちょっと意外そうにエルゼリンデの顔を見つめた。どうやら警戒が解かれたらしいことを悟り、エルゼリンデも内心で安堵のため息をつく。そうすると男の顔を見返す余裕も生まれてきた。
 年の頃は20代前半くらいだろうか。癖のある蜂蜜色の髪に青緑色の目。肌はやや浅黒く、顔立ちもヴァルト人よりフロヴィンシアの人間に近い感じがする。なかなかの長身で、これまた結構な美男子だった。
 身分の高い人って、やっぱり美形が多いものなのかな。
 王弟殿下しかり、レオホルト隊長しかり。そんなことを考えているうちに、男の呟きが聞こえてきた。
「……合格」
「え?」
 エルゼリンデが藍色の目を瞠った途端、腕から洗濯物の重みが消えた。驚いて男のほうを見ると、洗濯物がいつの間にかその腕の中へ移動している。
「おいで」
 男は微笑を浮かべると、呆気に取られているエルゼリンデの手を引き、歩き出した。
 何が何だか分からず、ただ手を引かれるまま男のあとをついていく。男は複雑に入り組んだ廊下を右へ左へしっかりした足取りで進んでいく。何人か城の人間とすれ違うと、彼らは皆男に対して恭しく一礼していた。どうやら相当偉い人らしい。
「あ、あのー」
「何?」
 エルゼリンデが声をかけると、男は顔を少しだけ動かして、横目で彼女を一瞥する。視線をまともに受け、妙に背筋がぞくりとした。武骨な軍人の男には慣れてきたけれど、彼のようなどこか軽い印象の貴族の男はいまだに謎めいた存在である。
「せ、洗濯物は」
 どぎまぎしつつ何とか言葉を絞り出す。男は抱えた洗濯物とエルゼリンデの顔を交互に見比べた。
「洗濯物がどうかした?」
「いえ、その、貴族のかたに持たせる物ではないので、私が」
 自分も一応「貴族のかた」に分類されるが、最下層と最上層とでは天と地ほどに差があるのだ。
 畏まりながら洗濯物を受け取ろうとするも、男は肩を竦めただけだった。
「可愛い子に持たせる物じゃ、もっとないでしょ」
「え? あの……」
 何を言ってるのかよく分からず目を白黒させるエルゼリンデをよそに、男がふと視線を前方に放つ。廊下をせわしない足取りで歩いてくる下男らしき人物が見える。
「ちょっと、そこのあんた」
 下男はぎょっとして立ち止まり、深々と頭を下げようとする。それを男は制して、腕に抱えていた洗濯物を押し付けた。
「これ、洗濯場に運んでおいて」
 畏まりました、との返事も聞かずに、再びエルゼリンデを引っ張ってゆく。彼の行動に、ようやくエルゼリンデは不審を覚えた。てっきり洗濯場に案内してくれるのかと思いきや、そうではないらしい。
 どこへ行くのか。それを訊ねようとした矢先、男がこう言った。
「名前は?」
 機先を制されて、一瞬言葉に詰まる。
「あ、ええと、ミルファーク・ヴァン・イゼリアと申します」
「ミルファーク? まるで男みたいな名前だな」
 エルゼリンデは僅かに眉根を寄せた。そりゃあ、男の名前なんだから男みたいで当然じゃないか。
「男ですから」
 唐突に男の足が止まったので、危うく背中にぶつかるところだった。
「――はあ?」
 手は握った状態で、男はくるりと彼女に向き直った。その顔にはありありと「あり得ない」と書いてある。
 エルゼリンデのほうもまた、動揺が高まっていくのを自覚した。
 も、もしかして……もしかしなくても、バレてる?
 冷や汗が背中を伝う。男が再びエルゼリンデを凝視する。
「男だって? こんな顔で、こんなに細い首で?」
 握っていた手を離し、首筋へと持っていく。男の指先が首に触れ、エルゼリンデは肌が粟立つのを感じた。
 頭の中で、警鐘が鳴り響いている。何とか誤魔化さなくては。
「こっ、こんな顔でも一応男です男なんですともっ!」
 狼狽を気取られぬよう、語気を強くする。とは言え顔は蒼く額には汗も滲んでいて、とても隠せたものではなかったが。案の定、男の顔から疑念が霧散する様子はない。
 ゲオルグたちの窮地を救おうとやって来たのに、自分が窮地に追い込まれるなんて。
 やっぱり駄目な人間だ。
 情けなさが胸を押し潰し、涙がこみ上げてきそうになる。エルゼリンデは眼前の男を見据えることで必死に堪えた。
「ふーん」
 一方追及する側は、彼女の葛藤を知ってか知らずか、面白そうにくっきりとした目を細める。
「まあ、口で確かめるより、脱がせたほうが手っ取り早いな」
 言うが早いか、ふわりと体が浮き上がる感覚。
 エルゼリンデの小柄な体は、男にしっかりと抱き上げられていた。
「…………」
 思考が停止しかける。だが本能でこれから起こる危険を察知し、俄かにじたばたともがき始めた。
「はっ、離して、下ろしてください!」
 ものすごく嫌な予感に涙も引っ込むというものだ。エルゼリンデは相手が身分の高い男だということも忘れて、力のかぎり抵抗した。しかし腕は外れない。男は暴れるエルゼリンデをものともせず、余裕の笑みすら浮かべている。
「大丈夫、優しくするから」
 何のことだ!
 エルゼリンデのほうはこれ以上ないくらい必死だった。とにかく、このままでは非常にまずいことになる――どんなことなのかは見当もつかなかったが、本能がそれを告げているのだ。
 抱き上げられたまま、だんだんと人気のない方向へ進んでいくことが、不安に一層拍車をかける。いったいどうやってこの危機を乗り越えればいいのだ。
 そのときだった。
「――何をしているんです?」
 咎めだてる声が廊下に響いた。天の助け! とばかりにエルゼリンデが声の方向に視線を動かす。彼女たちの来た道から、長身の男が追ってきていた。
 あれ?
 「救世主」を見てエルゼリンデは首を傾げた。どこか見覚えのある顔だったのだ。
「何だ、マウリッツか」
 いいところで、と舌打ちしながら男が足を止める。その一言でエルゼリンデは思い出していた。マウリッツ・ヴァン・ローゼンヴェルト将軍、この前昼食を奢ってくれた偉い人だ。
「何でお前がここにいるんだよ」
 男の声は明らかに不服そうだった。
「総督に貴方を探すよう頼まれたものですから」
 ローゼンヴェルト将軍は二人に追いつくと、呆れ半分に嘆息した。
「それにしても、女に見境のない貴方がこんな少年にまで手を出そうとするとは。お父上が知ったら今度こそ監禁されますよ、シェザイア殿」
 シェザイアと名指しされた男が眉を上げた。
「少年? そんなわけ――」
「とにかく」
 ローゼンヴェルトは強い口調でシェザイアの言葉を遮った。
「彼、は私の知り合いです。これ以上変なことをしようものなら、いくらシェザイア殿といえども容赦しませんよ」
 シェザイアはもう一度舌打ちし、不承不承ではありながらもエルゼリンデを解放した。

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