第38話

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「大変な目に遭いましたね」
 渋々引き下がったシェザイアという男の背中を見送ったあとで、ローゼンヴェルトはいまだ動悸の治まらないエルゼリンデに声をかけた。
「……は、はい。それはそれは……」
 呼吸を整えつつ、エルゼリンデは万感の思いを込めて肯く。何せ自分が女であることが露見するところだったのだ。それも、何やら身の危険を感じさせる手法で。
 つい今しがたの出来事を思い返すと背筋がぞわっと凍りつく。本当に危ないところで――
「あ」
 身震いとともに平静を取り戻したエルゼリンデは、危地を救ってくれた相手に礼すら述べていないことにようやく気がついた。
 慌てて居住まいを正し、傍らに佇む長身の将軍に向き直る。
「あの、先ほどは危ないところを助けていただき、ありがとうございます」
 失礼に当たらないよう深々と頭を下げるも、ローゼンヴェルト将軍はすぐに顔を上げるよう告げる。
「礼には及びません。当然のことをしたまでですから」
 物柔らかな笑顔を浮かべ、軽くかぶりを振る将軍に、エルゼリンデはどことなく違和感を覚えはじめていた。しかしその正体を確かめるよりも、ローゼンヴェルトが言葉を繋げるほうが先に立った。
「シェザイア殿は現フロヴィンシア総督クヌッセン侯のご子息にあられるのですが、まあ、直に接してお分かりいただけたかと思いますが、少々困ったところがおありでして」
 若い将軍はエルゼリンデに向けて肩を竦めてみせた。
「決して性質の悪い方ではないのですがね。もう少し、自重していただきたいものです」
 なるほど、シェザイアという男はフロヴィンシア総督の息子だったのか。どうりで通りすがりの城内の人間が皆一様に畏まるわけだ。もっとも、二度と会いたくないけれど。得心のいったエルゼリンデは、ふとローゼンヴェルト将軍に見た違和感の正体に思い当たった。
 この将軍は、自分に対して畏まりすぎなのではないか。
 先日城下で初めて遭遇したときは、気心の知れた部下がいたせいかもしれないが、もっとくだけた口調だったはず。ところが今はどういうわけだか、やたらに丁寧な口の利き方をしているのだ。王弟殿下の腹心とまで称される将軍が、単なる一介の騎士でしかない自分に。
「ええと、ローゼンヴェルト閣下」
 背中がむずむずするような居心地の悪さを感じながら呼びかけると、ローゼンヴェルトは微妙な――そうとしか表現しようのない表情で小柄な騎士を見下ろした。
 彼の顔を見上げて、エルゼリンデもますます困惑の度合いを強める。将軍は彼女にとって不可解な表情のまま口を開いた。
「ああ、……そんなに畏まった呼び方をせずとも、マウリッツで構いませんよ」
 あまりのことにエルゼリンデは瞠目してしまった。
「い、いえ、それはむしろこちらの台詞なような。あ、あのですね、閣下のほうこそ偉い人なんですから、もっと偉そうにしゃべってください」
 あたふた反駁すると、ローゼンヴェルトは一瞬呆気に取られた顔を覗かせ、それから俄かに吹き出した。
 エルゼリンデは何故笑われているのか分からずただ立ち尽くすばかり。しばらくして、将軍は笑いを内に抑え、彼女に非礼を詫びた。
「いや、大変失礼しました。あなたがあまりに……その、面白いことを仰るので、つい」
 面白いことなど口にした覚えのないエルゼリンデには、彼の発言がさっぱり把握できない。
「偉そうに、と申されますがそれはちょっと……性分というか癖というか、とにかくあまり気になさらないでください」
 気にするなと言われても。またしてもわけの分からない返答をされた上にそんなことを告げられ、エルゼリンデは困惑気味に眉根を寄せる。
「ところで」
 すると、ローゼンヴェルトが素早く話を変えてくる。
「あなたは何故ここに?」
 ぎくり、とエルゼリンデは小柄な体を硬直させた。それはあまり触れてほしくない疑問なのだが、将軍のほうから見れば至極当然な質問だろう。入城を許されていないはずの騎士がこうして城内にいるのだから。
 何と答えたらいいものか。エルゼリンデは返事に逡巡する。
 いっそのこと、お咎め覚悟で正直に話してしまったほうがいいのかも。ローゼンヴェルト将軍は王弟殿下の腹心だから、きっと居場所も知っているだろうし。会わせてくれるかどうかは分からないけど、とりあえずお願いはしてみて――あ、でも向こうの都合も顧みずこんな急に訪ねられても、会えるかどうかすら定かじゃないではないか。何故こんな単純なことに今まで気がつかなかったのか。
 様々な思考が頭の中でぐるぐる回転する。どうしよう、自分でも収拾がつかなくなってきた。
 ローゼンヴェルトは、混乱したままなかなか口を開こうとしない彼女に対し、さりげなくこう問いかけた。
「ひょっとして、アスタール殿下に会いに来たんですか?」
 ずばり核心を突かれ、エルゼリンデは藍色の双眸を大きく見開いて将軍の顔を見やる。
 ど、どうして見抜かれたんだろう。何か面妖な魔術を使えるとか?
 ローゼンヴェルト将軍は、表情でありありと肯定を表しているエルゼリンデに頷きかけ、穏やかな声音で言葉を続ける。
「そうでしたか。それではこちらへどうぞ」
 言い終わるなり廊下を歩き出したので、エルゼリンデはぽかんと目と口を開きながら、彼につられて足を動かした。
 ローゼンヴェルト将軍は迷いのない足取りで廊下を右に左に、階段を上へ上へと進んでいく。
「あ、あの、閣下」
 侵入に対する叱責をするどころか、とてもあっさりと殿下のもとへ案内されているらしいことに気づき、エルゼリンデは堪らず将軍の背中に声をかけた。
 ところが、聞こえているのかいないのか、彼は振り向きすらしない。
「ローゼンヴェルト閣下」
 もう一度、少し声量を上げてみる。が、やはり反応は見られない。
 何なんだろう? 戸惑いを隠せないエルゼリンデの脳裏に先刻の将軍の言葉が甦ってきた。
「……」
 少しだけ躊躇ってから、意を決して再度呼びかける。
「……ま、マウリッツ、様?」
「…………」
「……ええと…………マウリッツさん?」
「何でしょうか?」
「……い、いえ、その……えっと……ど、どちらへ向かっているんですか?」
 しどろもどろなエルゼリンデの疑問に、ローゼンヴェルトは歩みを止めずに答えた。
「どちらへって、殿下に会いに来たのでしょう?」
「そ、そうなんですけど。でも、よろしいんですか? 約束も何もしてないし、殿下のご都合だって……夕食時ですし」
 当然の懸念を口にすると、ローゼンヴェルトはちらりと彼女を顧みて微笑を浮かべた。
「大丈夫ですよ。少々お待ちいただくことになるかと思いますが――こちらです」
 立派な扉の前で足を止め、ノックもなしに押し開く。
「こちらの部屋でしばらくお待ちください。今、お呼びしますから」
 王弟殿下の腹心は、ひたすら呆けっぱなしのエルゼリンデを部屋に押し込みこれまた立派な長椅子に座らせると、その言葉を残して扉を閉めた。


 私、何でここにいるんだっけ?
 一人になってようやく戸惑いと混乱の嵐から解放されたエルゼリンデは首をひねる。幸い、答えはすぐに思い出せた。
 王弟殿下に会いに来たのだ。ゲオルグたちの助命を請うために。
 だけどこうもトントン拍子に事が進むとは自分自身ですら予想していなかった。その場の勢いだけ、無計画もいいところだったのに。
 ……どうしよう。
 そうして、いざアスタール殿下との面会が実現するとなると、途端に臆してくるから不思議なものである。
 本当に、いいのかな。
 胸中で自問する。殿下だって色々忙しいだろうし、単に数回言葉を交わしたことのあるきりの騎士の訴えに耳を貸してくれるとも限らない。いや、寛大な殿下のことだ、貸してはくれるだろうが、聞き容れてくれるかどうかはまた別の話だ。
 エルゼリンデはそわそわと周囲に視線をめぐらせた。これ以上色々考えるとまた頭がこんがらがってきそうだったので、つかの間の現実逃避に走ったのである。
 ローゼンヴェルト将軍に案内された部屋は応接室らしきところだった。エルゼリンデの座るやたら長い長椅子の前には猫脚のテーブルが置かれ、その向こうに同じ長椅子。向かって右手のタイル張りの壁には大きな暖炉。床は濃紺の絨毯で敷き詰められ、窓際に置かれた薔薇からは甘い芳香が漂ってくる。
 すごいところだなあ。
 エルゼリンデの唇から思わずため息が漏れる。
 王族や名門貴族たちはこんな場所で、当たり前のように日々生活を送っている、そのこと自体がすでに自分にとっては非日常だ。
 やっぱり、住む世界が違うんだな。エルゼリンデはそう結論づけ、不意に自分の服装を見下ろした。下働きの使用人と何ら変わりのない、小汚い格好が嫌でも目に入る。
 これで、こんな格好で殿下に会ってもいいものだろうか。
 今度は恥ずかしさに襲われ、身を縮こまらせてしまう。本当に、こんな体たらくと心構えでゲオルグたちの、罪を犯した者の助命を請うなど、自分にできるのだろうか。
 やっぱり……帰ろうかな。
 腰を浮かしかけるも、すぐに思いとどまる。他に彼らを助ける手段が見つからない以上、この好機を逃すわけにはいかないのだ。
 何としても助けなきゃ、自分の気も収まらない。
 腹を括るがごとく、いったん深呼吸をして姿勢を正したところで、扉の開く重い音が耳に滑り込んできた。
 エルゼリンデは狼狽しつつ、ばね仕掛けの人形めいた動作ですぐさま立ち上がる。視線の先に、背の高い黒髪の男の姿。
 王弟殿下は扉を閉めるなりエルゼリンデに蒼い双眸を向けた。
「よくここまで来られたな」
 その口調は、咎めるどころか感心したふうであったので、エルゼリンデはいささか面食らってしまった。
「そ、その……ま、まずは勝手に入城してしまったこと、お詫び申し上げます」
 何とか口を動かし、へこりと頭を下げる。
「まあ、不審者として捕らえられても文句は言えないな」
 アスタールは大股で向かいの長椅子の傍まで来ると、亜麻色の頭髪を見下ろした。
「出くわしたのがマウリッツだったのが幸いしたが、これが他の衛兵だったら今頃は問答無用で牢の中だぞ」
「す、すみません……」
 王弟殿下直々のお小言を聞きながら、エルゼリンデは恐縮するしかない。長椅子に腰を下ろしたアスタールは、そんな彼女に座るよう勧める。
「それで、いったい俺に何の用だ?」
 とうとうこの時が来てしまった。エルゼリンデは息を呑み込むと、こちらをしっかりと見据えている王弟殿下に向き直った。

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