第39話

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 殿下にお願いがあって来た。
 そう切り出すと、アスタール殿下の端整な顔に不審の色が差す。
「どういうことだ?」
 エルゼリンデはどう話したらいいものか迷いを見せたが、まずは「お願い」を言葉にするほうを優先させた。
「で、殿下は先ほどの脱走事件をご存知ですか?」
 その質問に、王弟の眉が僅かに顰められる。
「今日の昼間にあったことを指しているなら、報告は受けているが」
 それがどうかしたか、と逆に問いかけられると返答に詰まってしまう。エルゼリンデは彼の鋭い双眸から逃れるように目を伏せた。
 なんだか、自分はもしかしたらものすっごく早まったことをしているのかも。
 思いつきだけの行動を改めて後悔するも、ここまできておいてもはや後戻りはできない。エルゼリンデは視線を合わせぬよう、膝に置かれた自分のこぶしを見つめながら恐る恐る口を開いた。
「それで、その……脱走しようとした人は、未遂であっても、処刑……されるんですよね?」
 それは質問の形をしていたが、実際は確認のための発言だった。予想通り、アスタールは彼女の発言を無感動に肯定する。
「規律を破れば、罰せられるのは当然のことだろう。罪が重いほど、科せられる処罰も重くなるのも、また当然だ」
 やっぱり。エルゼリンデは気持ちの折れるのを自覚したが、それでも辛うじてため息を抑えることに成功する。
 嘆息したのは王弟殿下のほうだった。
「まあ、見せしめの意味合いも強いのも事実だが、軍隊内の規律を維持するためには仕方のないことだ」
 平淡な声の奥に微量の苦味が含まれていることに気づき、エルゼリンデは思わず顔を上げていた。
 そして、見てしまった。言い終えたアスタールの眉間の皺がさらに深く刻まれているのを。
 明らかに、疑いようもなく、どう見ても怪しまれている。
 頬を汗がひとすじ伝う。と同時に、言い知れぬ後ろめたさと王弟殿下の迫力に気圧されて、話を切り出すことを躊躇い続けている自分の情けなさが嫌になった。
 でもゲオルグたちのこともある。ここはひとつ、ピシッとしなくては。
 気持ちを立て直すべく背筋を伸ばすと、エルゼリンデは今度はしっかりと殿下の顔を見るよう努めた。おそらく向こうから見たら、少しばかり目が泳いでいるに違いないが。
「あの、殿下。折り入ってお願いがあるというのは、そのことなんですが」
 アスタールの蒼い目が眇められる。
「今日捕まった彼らの処遇を、その……考え直していただけないでしょうか」
「というと?」
 即座に半ば確信めいた口調で先を促される。二度も気まずいお願いを口にすることとなり、エルゼリンデは迂遠な言い方をしてしまった数秒前の自分を呪った。
「で、ですから……ゲオルグ、ええと、彼らの罰を軽くしていただけはしないかと、殿下にお願いに上がった次第です」
 ついに言ってしまった。
 エルゼリンデはその場を退散したい気持ちに駆られながら、王弟殿下の様子を窺う。
 アスタールはというと、眉根を寄せたまま黙然と一介の騎士を凝視するばかり。
 無理だとすぐさま断じられることを予期していたせいか、不意に闖入した沈黙に、どうしていいかわからなくなってしまう。緊張と後ろめたさに支配されたエルゼリンデは、石みたいにカチコチに硬直していた。
 や、やっぱり……やめておいたほうが良かったのかも。
 胸中を怯む気持ちが浸していくが、しかしそれでも一縷の望みがあるのならば、何としても縋りつきたかった。そうしないと、彼らは助けられないのだ。
 一向に口を開く気配のない王弟殿下に対し、エルゼリンデは返答を求めるべく強ばった口元に力を入れる。
「あ、あの」
「何故」
 やや上擦った声に、よく通る低い声が重なった。反射的に口を噤めば、射抜くような蒼い双眸とぶつかる。
「そのようなことをお前が頼まなければならない」
「え……?」
 エルゼリンデがいまいち要領を得ない表情を覗かせるのを見たアスタールは軽く嘆息する。
「今の話からすると、お前がその脱走犯たちと何らかの係わりがある、と考えるのが自然だろうな」
 指摘を受け、エルゼリンデは藍色の目を瞠った。確かに、そんなお願いをする時点で「自分も先の脱走未遂事件に関係がある」と言外に告げているようなものだ。そんなこと、まったく考慮してなかった。
「そ、それは……その」
 途端にしどろもどろになる。またも自分の膝へ視線を下げながら、必死に返事を考える。
「だ、脱走しようとした人の中に、同じ分隊の仲間がいるので……彼はとてもいい人で、わ、私も前に助けてもらったことがあって……それでです」
 本当のことを話したほうがいいのかもしれない、との思いが脳裏に浮かぶも、咄嗟に口をついて出てきたのはそんな答えだった。
「それだけか?」
 案の定、アスタールは追及の手を緩めてはくれなかった。
「いくらお前でも、ただそれだけのためにここまでするとは思えないな」
 王弟が座り直す気配が伝わってくる。そして、こちらをまっすぐに見据えている気配も。
 エルゼリンデはなかなか顔を上げられなかった。そんな彼女に、アスタールはさらに訊ねかける。
「何があった」
 それは、冷静であれど決して厳しくはない声だった。
「ちゃんと理由を話してみろ」
 怖々とアスタールの顔を覗き込むように窺う。彼は先程より幾分和らいだ目つきで、視線が合うと僅かに肩を竦めてみせた。
 殿下の態度の緩和に少しだけ安心し、膝に置いた両の手のひらを握り締めた。
 全部わけを話して、それからもう一度お願いしてみよう。自分も咎を受けるかもしれないが、そうなっても甘んじて罰を受けよう。決心はついた。
「私も、彼ら――ゲオルグたちから脱走に加わらないかと誘われていました」
 アスタールの顔色が俄かに変わるのを、エルゼリンデはしっかりと見ていた。それでも話し続けた。出征前の訓練中、ゲオルグに親切にしてもらったこと。脱走話を持ちかけられたが、何とか彼らを思いとどまらせようと説得を試みようとしたこと。でもそうする前に偶然同僚に話を聞かれていて、彼らが捕まってしまい、自分だけが見逃されたこと。そしてもちろん、彼らに全面の非があるわけではなかったことも。
 セルリアンの名前など、言いにくかった部分もあったがそれ以外は概ね洗いざらい打ち明けてしまった。エルゼリンデはやけにすっきりした気持ちで王弟殿下の様子を窺う。
 相づちも打たず黙然と彼女の話に耳を傾けていたアスタールが開口一番放った台詞は、
「お前は本当に運がいいな」
 との一言だった。もっと厳しいことを言われるんじゃないかと身構えていた彼女が拍子抜けするほどの。
「普通ならば共犯として末路を共にしてもおかしくないはずだが、よほどその『同僚』とやらは上との緊密な繋がりを持っているようだ」
 引っ掛かる言い方をアスタールはしたが、エルゼリンデが首を傾げる前に話を変える。
「おおかたの事情は分かった。お前が何故ここに来たのかも」
 嘆息混じりに殿下が頷く。
「あ、あの、それで……ゲオルグたちの罪を、何とか軽くできないでしょうか」
 エルゼリンデは勇気を出して、再びお願いをする。どうやら怒っていないようだから、もしかしたら。胸にかすかな希望の光がともったのもつかの間、アスタールは無表情にかぶりを振った。
「いくら彼らが善人であれ、どんな事情があれど、犯した罪とは別の話だ」
 断固たる口調で放たれたのは、事実上の拒絶の言葉。エルゼリンデはそれを悟り、下唇を噛んだ。
 やはり無理がある願いだったことは百も承知だった。しかし一縷の希望を胸に懐いていた以上、どんなに覚悟していてもそれが断ち切られたときの落胆は大きくなる。
 目に見えてがっかりするエルゼリンデを、王弟殿下はちょっと複雑そうな表情で一瞥した。
「……お前の心情も、分からなくはない」
 諭すような声音でアスタールが言う。
「もし俺がお前と同じ立場にあれば、何としても死刑を免れさせるよう方々に働きかけたことだろう。自分に直接の責任はないとはいえ、やはり後味の悪さが残るからな」
 意外にも彼女に理解を示す殿下に、エルゼリンデは表情を少し緩めて藍色の目を見開く。そうして殿下のほうを見やり、その顔に浮かぶ色にまた体を強ばらせる。
 怒っているのでも、叱責しているのでも、糾弾しているのでもない。鋭利に整った容貌にあったのは、ただ苦悩の表情のみだった。
 アスタールが自嘲気味に唇の端をつり上げる。
「だが俺は、今の俺の立場ゆえ、お前の願いを聞き容れてやることはできない」
 エルゼリンデは頬が熱くなるのを感じた。
 何てことを、言ってしまったんだろう。ひどく恥じ入った彼女は細い体を縮こまらせた。だが逆に頭の中は急速に冷めていく。
 分かっていた。この行動がゲオルグたちのためでなく、自分のためだったことを。ゲオルグたちを死なせたくないと思ったのは、きっと、そうしないと彼らの死の重みに潰されてしまいそうだったから。彼らの死から目を逸らしたかったから。
 結局、自分のことしか考えていなかったのだ。
 そんな利己的な行動が、今こうして殿下を困らせてしまっている。王国軍を統率し、新たな規律と秩序を創り上げている真っ最中のアスタール殿下に、自らその規律を破らせようとしてしまったのだ。殿下にとって迷惑以外の何物でもない。
 自分はどこまでずるいのか。エルゼリンデはこの場から消えてしまいたいと願うくらい、恥ずかしくてたまらなかった。
「……あ…の、すみません……でした」
 下を向いたままのエルゼリンデは、か細い声で謝罪の言葉を紡ぎだす。
「……何故謝る?」
「無理なお願いを、してしまって……迷惑を、かけたからです」
 本当に申し訳ありません。泣くのだけは必死にこらえて頭を下げる彼女を、アスタールは形容しがたい表情で見つめていた。
 エルゼリンデにとっては拷問同然の沈黙が降りかかる。
「――お前は」
 それを崩したのは、やはり王弟の一言だった。
「お前は、見ていて危なっかしいな」
「……?」
 言われている意味が分からず、エルゼリンデは思わずきょとんとして殿下の顔を見た。殿下はどういうわけか呆れたような表情を浮かべ、唐突に椅子から立ち上がる。
「何というか、一人歩きを始めた幼児を見ている心境だ」
 よ、幼児?
「幼児って……」
 あまりの台詞に今まで抱えていた感情も手放し、エルゼリンデは絶句する。そんな彼女には構わず、殿下は顎に片手を当てて何やらぶつぶつ独りごちている。
「もはやこれ以上ほったらかしにしておくわけには……何より俺の心臓に悪い。それにあの件も気がかりだしな……だが……」
 断片的に聞こえてくる呟きに首を傾げる。いったい殿下は急にどうしてしまったというんだろうか。考えても思い当たる節が見当たらない。
 そのとき、不意にアスタールの声が止んだ。エルゼリンデが不思議そうに目を向けると、彼は凝然とこちらを見下ろしている。そして強い口調でこう告げた。
「お前の身元は俺が預かる」
 と。

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