第41話

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 部屋を飛び出したエルゼリンデは、だだっ広い廊下を闇雲に進んでいた。目的地はどこかにあるはずの地下牢なのだが当然その場所を知るはずもなく、結局は頭に血が上ったまま城内をうろついているのと大差ない。
 最初こそは肩をいからせて大股に歩いていたが、一歩先へ進むにつれ足取りが鈍くなっていく。廊下の冷めた空気がエルゼリンデの脳内の温度も下げているようだ。だんだんと思考が冷静なものへ引き戻される。
 もしかしなくても、自分はとんでもないことをしてしまったんじゃないか。
 しがない子爵家の人間が王弟殿下に、それも私情でゲオルグたちの助命を乞うことだって、過分に差し出がましくてとんでもないことだ。
 それだけでも大問題なのに、自分はあのあと何と言った? エルゼリンデは思い出したくない気持ちをこらえて記憶を逆さまに辿る。
 ……殿下の申し出を真っ向から拒否した挙句、何か、その……だ、大嫌い、とか放言したような……
 さあっと音を立てて顔が青ざめていくのを感じる。エルゼリンデは思わずよろよろと廊下の壁に凭れかかっていた。よりにもよって主君たる王族の人間にそんな台詞を吐くだなんて、騎士の道に背くどころか不敬罪まっしぐらである。自分だけでなく、一族全体に罪が及ぶのは間違いない。
 だからこうして牢屋に入るためうろつき回っているのだが、自分はそれで良くても、父と兄のことを考えると心臓が凍りつきそうだった。自分の後先考えない言動で家族の命も危険に晒してしまっている。
 それなのに。涙すら出てこないほど震え上がる状況にもかかわらず、何故だか頭の片隅では別のことが引っかかっている。
 大っ嫌い。何だか、ずっと前にも同じことを誰かに言った気がしてならないのだ。
 誰だったっけ……?
 記憶の奥底から、幼い頃の思い出がぼんやり染み出してくる。
 しかし、
「落ち着きましたか?」
 それは明確な形をとることなく、背中にぶつかった声によって霧散してしまった。
 聞き覚えのある声に肩を竦めながら振り返ると、視線の先には琥珀色の髪をした長身の騎士。
「ロー……じゃ、じゃなくて、マウリッツさん……」
 殿下に会わせてくれた張本人が温和な顔に苦笑を張りつけ、こちらに歩み寄ってくる。どうやらずっと彼女の後ろをついてきたらしい。
 ローゼンヴェルト将軍は、向けられた青い顔を見て微かに眉を顰めた。
「どうかしましたか?」
「あの、マウリッツさん、牢屋はどこですか?」
 彼の問いかけに対して逆に質問を返す。ローゼンヴェルトはまるで意外なことを告げられたかのような表情で、エルゼリンデの顔を凝視する。
「……まさか、本当に牢屋に入りにいくつもりだったんですか」
 呆然と呟く将軍を見て、エルゼリンデは「おや?」と思うも、彼女が口を開くよりローゼンヴェルトが言葉を重ねるほうが早かった。
「あなたを本当にそんなところに案内しようものなら、私が殿下に叱られてしまいます」
 ローゼンヴェルトの発言は、エルゼリンデには不可解に聞こえた。だって、牢屋に入ってろと言ったのはほかでもないアスタール殿下なのだ。それなのに案内すれば殿下に怒られるというのはおかしいではないか。
 彼女の顔色から疑問を読み取ったらしいローゼンヴェルトは、また苦笑を閃かせた。
「殿下も本気で言ったわけではないでしょう。それにあれは向こうも悪いのですから、あなたが気に病む必要もありませんよ」
 城外まで送りましょう。将軍に促され、エルゼリンデは再び歩き出す。数歩進んだところでようやく彼女は自分の疑問を口にできた。
「あの、マウリッツさん」
「何でしょうか」
 すぐ隣を歩くローゼンヴェルトが温厚な顔を向ける。エルゼリンデは躊躇いがちに訊ねた。
「も、もしかして、その……聞いてたんですか? で、殿下とのお話を……」
「まあ、そうなりますね」
 将軍は悪びれもせず即答する。
「ちょっと好奇心に負けまして、盗み聞きをさせてもらいました」
 にこやかに突拍子もないことを言われる。あまりに平然としているので、開いた口が塞がっていないエルゼリンデのほうが気まずくなってしまう。
 そんな彼女などお構いなしといった風情で、ローゼンヴェルトは深々とため息をついた。
「まったく、物には言い方というものがあることを、あの方にもいい加減学習してもらいたいですね」
 更に将軍の口から殿下への愚痴が飛び出してきたものだから、エルゼリンデは大慌てでかぶりを振った。
「いえ、あの、あれは私が」
 悪い、と続けようとしてローゼンヴェルトに制止される。
「あなたが悪いわけではありません。いきなりあんなことを言われれば、混乱するのも無理ないことです」
 やけに自分に同情的で、エルゼリンデの胸の裡には逆に不安めいた気持ちが生まれていた。王弟殿下の腹心なのだから、「殿下の命令を撥ねつけるとは何事だ、無礼者!」と頭ごなしに怒鳴られたって――極端な話その場で斬られたって――文句は言えないのだ。けれどもこの将軍は自分を責めることすらしない。
「ですが殿下にも悪気があったわけではなく……あなたのことを心配していることだけは、お分かりになってください」
「は、はい。それはもちろん……」
 ローゼンヴェルトの言葉にほとんど反射的に肯きかけて、ふと口を噤む。
 やっぱり変だ。おかしい。
 エルゼリンデは内心首を捻った。自分が心配されていることは、彼女もそれとなく感じている。だからこそ、どうして心配されるのかが、さっぱり分からない。
 もしもエルゼリンデが王弟殿下とも懇意の、名門中の名門貴族の出自ならば納得いくだろう。だが実際は騎士階級より「ちょっと上」程度の身分に過ぎない。そんな自分が、雲上人に等しく、かつ出会って間もない王弟殿下やローゼンヴェルト将軍に気にされるなんて常識を鑑みてもありえないことだ。何かその待遇に見合うだけの立派なことをしたというのなら別だろうが、どれほど脳みそを絞ってみても、思い当たる節は何もない。
 ひとりあれこれ悩んでいても埒が明かないので、エルゼリンデは勇気を出して当事者に訊ねてみることにした。
「マ、マウリッツさん。ひとつ、その、お訊きしたいことがあるんですが」
「訊きたいこと、ですか?」
 ローゼンヴェルトの口調は相変わらず穏やかだ。そのことに安堵しつつ、エルゼリンデは浅く肯いた。
「はい。あのですね、ええと、どうして王弟殿下やマウリッツさんは、こんなにも私に良くしてくださるんでしょうか」
 ローゼンヴェルトが歩みを止める。びっくりしつつ彼を見上げるエルゼリンデの目に、どこか困ったような表情を浮かべる将軍の顔が映る。
「それは……そうですね」
 言い淀む様子を見て、訊いちゃいけないことだったのかなとどぎまぎする。ローゼンヴェルトは俯き加減に何事かを考えていたが、やがてエルゼリンデを見つめた。
「ご自分の心に訊ねてみれば、自ずと答えは導き出せるでしょう。私に言えるのはここまでです」
「自分の心、ですか……?」
 小首を傾げるエルゼリンデに、ローゼンヴェルトが肯きかける。
「ぜひとも正解にたどり着いてください。そうでないと、その、さすがに気の毒になってくるので」
 余計に何が何だか分からなくなってしまい、エルゼリンデは疑問符を四方八方に飛ばす。殿下の腹心はそれ以上答える気はないようで、困惑しきりの彼女を促し歩き始める。エルゼリンデは慌ててその背中を追った。


「それにしても」
 広い城内を迷いのない足取りで進みながら、ローゼンヴェルトが小柄な騎士を見下ろす。
「少しはお元気になられたようで何よりです」
「え?」
 話の見えないエルゼリンデが首を傾げる。まだ若い将軍は柔らかな微笑を浮かべた。
「先ほどお会いしたときはどこか思いつめたような顔をしていましたが、今はそうでもないようなので」
「あ」
 エルゼリンデは両手を頬に当てる。将軍の指摘どおり、確かに城内に潜入したときはゲオルグたちのこととかセルリアンに言われたこと、自分に対する苛立ちが胸中でごちゃまぜになって、もやもやした塊を作っていた。それが今はすっかり消えてしまっている。
 ローゼンヴェルトは面白そうに笑った。
「殿下とのお話で気を晴らすことができたのであれば、それはそれでとても結構なことです」
「……」
 どこか嬉しそうな将軍とは対照的に、エルゼリンデはまたもや顔を蒼くした。
 確かにさっきあれだけ怒ったから、こんなに気持ちがすっとしているのだろうが、それもまた殿下に対してものすごく失礼ではないか。いったい自分はどこまで殿下に失礼な振る舞いを重ねれば気が済むんだろうか。
「……や、やっぱり殿下に謝ってきたほうが……」
 冷や汗をかきつつ方向転換しようとするエルゼリンデを、柔らかな声が押し止める。
「そんなに心配しなくとも大丈夫ですよ。殿下もこんなことで咎めだてするほど狭量ではありませんから」
 ローゼンヴェルトは平然と首を振るが、エルゼリンデのほうは落ち着かない。偉い人に喧嘩売って失礼な態度を取ってお咎めなしだなんて、あまりにも都合がよすぎる。
 本当に、何なんだろう。
 エルゼリンデはちょっとぐったりしてきた。寛大な態度を取られるほど心理的な負担が大きくなっていく気がする。むしろ怒られて牢屋に放り込まれるほうが気分的には楽だったかもしれない、と思うほどに。
 そうこうしているうちに、ようやく城門へとたどり着いた。外はすっかり闇色に塗りつぶされている。ローゼンヴェルト将軍のおかげで、ずらりと衛兵が並ぶ中もすんなりと通過できた――変な目でじろじろ見られてしまったけれど。
「それでは、私はここで」
 城門から少し離れたところまで彼女を送り、ローゼンヴェルトは足を止める。エルゼリンデも背筋を伸ばして将軍に向き直った。
「あ、あの、本当にありがとうございました」
 いまだに何が何だかよく分からないままだったが、こうして何事もなく城外まで送ってくれたのは事実だ。彼の不可解な厚意にエルゼリンデは深々と頭を下げた。
「いいえ、当然のことをしたまでですから」
 ローゼンヴェルトは穏やかに微笑したが、にわかにその笑みを曇らせる。
「……本心を言わせてもらえば、私もあなたをこうして見送りたくはなかったのですが」
 こればかりは仕方がないですね、と嘆息混じりに呟く将軍の姿を見て、エルゼリンデは申し訳ないやら恐縮やらで肩を縮こまらせた。
「……す、すみません……」
 それでも、エルゼリンデには謝ることしかできなかった。今更お願いしますとは言えなかったし、自分の中でも受け容れられない気持ちのほうが強い。
「いいのです。分かっていますから」
 そんな彼女を見やり、ローゼンヴェルトはゆっくりとかぶりを振る。あくまでも優しい態度を崩さない将軍に対して、エルゼリンデは謝罪の言葉を繰り返しかできなかった。
「そんなに気になさらないでください。それと何か困ったことがあったら、いつでも私の名前を使ってくれて構いませんよ。できる限り力になりますので」
「あ、ありがとうございます」
 またもや破格の言葉をかけられ、恐縮しっ放しのエルゼリンデはさらに深々と頭を下げる。
「……それでは、ご武運を」
 ローゼンヴェルトは複雑な声を彼女に残し、城門へと踵を返す。
 エルゼリンデは若き将軍の後ろ姿を城の中へ消えるまで見送って、深々と息を吐き出した。
 本当にもう、自分は何をやってるんだろう。再び重くなり始めた頭を抱えたままふらふらと自分の宿舎に向かって歩き出す。吹きつける風がやけに冷たく感じ、ぶるっと身を震わせた、そのとき。
「――こんなところをほっつき歩いてやがったのか」
 鋭い、しかしどこか呆れた声音が耳を打ち、エルゼリンデは足を止めた。後ろを振り向くと、視線の先で、ランプを手にした小柄な隊長が腰に手を当ててこちらを見据えている。
「エ、エレンカーク隊長……?」
 唐突な出現に呆然と呟いたエルゼリンデは、隊長が肩を竦めて自分のほうへやって来るのを見て、気持ちが急激に緩んでいくのを自覚する。
 気がつけば、エルゼリンデの目から大粒の涙が次々と零れ落ちていた。

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