第45話

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 小汚いとは何だ!
 エルゼリンデは怒りに身を任せて勢いよく起き上った。

「……あれ?」
 ぼんやりした目を見開いて、自分の周りをぐるりと見回す。そこは、今現在寝起きしているフロヴィンシア城の兵舎の一室だった。どうやら自分は夢を見ていたらしい。
 エルゼリンデは胸のあたりを片手で押さえた。起きた瞬間に記憶は吹き飛んでしまったが、ひどく懐かしくて、それでいて妙にむかっとする夢だった。
 覚えていなくて残念だったような、よかったような。複雑な心中のまま、軽くため息を吐きだす。次いで何気なく空のはずの寝台を見やって、今度は睡魔が逃げ出した。同室になって以来どういうわけか夜は不在だったセルリアンが、なんと今日は隣で眠っていたのだ。思わず声をあげかけて、あわてて両手で口を塞ぐ。どうして今日はここにいるのか、そもそもいつの間に戻ってきていたのか。疑問が頭の中をぐるぐると駆け巡ったが、とりあえずセルリアンもちゃんと寝てるようで、そのことにエルゼリンデは不思議と安心感を懐いていた。
 驚き冷めやらぬまま、視線を申し訳程度に備え付けてある窓に転じる。外は空の端が白みを帯びてきていた。起きるのには少しばかり早い時間だったが、夢の記憶も眠気もどこかへ逃げてしまったので、ひとまず顔を洗いに行こう。エルゼリンデはセルリアンを起こさないよう細心の注意を払って寝台を降り、足音を立てぬよう抜き足差し足で部屋の外へと出た。
 顔を洗ってから、再びさてどうしたものかと首を捻る。
 部屋に戻れば、セルリアンがいる。彼に対する感情は、不明瞭な部分が多い。確かに先日の事件では彼が憎いと思った。だけどどういう腹積もりがあるのかはわからないにせよ、自分を助けてくれたのも事実である。そして、あの暗い声。あの声を思い返すと、どうしてもセルリアンを嫌いきれないのだ。
 ただ、面と向って何を話せばいいものか。どことなく後ろめたくて、良い案がまったく思いつかないのもまた事実。
 ――散歩でも、してこようかな。
 結局エルゼリンデは引き返すことを諦めた。


 外はまだ薄暗い。太陽がほんの頭のてっぺんの部分を覗かせただけだ。脱走のこともあり警戒が厳しくなっているので、うかつに変なことはしないように。そう通達は受けているが、兵舎の周りをぐるりと一周するくらいなら、別に見咎められることもないだろう。エルゼリンデは楽観的に考え、朝を迎える直前の空気を思い切り吸い込んだ。ひやりとした風に当てられて、だいぶ涼しくなったと感じる。もう明日にはフロヴィンシアを出てゼーランディアへ向かうが、そのライツェンヴァルトの最東端に着く頃にはさらに寒くなっているのだろう。
 戦い、か。
 エルゼリンデは歩きながら、ぼんやりと自分は戦いに行くのだなと改めて自覚した。戦争が、戦場がどういうものなのかは未知であるし、おのが周りものんびりしていて緊張感が張り詰めているわけでもない。だからいまいち従軍している実感が湧いてこないのだが、やはりこうして東の国境に近づいていることを思うと、少しは心持ちも違ってくるらしい。
 そういえば、戦争に出るのには向いてないと言われたな。エルゼリンデはつい先日王弟殿下に指摘された言葉を思い出した。確かに自分はまったくの未経験者だし、向いているかと自問すればすぐに否と自答できる。けれども、発端はどうであれ自分の意志でここまで来てしまったのだ。向き不向きなんて言ってる場合ではなくて、もうやるしか道は残されていないのではないだろうか。
 そんなことをつらつらと考えながらひとり散策をしていると、兵舎の裏手にある木立のところに人影を見つけた。一瞬、見回りの兵士かと身構えてしまったが、ただ立っているだけで、どうもそれらしくは見えない。
 誰だろう? 好奇心が一気に膨らんでいく。関わらないほうがいいんじゃないかと頭の片隅から警告の声が聞こえてきたような気がしたが、気のせいだと思うことにする。もしかしたら怪しい奴かもしれないし、ちらっと顔を確認するくらいなら問題ないだろう……多分。
 エルゼリンデがなるべく気配と足音を押し殺して木立の人影へと迫っていくと。
「誰だ!」
「うわっ!?」
 突然、鋭い声とともに顔面めがけて棒のようなものが飛んでくる。エルゼリンデは反射的に仰け反ったまではいいが、勢いあまって足を滑らせ、思いっきり尻もちをついてしまった。
「なんだ、君か」
 いったい何事かと少々情けない姿勢のまま呆然とする彼女の頭上に、聞いたことのある声が降ってきた。目の前に立ちはだかってこちらを見下ろしているのは、木立にいた人影で、なんとエルゼリンデも見知った人物だった。
「君、同じ隊にいるな。ミルファーク・ヴァン・イゼリア、だったっけ」
「あ、ローデン伯爵のご子息……」
 エルゼリンデは瞠目した。同じように目を見開いて、しかし胡散臭さをまったく隠そうともしない眼差しを向けている相手は、彼女でも知っているほどの有名人なのだから。
「アルフレッド、だよ」
 アルフレッド・ヴァン・ローデンはやや憮然とした表情で訂正する。
「それで、何でこんな時間にこんなところをうろついてるんだ?」
 怪しんでるのをまったく隠そうともしない口調で訊ねられてしまった。怪しいのはお互いさまなんじゃないかな、との思いがエルゼリンデの脳裏をよぎるも、それは喉の奥に飲み込んだ。なんせ相手は押しも押されぬ大貴族のご子息。下手に刺激して変な揉め事になっても困る。
「早く起きすぎたので、ちょっと散歩に……」
「ふーん」
 無難な返答に対して、つまらなそうな声が頭上に降ってくる。
「ま、僕だって、君のことをとやかく言えないけれどね」
 口の端に自嘲めいた微笑を刻む。どうやら自覚はあるようだ。
「そういうローデン様はこんなところで何をしているんですか?」
 同じ質問を投げ返してみると、彼はにわかに眉根を寄せた。もしかしてまずいことを訊いてしまったんだろうか。一瞬ひやりとしたエルゼリンデだったが、
「アルフレッドだと言っただろう」
 彼が不興だったのは、呼び方のせいらしかった。
「あ、し、失礼しました」
「別にいいけど……とりあえず、立ち上がったら?」
 指摘されてようやく、エルゼリンデは自分が尻もちをついた格好のままだったことに気がついた。あたふたと立ち上がり、服についた砂を払う。
「僕がここにいるのは、いつもの朝練だからだよ」
「朝練?」
 小首をかしげると、アルフレッドがおもむろに彼女のほうに近づいてくる。思わず身構えてしまいそうになったが、彼はエルゼリンデの脇をすり抜けて、地面から何かを拾い上げた。
「これの」
 軽く掲げて見せたのは、ひと振りの木刀だった。先ほどの棒のようなものの正体はこれだったのだ。
「剣の稽古ですか?」
「そう。毎朝ハンスを相手にね。でも今日はなかなか来なくてさ。まあ大方、昨夜ずっと詩の構想を練っていたせいで寝坊してるんだろうけど」
 肩を竦めて話すアルフレッドを、エルゼリンデは少しばかり意外な面持ちで見つめていた。彼の出自は貴族社会にめっぽう疎いエルゼリンデでも知っている。ローデン伯爵家は建国当初からの古い貴族で、これまでに王妃と宰相を何人も輩出している由緒正しい家柄だ。目の前にいるアルフレッドも、顔立ちと背丈こそ平凡の域を出ないが、挙措から滲む気品はそれこそ「大貴族のご子息」を地で行っている。だからこそ、こうやって砕けた口調で他人と接しているのに多少の驚きを覚えたのだ。もちろん、それは自分と彼との間に大きな身分差があるせいかもしれないけれども。
「あ、そうか」
 そんなことを考えているエルゼリンデの耳に、何かを思いついたような呟きが聞こえてきた。
「ミルファーク、代わりに君が相手をしてくれないか」
「へ? あ、相手?」
 急に声をかけられ、要領の得ない顔で訊き返すエルゼリンデに、アルフレッドはまた僅かに眉を顰めた。
「稽古の相手に決まってるじゃないか」
「はあ、稽古……ええっ!?」
「それなりに出来るんだろ」
 アルフレッドは傍らの木に立てかけてあったもう一本の木刀を投げて寄越す。有無を言わさず、ということらしい。
 流されるままエルゼリンデは木刀を受け取り、構える。
「じゃあ、行くぞ」
 言うが早いか、アルフレッドが切りかかってきた。
「うわっ」
 気が早いな。うろたえながらもエルゼリンデは体を横にずらし、木刀を自分のほうへ引き寄せるようにして最初の一撃を受け流す。まともに相手の剣を受けようと思うな。エレンカーク隊長に叩き込まれてきた教訓を、なんとか活かすことができた。
 しかし、流したはいいがそれでも若干掌が痺れている。見た目によらず力強い太刀筋だ。
 アルフレッドはさらに踏み込んできて袈裟掛けに木刀を振り下ろす。稽古とはいえ、手を抜いてる風ではない。エルゼリンデはとっさに大きく横に跳んで攻撃をかわす。息をつく暇もなく、体勢を整える。中段からの一撃を木刀を立てて止めると、一瞬生じた隙をついて、彼の懐に飛び込み肘を繰り出す。だが、僅かに動きが遅かったようで、後ろに大きく跳び退ったアルフレッドにやり過ごされてしまった。
 これがエレンカーク隊長だったら、「遅い」と一喝されて肩を打たれてたところだな。頭の片隅に隊長との訓練を思い出しながら、なおも剣を繰り出してくるアルフレッドと向き合う。
 何合か打ち合っているうち、エルゼリンデは気づいていた。アルフレッドの太刀筋に、焦りと苛立ちが混じっている。そのせいかかなり動きが単調になってきていて、最初よりはずいぶん避けやすくなった。
 エルゼリンデは振り下ろされた一撃を弾き返すと、その流れを殺さず、彼の手に狙いを定めて木刀を打ちつける。
「くっ!」
 アルフレッドは小さく呻き、木刀を取り落とした。勝負はついたようだ。
 エルゼリンデも緊張を解き、息をつく。エレンカーク隊長の訓練ほどではないが、なかなかに神経を使った稽古だった。冷静なままでいられたら、到底敵わなかっただろう。
「……くそっ」
 一方のアルフレッドは大貴族の子息に似つかわしくない悪態をつくと、木刀を拾い上げ、エルゼリンデに突きつけてくるではないか。
「もう一回だ!」
「ま、またですか?」
 びっくりしてアルフレッドのほうを見返す。白い頬を紅潮させていて、表情にはかなりの悔しさを滲ませている。
「あの、そろそろ朝食が配られる時間だと思うんですけど……」
 空はかなり白んできている。お腹も空いてきたし、手も痺れてるし、エルゼリンデとしてはもう切り上げたいところだった。が、相手は大貴族でこちらは弱小貴族。立場的に強く反論できるはずもなく、エルゼリンデは仕方なしに木刀を構えた。
 その時だった。
「そのへんでお止めになったらいかがですか?」
 突然、物柔らかい男の声が二人の間に割り込んできて、エルゼリンデは木刀を取り落としそうになってしまった。

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