第46話
エルゼリンデが振り向くと、少し離れた場所にいつの間にか別の騎士が佇んでいる。
「ハンス」
アルフレッドの呟きで、彼が元々の稽古相手だと察した。
「まったくもう、いつも言ってるじゃないですか。イライラしちゃ駄目ですよって」
ハンスと呼ばれた男はのんびりした口調でそう言いながら、こちらに歩み寄ってくる。中肉中背で下がり気味の眉と目尻をした、いかにも人の好さそうな顔の男だ。20歳前後に見えるアルフレッドよりもさらに年上だろう。30歳くらいに見える。
上等な騎士服を纏っているから、それなりの家柄であることは間違いない。とは言うものの、どことなく不似合いな印象を受ける。吟遊詩人とかの恰好のほうが似合うのではないだろうか。
ハンスは、おっとりした雰囲気に似つかわしくないきびきびとした足取りでアルフレッドの前までやってくると、手にしていた鞘つきの剣で地面を2、3度叩く。そのさまを見て、教会の合唱団の指揮者みたいだなとエルゼリンデは思った。
「そこがあなたの良くないところなんですよねえ。もう少し落ち着きをもっていれば、善戦できたでしょうに」
「……うるさい」
アルフレッドはハンスに向かって不貞腐れたように吐き捨てると、木刀を手にしたままその場を去ってしまった。
「あの、いいんですか?」
彼の背中を半ば呆然と見送ったエルゼリンデが、残されたハンスに問いかける。
「いいんですよ。いつものことですから」
温厚な笑顔でハンスは首を振った。
「それに今までを振り返ってみれば、結構落ち着いてきたほうですしねえ」
噛み締めるような口調に、そんなに今まではひどかったのかな、とエルゼリンデは内心で首を傾げた。最後はちょっと片鱗を覗かせていたようだが、まあ冷静沈着な部類に入るほうだという第一印象だっただけに。
「それはそうと、まだ名乗ってもいませんでしたね。私はハンス・ウィルヘルム・ヴァン・ブライテンバッハと申します。見た目に似合わず、仰々しい名前でしょう」
茶化しながらも悠々と騎士の礼をする。まさか素直に「そうですね」とも言えず、エルゼリンデは多少戸惑いながら返礼した。
「おや、イゼリアというと、古文書館にいらっしゃるイゼリア子爵のご子息でしょうか?」
「父をご存じなんですか?」
エルゼリンデは藍色の目を円くした。華やかさの欠片もない官位だし社交界にほとんど顔を出さないから、ごく普通の貴族には馴染みの薄いはずだ。
「ええ。私は趣味で詩作をたしなんでおりまして。たまに参考に足を運んでいるのですよ。子爵どのは非常に勤勉な方ですね。どこに何の書物があるかをすぐにお答えしていただけるので、いつもお世話になってますよ」
ハンスがにこやかに告げる。それを聞いて、エルゼリンデは頬をわずかに緩めた。父のことを誉められて、悪い気なんかするはずもない。
「それに、ご子息のほうも文官の出にしては見事な剣の筋をしていらっしゃる」
「あ、ありがとうございます」
自分のことまで誉められてしまい、どぎまぎしつつ頭を下げる。もちろん、「エレンカーク隊長のおかげですけど」と付け加えるのも忘れずに。
「ほう。あのエレンカーク隊長に胸をお借りしてるのですか! それはとても頼もしいことです」
ハンスが感嘆の声を上げる。
「そうとなると、この先も是非アルの練習相手になっていただけないでしょうか」
「え、私がですか?」
唐突な提案に、エルゼリンデは面食らった。アルフレッドほどの有力貴族なら、稽古をつけてくれる諸将などいくらでもいるはずだ。
「そうです。あなたがです」
ハンスはあっさりと首肯する。
「たまには同世代の若者と剣を交えたほうが良いですからね。それに、あの様子だと、必ずまた手合わせを申し込まれることになるでしょう」
エルゼリンデは眉を顰めた。それはいったいどういうことなのか。訊ねてみると、音楽家の風体の騎士は、深々と嘆息した。
「彼は負けず嫌いですからねえ。それも、かなりの」
言われてみればそんな気がする。先ほどの出来事を思い返し、エルゼリンデはなるほどと得心した。
「普段は気を張っていても15歳、血気盛んなお年頃というところですかね」
「そうなんですか……って、15歳!?」
相槌を打ちかけたエルゼリンデだったが、驚きの一言を耳にして思わずハンスの顔を凝視する。ハンスはそうなんですよとこともなげに肯いた。
「うーん、そんなに驚かれるとは。アルに教えたら喜びますかね」
にこにこ顔のハンスとは対照的に、エルゼリンデの顔には驚愕の文字が貼り付いたままだった。15歳、自分と同い年だ。大人びた印象があって到底それくらいには見えないが、もしかしたら自分が子供すぎるだけなんだろうか。
「そういうわけですから、これからもアルをよろしくお願いします。本人の気性もあるのでしょうが、なかなか同じくらいの年頃の方々と打ち解ける機会がないものですから」
「わ、わかりました」
自分よりも明らかに身分の騎士に頭を下げられてしまい、エルゼリンデは恐縮気味にそう返事をしていた。
「ああよかった。それでは私はこれで」
またお会いしましょう。ハンスは晴れやかな表情で告げると、複雑な表情をしたエルゼリンデの元を辞した。
同い年なんだ。
一人残されたエルゼリンデは、何とはなしにしばらくその場に立ち尽くした。
「ふーん。そんなことがあったのか」
ザイオンが朝食に支給された白パンをかじりながら興味深そうに頷く。
「お前って結構変な知り合いができるよな。そういうのも人徳ってやつなのかね」
「そうかなあ……」
首をひねってはみたが、確かに思い当たる節は多い。人徳なのだとしても、喜ばしいのやら嘆かわしいのやら、微妙な気分になる。
エルゼリンデは背中にした大木に寄りかかって、同じく白パンをかじった。早朝の思わぬ「稽古」のおかげで、いつもよりも若干遅れた朝食になってしまった。
「でもローデン伯爵っつったら超名門一族だし、もう一人のブライテンバッハも侯爵家の出で、しかもどっかの有名な将軍の親戚筋だって聞いたことあるし、知り合いになっといて全然損はないだろ。むしろ出世につながる大チャンスなんじゃねえの?」
だから今度オレにも紹介してくれよ。ザイオンがちゃっかり付け加える。
「うーん、出世かあ」
兄のミルファークならともかく、自分が出世してもどうしようもないのだけど。そんな思いを懐きつつ何気なく前方を見やって、エルゼリンデは咀嚼を止めた。
「どうした?」
横に座るザイオンが不思議そうに彼女の顔を覗き込む。エルゼリンデの視線は、こちらに向かってくる人影を捉えたまま。
訝しげな表情のザイオンもその視線を追って、
「……どうやらお前に紹介してもらう必要もなくなったみたいだな」
軽く肩を竦める。
二人分の視線を受けても泰然とした足取りを微塵も崩さないローデン伯爵家のご子息は、白パンを手にやや唖然としているエルゼリンデの前に立った。
「宿舎側にも訓練所にもいないからどこにいるかと思えば、こんな城の隅にいたんだな」
エルゼリンデとザイオン、二人が朝食をとっていたのは市街地側の城門に近い広場の一隅である。フロヴィンシアではこのあたりでエレンカーク隊長に剣を見てもらっていることもあって、用がなくてもこの辺に来ることが多いのだ。
「……あ、こんなところまでご足労いただいてすみません。何か御用ですか?」
同い年とはいえ、大貴族を前にしてさすがにぼんやり座っているわけにもいかない。エルゼリンデはパンを持ったまま立ち上がると、軽く一礼した。
「そう畏まらなくてもいいけど。こちらは、君のご友人?」
アルフレッドの緑眼が、同じように立ち上がったザイオンの上で留まる。
「はい。ホープレスク男爵の嫡男、ザイオンと申します。以後お見知りおきを」
ザイオンは簡潔だがそつのない挨拶をこなす。
「だから、そんなに畏まる必要もないけど。まあ、よろしく」
どうやら堅苦しい礼儀があまりお好きではないらしい。アルフレッドはちょっとうんざりした様子でかぶりを振った。
「それで、ご用件は何でしょうか」
エルゼリンデが再び訊ねてみる。すると彼は「そうだった」と顔を引き締めて、こう言い放った。
「先ほどの続きをしようと思って君を訪ねたんだ」
先ほどの続き。それは早朝の手合わせを指しているわけであって……ハンスの予想は見事に当たっている。
「そうだ。ザイオン、君にも相手になってもらいたい」
「喜んで務めさせていただきます」
「出世する大チャンス」とあって、ザイオンの声も弾んでいる。
「それはよかった。まだ食事中のようだから、終わったら訓練所に来てくれ」
「わかりました」
大貴族と知己になれたことを喜んでいいのかもしれないが、取るに足らない子爵家の人間をわざわざ捜し当ててくるほどの負けず嫌いのようだから、何だか大変な目に遭いそうな気もする。
少量の不安を胸に宿すエルゼリンデを置き去りに話はとんとん拍子にまとまり、アルフレッドは満足げに城のほうへ引き返していった。
「次は負けないからな」
との言葉を置き土産にして。
「……ミルファークの言うとおり、ほんと負けず嫌いなんだなあ」
去りゆくローデン伯の子息を見送って、ザイオンがしみじみと呟く。
「まあでも絶好のチャンスだし、顔とできれば恩を売れるよう、お互い頑張ろうな」
陽気な笑顔を覗かせたザイオンだったが、その笑顔が引き攣るのにそう時間がかからなかったのはまた別の話である。