第50話

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 盗賊に襲われてから8日後。第三騎士団の本隊から若干遅れをとったものの、エルゼリンデの所属するレオホルト分隊も無事にゼーランディア入城を果たした。
 ゼーランディア城は、草原とそれ以北を分断するように聳える山脈の細い渓谷を背に存在する。東の国境の最前線として、フロヴィンシア城以上に頑強な造りの要塞だ。
 エルゼリンデは薄い雲のかかった山並みを見晴かした。
 この山脈沿いに、今回の敵国となるモザール公国がある。モザール人は遊牧民族であるが、公国内のモザール人は山岳を拠点にしているらしい。モザールはもともとフロヴィンシアの北――ちょうどエルゼリンデたちが通ってきた草原に国を持っていたのだが、100年ほど前に王族間で内部抗争が勃発すると、王子の一人が東に出奔し、現在の土地に新たな国を建てた。それがライツェンヴァルトが呼ぶところのモザール公国となったのだという。草原に残ったモザール人のほうはというと、結局国が分解してしまい、今はフロヴィンシア総督の保護下に置かれている。
「凄いところだな」
 カルステンスから聞いた話を思い返すエルゼリンデの耳に、驚嘆のこもった声が滑りこんでくる。隣を見ると、剣を収めたアルフレッドが彼女と同じように雄大な風景を眺めていた。
 城に着くなり荷物を片付けるのもそこそこに、エルゼリンデはこの名門貴族のご子息に、稽古の相手を申し込まれたのだ。ちなみにザイオンはアルフレッドに話しかけられた時には、彼女の隣から消えていた。
「東は初めて来たけど、やっぱり南部とは違うな。全体的に険しいっていうか」
 アルフレッドは圧倒されたように呟く。
「そうなんですか」
 南部出身のザイオンがいれば話は違ったのだろうけれど、あいにくエルゼリンデには南の風景がどのようなものか、見当もつかない。
「南には行ったことないから分からないけど、でも西とも違いますね」
「ミルファークは、西の生まれなのか?」
 エルゼリンデは肯いた。
「リートランドっていうところに、領地があったんです」
「リートランド?」
 アルフレッドが首を傾げる。まあ、大貴族の有する領地とは比較できないくらい小さな村だったし、知らないのは当然だろう。エルゼリンデはそう思ったのだが、彼の反応は予想とは異なるものだった。
「何か、どっかで聞いたことがあるな」
「え、本当ですか?」
 意外な一言に、思わず目を瞠る。シュトフいわく「地理おたく」なカルステンスすら知らなかったというのに。
「誰に聞いたんだっけか……」
 アルフレッドは記憶を遡ろうとしているのか、眉間に皺を寄せている。
「ええと、そこまで真剣に思い出してもらうような土地でもないので……」
 あまりに真摯な様子のアルフレッドを見かねて、口を挟んでみるも。
「いや、思い出さないと僕が気持ち悪い」
「……そうですか」
 あっさり撥ねのけられてしまっては、引き下がるしかない。
 そうして訪れる微妙な沈黙。それを破ったのは、のんびりとした声の持ち主だった。
「ああ、いたいた」
「ハンスさん」
 城の方向から、相変わらず音楽家にしか見えない風体の騎士が歩いてくる。ハンス・ウィルヘルム・ヴァン・ブライテンバッハという仰々しい名を持つ彼は、見たところアルフレッドのお目付け役のようだ。
「ハンスか。どうした?」
 アルフレッドも、記憶を辿るのを中断して彼を見やる。ハンスは柔和な笑みを浮かべたまま、懐から一通の手紙を取り出した。
「お父上から便りが届いてますよ。それと、ちょっとお話が」
「……あ、それでは私は先に戻っていますので」
 エルゼリンデは二人に向かって軽く一礼し、そそくさとその場を後にした。何となく自分がいないほうがいいと判断したのもあるが、あの場に居続けて稽古を再開されるのも、ちょっと困った話だ。もうすぐ夕食の時間だし。
 とりあえず自分に宛がわれた宿舎に向かおうと、城壁沿いに歩みを進めていた時だった。


 一瞬だけ息を止めて、立ち止まる。彼女の視線の先には、浅黒い肌の青年がいる。彼もどこかにいて、城に戻る途中なのだろう。歩いてきた方向からすると、厩舎にいたようだ。
「――ナスカ」
 多量の遠慮を含んだ声で呼びかけてみる。ナスカの黒い目がこちらを向いたが、何も言わず、目礼のみを残して早足で立ち去ってしまった。
 やっぱり、避けられてる。エルゼリンデは肩を落とした。
 ナスカの態度に変化があったのは、盗賊の襲撃に遭った直後だった。
 ナスカに生命を救われたエルゼリンデが彼に感謝の意を伝えるのは当然のことだった。だが、
「……礼など、不要です」
 とびきり苦い顔をした従騎士は冷たい口調で言い放つと、一礼もせずどこかへ行ってしまったのだ。
 それ以来、ゼーランディアに着いてからも、目も合わせてくれないし言葉も交わしていない。
 嫌われちゃったのかな。
 立ち止まったまま、城内へ歩き去るナスカの背中を見つめ、エルゼリンデは嘆息する。それもしょうがないと思った。きっと、盗賊を前に何もできなかった無様な自分に、見切りをつけてしまったのだろう。
 エルゼリンデは従騎士の姿が見えなくなってもぼんやりと佇んでいたが、不意に新たな人物が近づいてきていることに気がついた。何気なく、そちらを見やり、先程とは別の意味で息を呑んだ。
「おやおや、奇遇ですな。ヴァン・イゼリア子爵令息どの」
「バルトバイム伯……」
 久々に遭遇した嫌な顔に、一歩後ずさりしそうになるのを辛うじて思いとどまる。
「相変わらず、嫌味がお上手なようで」
 バルトバイム伯爵家の孫息子は薄い唇を歪めた。嫌味? エルゼリンデは軽く眉を顰めたが、疑問を口にする前にヘルムートが言葉を続けた。
「元気そうで何よりじゃないか。どうやらここに来るまでに大変な目に遭ったようだけど、育ちが悪いせいか、本当に図太くできているんだな」
 まったく無事を喜んでいない口ぶりだ。あまりの無礼さにエルゼリンデは内心むっとしたものの、「おかげさまで」と無難な返事をするにとどめた。こんな嫌な奴、言い争いにすらなりたくもない。
「まあ、将来の義兄を心配するのは、義弟としては当然――」
 ヘルムートの底意地の悪い声が、突然止まった。何故か驚いたように瞠目し、エルゼリンデの肩越しを凝視している。
 どうしたんだろう、と首を後ろに巡らせるよりも早く、
「何だ、もう城に戻ってると思ったら、まだこんなところにいたのか」
 よく通る品の良い声が、その答えを告げていた。ハンスと話の済んだらしいアルフレッドが、エルゼリンデを見つけて声をかけてきたのだ。
「あれ? そっちは……ああ、ヘルムート殿か」
「お久しゅうございます。アルフレッド様」
 まさに態度一変。ヘルムートは年少の少年に恭しく頭を垂れる。今までの不遜な態度はどこへやら。あまりの変わり身の早さに、エルゼリンデは妙に感心してしまった。これが貴族というものか。
 にしてもバルトバイム家もローデン家も爵位は同じなのに、こうも差が出るとは、貴族社会はやはり難しい。そんなことを考えているエルゼリンデを尻目に、彼女とアルフレッドの顔を交互に眺めてから、ヘルムートが口を開いた。
「失礼ながら、お二人はどういった関係で?」
「ミルファークは、僕の友人だが」
 アルフレッドは即答した。何と言ったものか言葉に迷っていたエルゼリンデはその一言に驚き、思わず彼の横顔を振り仰ぐ。
 友人。まさかこんな偉い貴族のご子息からそんな風に言われるとは思っていなかった。私なんかが友達でいいのかな、という躊躇いもあるが、何だかくすぐったい気持だ。
「ところでこちらからも、ヘルムート殿とミルファークがどんな関係なのか、伺っても構わないかな? 少なくとも、親しいようには見えないが」
 アルフレッドの声は僅かな険しさを帯びている。それに気づいたのか、ヘルムートは狼狽を隠すように咳払いをした。
「……ただの親戚ですよ」
「親戚、か」
「ええ。ほとんど会う機会もないので、あまり親しく見えないのは当然でしょう……すみませんが、別の用事がありますので、私はこれで失礼させていただきます」
 取り繕うような笑顔で一息にまくし立て、ヘルムートは素早く踵を返してしまった。
「何か、胡散臭いな」
 誰がどう見てもその場を逃げ出したとしか思えないヘルムートの背に鋭い視線を送り、アルフレッドは呟いた。
「本当に君の親戚なのか?」
「……あ、ええ、はい。それは本当です」
 彼の動揺ぶりに戸惑っていたエルゼリンデは、我に返ったように首を上下させた。
「従兄弟にあたる人ですけど、確かにバルトバイム伯爵とうちでは家の格も違うし、ほとんど疎遠です。ヘルムート様とお会いしたのも、今回の従軍が初めてですから」
「ふうん。でも今となっては君の家のほうが立場が上なのだから、そこまで卑屈になることはないんじゃないか」
「へ?」
 エルゼリンデは藍色の目を瞬かせた。耳を疑う台詞が聞こえたような気がする。
「わ、私のほうが立場が上って、どういうことですか?」
 伯爵と子爵だったら、伯爵のほうが偉いに決まってる。それとも法の改正か何かで、爵位の序列がひっくり返ったとでも言うのだろうか。
 訊き返してみると、アルフレッドは意外な事実を告げた。
「どういうことって、バルトバイム家はこの前の財務卿失脚の件で、爵位を剥奪されたじゃないか」
「ええっ!?」
 爵位を剥奪? ということはつまり、今のバルトバイム家は……
「だから、身分的には平民ってことになっている」
 ああ、だからさっき嫌味が上手いとか言われたんだ。エルゼリンデは驚き冷めやらぬ様子ながらも得心した。それにしても、あのバルトバイム家が平民身分だとは。にわかに信じられる話ではない。
「君、知らなかったのか」
 アルフレッドが呆れ気味に嘆息する。
「ヘルムートが従軍してるのだって、財産没収と引き換えのことだからな。彼にしてみれば、屈辱以外の何物でもないだろう」
 同情する気はないけれど。大貴族のご子息は肩を竦めた。
「でも、そうか。ミルファークはあいつの親戚筋だったのか」
 アルフレッドの声が低くなる。
「だとすると、君はもうちょっと警戒心を持ったほうがいいかもしれないぞ」
「警戒心、ですか?」
 エルゼリンデは小首を傾げたが、すぐにある出来事を思い出していた。それは、フロヴィンシアでゲオルグたちから教えられた、貴族減らしの噂。
「仮に、バルトバイムが金銭より身分に執着する性質だとすると、おそらく考えることは一つしかないだろうね……君も理解できたようだけど」
 アルフレッドの言葉に、蒼ざめた顔で肯く。いくら世間に疎いエルゼリンデでも、さすがに彼が何を考えているのかぐらい理解できる。
 もしかしたら、ヘルムートはイゼリア家を乗っ取るつもりなのかもしれないと。
 そうだとすると、嫡子たるミルファークは邪魔な存在でしかない。
「今のところ、特に何事もないようだけど、気をつけるに越したことはないよ。たとえば、君の身近にいる人物とか」
 そこで唐突にナスカの顔が浮かんできたので、エルゼリンデは慌ててかぶりを振った。ナスカは確かに無愛想だし自分のことをよく思っていないが、それでも盗賊の襲撃では命を助けられたし、悪い人ではない。
「まあ、そこまで深刻に受け止める必要もないだろうけど。今は僕がいるから」
 よほど不安な顔をしていたのか、アルフレッドが元気づけるように彼女の肩を叩く。
「こういうとき、門閥とかって便利だから。さっき僕の友人だと牽制しておいたし、僕も探りを入れてみるし、できる限り君の不利にならないよう協力するよ」
「あ、ありがとうございます……」
 こんな弱小貴族には途方もない厚意だ。戸惑いつつも、エルゼリンデは頭を下げる。アルフレッドは彼女の肩に手を置いたまま、屈託のない笑顔を向けた。
「そんなに気にしなくていい。君は僕の友人だから。そんなわけで明日は弓の練習に付き合ってくれ。できれば一日中」

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