第51話

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 どこもかしこも慌ただしい。
 それがエルゼリンデの、ゼーランディアに来てからの印象である。目と鼻の先に敵国がある、いわゆる最前線なのだから、当然と言ってしまったらそれまでなのだけど。
 それにしても、どうにも周囲の雰囲気がピリピリしすぎて落ち着かないのが本音だ。戦いを目前に控えているから仕方がないのだが、エレンカーク隊長とも、ゼーランディア入りしてからというものまともに顔も合わせていないし。
 だからアルフレッドのしつこい稽古は、むしろ調度良い気晴らしになっていた。
「ミルファークは、弓が上手いよな」
 弓を引き終わった彼女に、ザイオンが感心した声をかけてくる。今日は朝っぱらからうやむやのうちに約束させられたアルフレッドとの弓の稽古なのだが、昨日はさっさと敵前逃亡したザイオンも積極的に参加している。もしかしたら彼もやはり、剣呑な空気を嫌ってのことかもしれなかった。
「そうかな?」
 エルゼリンデはちょっと眉を顰めた。たったいま、遠くの樹木の枝にぶら下げたリンゴの的を惜しくも外してしまったからか、その声に覇気はない。巧者と言うのならば、今のは簡単に落とせていたはずだ。
 それを告げると、ザイオンは肩を竦めた。
「あのな、オレなんて掠りもしなかったっつーの」
 弓を番えかけていたアルフレッドも、腕を下ろして深々と肯く。
「それほど強弓というわけでもないのに、よくあんな遠くまで矢を飛ばせるな。いったいどうやってるんだ?」
 やや詰問めいた口調で問われ、エルゼリンデの眉間の皺が深くなる。
「どうやってって言われても…普通に射るだけですが」
「僕だって普通にやってる。だから何か別の違いがあるんだろう。」
 さあ、どうやるんだ。じりじりと詰め寄られ、エルゼリンデの頬を汗が一筋伝う。どうやるんだと訊かれても、適切な回答など見当たらない。もちろん、これまでにエレンカーク隊長やウェーバーといった弓の扱いに長けた先輩騎士からアドバイスを貰うことはあった――あったのだが、「とにかく的から目を離すな」だの「当たると思って引けば当たる」だの、具体的な技術論には遠いものがほとんどであった。
 エルゼリンデはそれで何となく納得していたのだが、アルフレッドの性格を考えると、とてもそうはいきそうにない。
「……ま、まあ、私もひとさまに偉そうに言えるほど巧くはないので、その、とにかく練習あるのみだと思います。そうです、努力が何より大切なんです」
 お互いに頑張りましょう! 勢いに任せて拳を握ると、
「なるほど。そのとおりだ」
 なんと、アルフレッドが得心してくれた。
 これにはすっかり傍観を決め込んでいたザイオンも驚いたようで、黄土色の目を瞠っている。日焼けした顔には「うまいこと丸め込んだなあ」とありありと刻まれている。
 ザイオンの表情を見てエルゼリンデはちょっと鼻を高くしかけたのだが、そのあと聞こえてきた一言に、彼女のささやかな自信はもろくも打ち砕かれてしまった。
「よし、ミルファーク。それじゃあどちらが早くあのりんごを落とせるか、勝負だ!」




 ああ、腕が痛い。
 冷たい夜風にさらされながら、エルゼリンデは右腕をさすった。結局あれから夕暮れまでアルフレッドの「競争」に付き合わされてしまった。もちろん、「もう一回だ!」のオプションつきで。
 エルゼリンデはぶるりと体を震わせた。
 一瞬、耳の奥にアルフレッドの負けん気の強い声が蘇ってきたからだと思ったが、単純に体が冷えているのだろう。やはり、冷涼なゼーランディアで夜に風呂をいただくのは良くないかもしれない。
 早く宿舎に戻ろう。足を速めたエルゼリンデだったが、別の宿舎の壁沿いにうずくまる人影を見つけ、思わず立ち止まった。
 薄闇の中、目を凝らしてみると、華奢な少年らしき男がしきりに肩で息をしている。
 具合でも悪いのだろうか。
「どうかしましたか?」
 やや警戒しつつ人影に近づき、声をかけると。
 意外なほどの素早さで顔を上げた少年の顔を見て、エルゼリンデは小さく驚きの声を漏らした。
「セ、セルリアン……!?」
 条件反射よろしく、一歩後ずさってしまう。
「――ミルファーク……?」
 自分よりよっぽど女性らしい容貌の少年も、さすがに驚愕は隠せなかったようだ。いつもの人を食った表情がすっかり影を潜めている。
 こんな時間にこんな場所で、おまけに夜着のままで何をしているのか。エルゼリンデはそれを訊ねようとして、はたと思いとどまる。お互い様だからだ。
「だ、大丈夫? 何だか具合が良くないようだけど」
「……別に、君には関係ないだろ」
 先の疑問の代わりに見たままのことを告げると、毒も柔らかさもまったく感じられない、棘のある答えが返ってきた。やっぱり、いつものセルリアンらしくない。
「それはそうだけど。でも、本当に体調が悪いなら、お医者さんの所に行ったほうがいいんじゃないかな」
 いくら苦手な人間だからといって、このまま立ち去るのは目覚めが悪い。エルゼリンデは言葉をかけながら、医務室の場所を記憶の中から探し始めた。
「本当になんでもないから、放っておいてくれない?」
 セルリアンの声が苛立ちを増す。彼は立ち上がろうと腰を上げたが、そのか細い体は動きについていくことができず、ふらりと傾いた。
 エルゼリンデが慌ててセルリアンの体を支える。そうして、気がついた。彼は、こんなに痩せ細っていただろうかと。
 確かにフロヴィンシアを出てからは、過酷な行軍だったから、多少やつれるのも無理はない。だが、いまのセルリアンは「多少」の域を超えているように思えてならなかった。最近あまり顔をあわせていなかった分、余計に。
 本当に大丈夫なのか。問いただそうと口を開きかけたエルゼリンデだったが、しかしセルリアンに体ごと突き放されてしまう。
「――君に、心配される覚えはないはずだよ」
「そ、そうかもしれないけど。でも具合が悪そうな人を放っておくことなんて――」
「ああ、もう」
 少年は愛らしい顔を歪め、栗色の髪を苛ただしげに掻き上げた。
「君のそういうところが嫌いなんだ、僕は。いまさら、僕に対して偽善ぶる必要もないんじゃないの?」
 ことさら冷たく言い放ち、戸惑う彼女に背を向ける。頼りない足取りで歩き出すセルリアンの背中を見つめ、どんなに拒絶されても医者の元へ引っ張っていくべきか否かで迷っているエルゼリンデの耳に、夜風とともに消え入りそうな呟きが聴こえた。
「それに、もう僕に関わらないほうがいいよ。君まで……汚れるから」
「……え?」
 どういうことなのか。訊き返そうとするも、彼の姿はすでに宵闇の中。
 セルリアンに何があったのだろう。
 フロヴィンシアにいたときとは明らかに様子の変わってしまった同僚の少年を慮り、その場に立ち尽くす。
 彼の言うとおり、別に自分が心配する必要はないのだ。色々と酷いことをされたり、言われてきたのだから。
 でも、何故だか放っておけないと思った。単に弱っている姿を見たせいなのか、それともセルリアンの言うとおり、
「……偽善者なのかな?」
「いやいや、そりゃお前さんの考えすぎだって」
「!?」
 つい口をついて出ていた独り言に反応が返ってきて、エルゼリンデは驚愕のあまりその場を飛び退り、宿舎の壁に張りついた。
 そんな彼女の行動に、謎の声は陽気に笑う。
「いやー、悪い悪い。驚かせたみたいだな」
「……シュ、シュトフさん……?」
 ようやく声の持ち主を思い出し、おっかなびっくり肩越しに振り返る。
 彼女のちょうど斜め後ろから、見慣れた青年が現れた。思いのほか至近距離まで来ていたのに、さらに驚きを募らせる。物思いに耽っていたとはいえ、あまりにも気配がなさ過ぎではないか。
 訝るエルゼリンデに対し、ギルベルト・シュトフは平生と変わらぬ明るい笑顔を覗かせている。
「いやー、あんな修羅場が、まさかミルファークとの久々の再会になるとはなあ」
 人生、分からないもんだな。腕組みしつつ、何だか妙なところで感心している先輩騎士を呆然と見つめていたエルゼリンデは、ふと我に返った。
「ええと……いつから聞いていたんですか?」
 彼の口ぶりからしてたったいま、ばったり出くわしたとは考えにくい。
「わりと最初から。つーか、通りがかりに見るからに具合悪そうな坊やがいるなあと思ってたら、一足先にお前さんがそいつの許に向かってたってわけ。んで、面白そうなんで見物してた、と」
 シュトフはけろりと答えた。
「そ、そうですか」
 あっさり返答されてしまっては、それ以上返す言葉もない。
「ま、なーんか複雑そうな感じだったけど、ミルファークがそこまで気にすることもないだろ。時にはぐっとこらえて黙って相手を見守るのも男の優しさってやつだな」
 シュトフは偉そうに諭しながら、エルゼリンデの肩を叩く。彼の言うとおり、関わってほしくなさそうな態度を取る相手にあれこれ世話を焼くのは、きっと「おせっかい」とか「余計なお世話」というものだろう。
 エルゼリンデは軽く肯き、それからすぐに首を傾げた。
「そういえば、シュトフさんはこんな夜中にどこへ行っていたんですか?」
 フロヴィンシアではしょっちゅう夜の街に繰り出していたと彼の同僚が言っていたが、ゼーランディアは敵国の最前線だし、周りを見渡しても草原と山並みが広がるだけで、城下町という印象はほとんど感じられない。
 彼女のもっともな疑問を受けて、シュトフはにやりと笑った。
「どんなに寂れた場所でも、それなりに花はあるのさ」
「花、ですか」
 ゼーランディアで、しかもこの季節に花が咲いているとは。思わず目を円くすると、彼は今度は音を立てて笑った。
「どんな花が咲いてるのかは、もうちっと大きくなれば分かるさ」
「はあ……」
 明らかに子ども扱いされているのに、どうしてだかシュトフが言うと嫌な感じがしない。それに、自分でもまだ子どもだと自覚していることだし。
「やっぱ悔いを残して戦場に行くのはもったいないからなあ。でかい戦いの前こそ深刻ぶってないで、楽しむだけ楽しまないと損だぞ」
 戦い。その一言には、どうあってもどきりとする自分がいる。エルゼリンデの顔色の変化が夜目にも分かったのか、シュトフは肩を竦めた。
「ミルファークはこれが初めてだから、緊張するのも仕方ないか。でも、あんま重く受け止めすぎたところで、こういうのは自分じゃどうにもできないからなあ。とにかく、みっともなくてもいいから生き残ることだけ考えてれば、どうにかなるもんさ」
 彼女の頭に手を置いて、そう述懐する。心なしか、普段の明るくて軽い口調とは違っている気がした。
「そうだなあ。誰にでも、どうにもできないことっていうのはあるよなあ」
「……シュトフさん?」
 眉を顰めて声をかけるエルゼリンデの顔を、シュトフはしばらくの間じっと見つめる。
 セルリアンに続いてこの先輩騎士まで様子がおかしいことに、エルゼリンデが大いに戸惑っていると、彼の声が降ってきた。
「あー、いや。何でもない」
 シュトフは彼女の頭においていた手をどけて、ひらひらと振ってみせた。
「まあ、なんだ……殿下のこと、よろしく頼むな」
「――はい?」
 予想だにしていなかった言葉に、思わずぽかんと訊き返す。だが、シュトフも先刻のセルリアン同様に、「あんまり夜更かしすんなよ」との挨拶を残してさっさと引き返してしまった。
 わけが分からない。
 一人取り残されたエルゼリンデは、間の抜けた表情のまま立ち竦むしかなかった。
 二度も立て続けに意味深長なんだか戯言なんだか、兎にも角にも意味不明な台詞を言い逃げされたとあれば、怒りに似た感情まで湧いてくる。
 今夜眠れなかったらあの二人のせいだ。
 どう対処していいものやら、途方にくれたエルゼリンデは、とりあえず怒りにまかせたまま宿舎に帰ることにした。

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