第52話

BACK || INDEX || NEXT

 ざわめく人ごみの中に視線を飛ばしながら、エルゼリンデは生あくびを噛み殺した。
 ここぞとばかりにきらきら輝く朝日と、晴れ渡った青空が睡眠不足の目にしみる。
 明日が出立だからなのか、それともこれから王弟殿下が姿を見せるからなのか、周囲の騎士や兵士たちは朝っぱらだというのに浮き足立っている。
 エルゼリンデはその渦中にひとり、探し人を尋ね、うろつき回っていた。
 結局、昨夜の一件をあれこれ考えすぎて、満足に眠れなかった。セルリアンのことは、本人が拒絶している以上こちらからはどうにもできないから、ひとまず胸中にとどめておくとしても、問題はシュトフのほうだ。
 殿下のことをよろしく頼む。
 昨夜、確かに彼はそう言った。この耳でしかと聞いたはずだ。今現在、ライツェンヴァルト王国で「殿下」と呼ばれる身分にあるのは3人いるが、うち2人は女性でどちらも幼子なので、シュトフが指す「殿下」とは、必然的に一人に絞られる。
 どうして、シュトフに王弟殿下のことをよろしく頼まれたのだろうか。そもそも、自分と殿下に面識があるのを、彼は知っていたのだろうか――いや、知っていなければあんな台詞は出てこないに違いない。じゃあなんで、面識を持ったことを知っているのだろう。自分から打ち明けたことがあるのは、エレンカーク隊長だけなのに。
 次々と噴き出してくる疑問が頭の中で堂々巡りを繰り返す。
 あれこれ考えていても埒が明かない。本人に直接訊いてしまえばいいではないか。その結論に至ったのは、明け方のまどろみから覚めた直後であった。
 いざ胸のわだかまりを晴らそうと勇んで起床してみれば、明日の早朝に戦地に向けて出立だとか、最高司令官たるアスタール殿下自ら壮行会を開催するだとかで周囲は一層慌しい。
 エルゼリンデも手伝いや何やらに駆り出され、結局すぐに彼を探しに行くことはできなかった。しかしながら、壮行会には主だった騎士はほとんど顔を見せるはずなので、第一騎士団に所属しているシュトフも、さすがに広場に来ているだろう。そう踏んで、先ほどから人ごみをかき分け尋ね歩いているのだが。
「……本当にたくさん人がいるなあ」
 うんざりと嘆息する。そう、ゼーランディア城内にある広場は人々で溢れかえっていて、とても人探しができる状況になかった。
 第三騎士団の同僚など、顔見知りに鉢合わせる度に訊いてみるものの、みな「見ていない」との答えしか返ってこない。
 もう、この場で探すのは諦めて、宿舎を訪れたほうがいいのかな。エルゼリンデは僅かな疲労を胸にそう思った。とはいえ彼のことだ。夜中になるまで帰ってこないことも大いに予想されるけれど。
 もう一度ため息をつきかけて、ふと息を呑む。
 にわかに轟音のような歓声が、うなりを上げて広場を包み込んでいく。王弟殿下が姿を現したのだ。
 エルゼリンデもシュトフ探しを中断して、テラスの方角へと視線を向ける。この距離だと顔かたちまでは見えないが、黒衣をまとった長身の男は、まぎれもなく王弟殿下その人だ。少し下がった両隣にも人が立っており、左側はおそらく雰囲気からしてローゼンヴェルト将軍だろう。右側にいるのはゼーランディアの城主にして第十騎士団団長らしかった。入城のときに出迎えで出ていたから、見覚えはある。名前は……忘れてしまったけど。
 ゼーランディアの城主が、声を張り上げている。ここからだと人々の歓声に紛れることもあって内容は聞き取れないが、士気を鼓舞する言葉であろうか。集まった騎士が口々に雄叫びにも似た声で応じている。
「アスタール殿下、万歳! 国王陛下、万歳! ライツェンヴァルト王国に栄光あれ!」
 熱狂が渦を巻いて辺りを席巻する。寝不足かつ考えごとに脳内のかなりの部分を占拠されていたためか、エルゼリンデは聴衆の熱気に乗るどころか気圧されてしまっていた。
 それにしても。エルゼリンデはテラスを見上げた。
 王弟殿下の人気の凄さを改めて体感する。そして、本来なら雲上人であることも。
 こういう場に立っていると、本当に、数回も言葉を交わしたことが信じられなくなる。
 おまけに話すだけならまだしも、命令に背いたり、暴言を吐いたり、迷惑をかけたりとやりたい放題ではなかったか。
 色々不都合なことを思い返したエルゼリンデは青くなった。まったく、よく無事でいられるものだ。こんな話をほかの人間にしたら噴飯ものどころか卒倒してしまうのではないか。
 それにしても、どうして自分ごとき零細貴族にお二人ともあんなに寛容なんだろう。首をひねってみて、ふとローゼンヴェルトに告げられた一言を思い出した。
 ――ご自分の心に訊ねてみれば、自ずと答えは導き出せるでしょう。
 なんとも意味深長な言葉だ。捉えようによっては、過去に面識があったようにも聞こえるが、あいにくそんな機会はこれまで一度もなかったはずだ。
 だとすると、どういう意味なのか。
 …………?
 不意に、言いようのない違和感が胸中にもたげる。これは、なんだろう。さらに首をひねって――
 「……ああっ!?」
 図らずも大声を上げてしまい、周りの怪訝な反応を恐れてすぐに両手で自分の口を覆う。しかし彼女の叫び声は、幸なことにこの熱狂に溶け込んでくれたようだ。
 エルゼリンデは動揺を抑えるように胸に片手を当てた。
 なんでこんな単純なことを忘れてしまっていたのだろうか、自分は。エルゼリンデは自分を叱りつけたい気持ちでいっぱいだった。
 ずっと兄の名で呼ばれ続けていたからすっかり慣れてしまったが、今の自分は「エルゼリンデ」ではなく「ミルファーク」なのだ。これまで出会った人たちも、みなそのように認識している。殿下や彼の腹心とて、例外ではないはずだ。
 なので、エルゼリンデに心当たりがなくて当然。だって彼女は本当のミルファークではないのだから。
 と考えるならば、なんと我が家の病弱な兄が王弟殿下と知己だった可能性があるということではないか!
 いったい何をしたんだ、兄さん。
 観衆の熱狂そっちのけで、エルゼリンデは一人呆然とつっ立ったままだった。


 壮行会自体はごく短時間で終了したが、アスタール殿下をはじめとするお偉方が城内に引っ込んでもなお、あちらこちらで熱のこもったざわめきがひっきりなしに聞こえてくる。
 しばらく兄について思いを巡らせていたエルゼリンデは、若干ぼけっとしつつも、賑わう広場を抜けようと足を進めていた。
 と、視界に見慣れた薄い金髪が飛び込んできて、慌てて方向転換する。城へと向かっているらしい細身の騎士は、シュトフの同僚であるカルステンスだ。エルゼリンデはついに探し人に遭遇できたと一瞬心を弾ませたが、しかし彼の隣にいたのは、見事な赤毛を持つ長身の騎士で、お目当ての人物の姿はどこにもない。
 すぐ近くまで来ながらも、見知らぬ人と話しているカルステンスに声をかけて良いものか躊躇っていたエルゼリンデに、視線を感じたのか、赤毛の騎士のほうが顔だけ向けてくる。
 ど、どうしよう。端整だがちょっと怖そうな感じの男に不躾にじろじろ観察され、背中を冷や汗が伝う。救いを求めるようにカルステンスの横顔を見つめると、赤毛の青年が彼の腕を小突いて、注意をこちらに向けてくれた。
「ミルファーク」
 カルステンスは水色の双眸を軽く瞠った。赤毛の騎士のほうは、別段興味も邪魔する気もないらしく、そのまま歩き去っていく。
「こ、こんにちは」
 怖そうな騎士がいなくなったことに内心安堵しつつ、こちらにやって来たカルステンスに頭を下げる。
「どうしたんだ? 何か用事でも?」
 エルゼリンデは小さく肯いた。
「あの、シュトフさんを見かけませんでしたか?」
「シュトフ?」
 カルステンスの形の良い眉が訝しげに顰められる。
「いや、見ていないが……あいつに何か用でもあるのか?」
「そんなに大したことでもないんですけど、ちょっと、その、聞きたいことがあって」
 どこにいるか心当たりはありませんか。続けて訊ねると、彼はゆっくり頭を振った。
「あいにく、今日は朝からずっと見かけていないな。まあシュトフのことだし、どこかで油を売ってるんだろう」
 困ったものだといわんばかりに嘆息する。そんな彼に、エルゼリンデは何気なくこんな質問を投げかけた。
「そういえば、シュトフさんってどんな人なんですか?」
 昨夜のあの発言以来、にわかに気になっていたことだった。カルステンスについては本人が出自とか家族のこととかを話してくれたことがあるから何となく知っているが、シュトフはよくよく考えれば「謎の人」なのだ。分かっていることといえば、どうやら平民出身であることと、騎士であることくらいだ。
 彼と仲のいい――とエルゼリンデは確信しているが――カルステンスならば、ある程度のことは知っているんじゃないか。そう思って訊いてみたのだが。
「……何故ミルファークが急にあいつのことを気にするのかは分からないが」
 カルステンスは白皙に苦笑を乗せた。
「そういったことは本人に直接訊いたほうがいいんじゃないか。ミルファークも、知らないところで自分のことを訊き回られれば、少なくとも好い気はしないだろう」
「あ……」
 指摘を受け、エルゼリンデは口を噤んだ。彼の言うとおりで、返す言葉もない。
「すみません」
 恥じ入ったように肩を縮こまらせる彼女に、カルステンスは穏やかな口調でこう言った。
「そんなに気にすることはない。シュトフを探してるなら、あいつが戻ってきたら私からその旨を伝えておこう」
「ありがとうございます」
 果たして彼女のところに素直に赴いてくれるのか、不安は大量に胸に積もっているにしても、闇雲に探し回るよりずっと時間も手間も省ける。エルゼリンデは愛想がないながらも良き先輩騎士に礼を言い、今度こそ持ち場に戻るため踵を返した――その背中を、カルステンスが形容しがたい眼差しで追っていたことには気づかぬままに。




 夕暮れのゼーランディアは、幻想的な色をしているようにエルゼリンデには感じられた。昼間は荒涼たる景色も、夕陽に染まると途端に鮮やかな風景画に変わる。城壁の内側から、エルゼリンデは食い入るように遠くの国境沿いを眺めた。
「あの辺りが」
 ここに連れて来てくれたエレンカーク隊長が、東の地平線に広がる平原を指差す。
「今回の主戦場になる」
「ここからだと、まだ敵勢力は見えませんね」
 隊長の示す方角を見晴るかしてそう言ったのはザイオンだ。
「そりゃそうだ。距離もあるし、向こうは大軍を集結させて戦うやり方じゃねえからな」
「地の利を活かした奇襲とか多いんでしたっけ。何か、ちょっとやりにくそうな相手ですよね」
 ザイオンにしては珍しく後ろ向きな発言だ。一つ違いの少年も、やはり不安は抱えているのだろう。
「ま、話だけ聞いてりゃそう感じるかもしんねえが、こっちにはその「やりにくい相手」に連戦連勝してるアスタール殿下がいる。心配にゃ及ばねえよ」
 いたって普段どおりの口調なのは、きっと変に心配させないための配慮に違いない。二人のやり取りを聞きながら、エルゼリンデはそんなことを考えた。
「ミルファーク」
 ザイオンの黄土色の瞳がこちらを向く。
「今日は随分おとなしいじゃねーか。どうした、怖くなったか?」
「そんなことないけど」
 揶揄するような彼の口ぶりに、ちょっとだけ頬を膨らませて反論する。
「ただ、何か不思議な感じだなあって。ここにこうやって立ってるのが」
 ほんの少し前まで、貧乏貴族の子女としてささやかなながらも平穏な生活を送ってきた自分が、こうして騎士として剣を帯びて、城壁から戦場を眺めているなんて。いまさらだけども、奇妙に現実味が感じられない。
 いま、夢だって言われても信じそうな気がします。肩を竦めて冗談めかすエルゼリンデを見て、強面の隊長はふと柔和な笑顔を浮かべた。
「そうだな。実際戦場に出てみても、夢の中見てえにあっという間に終わっちまう感覚はあるからな。それがいいのか悪いのかは、本人次第だが。ま、それくらい暢気に構えることができりゃ、まずまず大丈夫か」
 隣に立つエレンカークは、いつものようにエルゼリンデの頭をくしゃりと撫でた。ただ、その目は彼女ではなく、遠く地平線を見据えていた。
「夢だって思ってるほうが幸せなことだって、世の中にはたくさん転がってるからな」
 隊長の厳しい横顔が、いつも以上に険しくなっている。これが戦いに臨む者の顔つきなのか。そう感じたのはザイオンも同じだろう。
 死なせはしねえよ。
 不意に、この前エレンカーク隊長に言われた一言が鮮明に甦る。何があっても隊長なら守ってくれる。絶大な信頼を寄せるに相応しい言葉ではあるが、自分も同じ思いを抱いていることを彼女は自覚していた。隊長も、ザイオンも、みんな死なせたくない。自分にできることは本当にちっぽけで、限られているけれど、それでもできることを精一杯やろう――余計なことは考えずに。
 闇夜を告げる陽の残滓は、不思議と不吉なものに映らなかった。

BACK || INDEX || NEXT


inserted by FC2 system