第54話

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 剣を右手で握り締め、騒乱の真っ只中へ躍り込む。
 さまざまな音の奔流に、空気が振動している。ぴりぴりとした熱がエルゼリンデの肌を掠めた。
 15年間生きてきて経験したこともない、多種多様な感覚がエルゼリンデを襲う。その重圧に耐えながらも、体も思考もまとまりのない今の状態のほうが、ひとつのことに集中できない分、かえって好い方向に働いたのかもしれない。
 彼女は半ば忘我の状態で剣を振っていた――と言っても、たまに迫りくる兇刃を弾き返すのが精一杯であったのだが。
 暴風はすぐに去った。元々の戦力差と敵の不意をついたことが功を奏し、むしろあっけないほどの幕切れだ。しかしエルゼリンデにとっては、一晩中荒れ狂う嵐がようやく静まったかのごとく、気の遠くなるほどの時間を感じた。これまでに幾度も剣を振っていたはずなのに、持つ腕が僅かに痺れている。手綱を握る掌も、うっすら血が滲んでいるようだ。
 滴り落ちる汗の雫が目に入って、今がどういう状況で何がどうなっているのかよく分からない。革の手袋を着けたままの指で目尻を拭い、弾んだ息を整えようと思い切り息を吸い込んで――
 気道に流れ込んだ生臭い血臭に、激しく噎せ返る。
 今度は目尻に涙を溜めつつ、動転しかけた気持ちを鎮めようと周囲を見回す。それが逆効果だと気づくのに、大した時間はかからなかった。
 乾燥した大地はところどころ赤く染まり、至るところに人間が転がっている。いずれも両軍の兵士であるが、圧倒的にモザール軍兵士が多い。斃れ伏して微動だにしない者もいれば、小刻みに痙攣している者、呻き声を上げ苦痛にのたうち回っている者……正視に耐えられず、エルゼリンデは固く目を閉じた。それでも、見えなくても呪詛に似た苦悶の声、体に纏わりついてくる血と脂の臭いは消えてくれない。
 ……気持ち悪い。
 吐き気が胸の奥からせり上がってきて、唇を噛んで何とかやり過ごす。深呼吸をしたいと思っても、それすら今は叶わない。
 これが戦争、戦場というものなのか。
 御伽噺とのあまりの落差に体が戦慄く。街の片隅で浮浪者の死体に遭遇するのとは明らかに違う、生と死の境界線に立っているのだ。
「――大丈夫か?」
 こみ上げる嘔吐感と必死に戦う彼女の許に、いつの間にかアルフレッドが馬を寄せてきていた。心配そうに大人びた顔を歪める彼も蒼くなっていたが、自分はそれ以上にもの凄い顔色をしているのであろうことは、その表情から容易に読み取れた。
 大丈夫。それすら言葉に出せず、エルゼリンデは無言のまま小さく肯く。
「これを飲むといい。少しは気分が良くなるだろうから」
 アルフレッドは上質な革で作られた水筒を差し出した。大貴族のご子息からの好意をありがたく受け取り、水筒に口をつける。ただの水かと思ったら、ほんのりとした酸味が口の中に広がる。どうやら、柑橘類の果汁を混ぜた飲み物なのだろう。
 喉を潤したおかげで気分も先ほどよりは落ち着いてきた。エルゼリンデは同い年の少年に礼を言って水筒を返すと、改めて周りをぐるりと見渡した。
 レオホルト隊長は部下に敵軍のうち怪我人を捕縛するよう指示を出しているようだ。彼女のすぐ傍らでは、ナスカが槍に付着した血液を拭き取っている。この状況下にあっても相変わらずの無表情ぶりで、エルゼリンデはささやかな安堵を覚えた。そのほか、彼女と同じ新兵だろうか、この凄惨な状況に耐えかね、馬を降りて嘔吐している者もいる。
 嵐が通り過ぎた後の、刹那の静寂を打破したのは人間だけではなかった。身を潜めていた野の獣たちも、血臭に惹かれてこちらの様子を窺い始めている。
「移動するみたいだな」
 アルフレッドが呟いたとおり、先に交戦していた隊が更なる戦場を求めて動き出している。うちの隊はどうするんだろう、と隊長を見やると、金髪の貴公子はやや険のある表情で副官と言葉を交わしている最中だった。どうも、最初の進軍のときからあの温厚なレオホルト隊長の機嫌が良くない。何かあったんだろうか。エルゼリンデの胸中を、不安の影が過ぎる。
 先に移動した隊影が遠ざかったころ、彼女の隊にも進発の号令がかけられた。エルゼリンデも、あちこちに点在する死体をなるべく直視しないように避けながら馬を進める。
 ちらりと肩越しに振り返ると、従騎士のナスカが黙然と彼女に従っている。先ほどの短い戦闘でも、何度か彼には助けられた。お礼が言いたかったが、それが自分の仕事だと突っぱねられるのは分かっていたので、結局何も告げずに前を向いた。




 ゼーランディアの城壁から眺めたときはなだらかに見えた平原は、実際に走ってみると高低差が結構あり、小高い丘が連なっている地形も多い。
 隊列に従って移動しながら、エルゼリンデは不意にちょっとした違和感を覚えた。先ほどまでは遠巻きに聞こえていた戦場の音が、今は止んでしまっている。
 現在どの辺りを移動中なのか、戦況はどうなのか。多少気になりはしたものの、景色だけではさっぱり見当もつかない。ずっと前にカルステンスが言っていたように、ちゃんと地図を見ておくべきだったか。いや、たとえ事前に目を通していたところで、きっと自分には方向感覚など掴めなかったに決まっている。
 そこまで考えを巡らせてから、はたと頭を振った。
 とにかく、余計なことを考えず隊長の指示にしたがうこと。エレンカーク隊長の教えを呪文のように口の中で唱える。
 アルフレッドの差し入れと新鮮な空気のおかげで、気分も随分と凪いできた。戦いの現場を目の当たりにして慄然としたが、だからといって投げ出すわけにもいかない。剣を抜いた以上、もう前に進むしかないのだ。
 自分にそう言い聞かせて眦に力を込める。だが、いずれあの死者の群れに自分も加わってしまうのではないかという恐怖は払拭しきれない。そして、そうならないためには誰かを斬らなければならない未来に対する不安も。
 エルゼリンデとは対照的に、隊の中には殺した人数を高らかに言い合い、競っている騎士も多い。彼らのほうがごく一般的な騎士であることは理解している。おのれの武勇を誇示するには一番手っ取り早く、分かりやすい手段なのだから。
 ――やっぱり、自分は戦いに向いてないのだろうか。
 手柄を立ててお金を稼いで帰ってくる。そんな風に意気揚々と考えていた頃が懐かしい。「行って戦って帰ってくるだけ」――それがいかに子どもじみた夢想であったか。今のエルゼリンデははっきりと自覚していた。


 丘陵地帯を駆け上がり、駆け下りる繰り返しのなかで遥か前方を見晴るかす。
 エレンカーク隊はどのあたりにいるのか。そんなことが気になった。有能な隊長のことだから、きっと善戦してるに違いない。
「戦いが終わるまで、顔は見られないかもしれないな」
 出立の時、ザイオンが放った言葉が甦る。二度と会えないなんてことにならないよう、お互いしぶとく生き延びよう。悪戯っ子の笑顔を覗かせて、彼女の良き友人は続けたが、できればすべてが終わってからではなく、戦いの最中にでも再会したい。エルゼリンデは自分の望みを胸の内に思い描いた。
 ザイオンもそうだが、何より、エレンカーク隊長に会いたかった。
 たとえ話せなくても、顔を見るだけでもいい。それだけで溜め込んでいる不安も恐れも吹き飛んでしまいそうな気がするから。そうして、戦いが終わった後には不甲斐ない自分を叱ってほしかった。
 でも、そう思い通りにいくわけないか。エルゼリンデは都合のいい妄想を振り払うため、馬の腹を蹴って速度を上げる。
 レオホルト隊長の背中がだんだんと大きくなってくる。
 彼女の耳にざわめきが飛び込んできたのはその時だった。前回の例から、今回ももう敵を発見して突撃したのだろうか。
 再び迫りくる戦火を予想し、全身に緊張を漲らせるも、どうも様子がおかしいことに気づいた。レオホルト隊に先んじて進軍している隊が速度を緩めているらしいのだ。
「あれは……うちの団か?」
 レオホルト隊長の声がエルゼリンデの耳まで届く。目を凝らすと、前方から馬を駆る一団がこちらへ向かってきていた。
 いったい、何が起こったのか。隊内に動揺が走る。
「――とにかく向こうに合流する! 急げ!」
 第三騎士団の一部と認識したレオホルトが、いつになく厳しい口調で命令を下す。隊列は一気に加速し、すぐに顔が視認できるまでに接近した。
 エルゼリンデはあっと息を呑んだ。
 何と、一団を率いていたのはエレンカーク隊長ではないか。
 まさかこんなにすぐに再会できるとは。想定外の展開に喜ぶというより呆然としてしまったが、すぐに我に返る。戦いの只中にあってぼんやりしている場合ではない。それに、エレンカーク隊長の表情が、普段以上に怖い。地獄に魔王がいるならば、こんな顔をしているのかと納得させられるほどに怖い。
「スヴァルト、何があったんだ?」
 すぐさま彼の許へ馬を寄せたレオホルトが訊ねるのも当然だった。エレンカーク隊は第三騎士団団長のゼルヘルデン将軍の部隊とともに、先頭に配属されているはずだ。その彼の隊も含め、こんなに大勢の部隊が後退してくるとは、通常では考えられない事態だった。
 エレンカーク隊長は露骨に舌打ちした。
「何もどうも、あのクソ禿、やりやがった!」
 周囲のざわめきが、加速度的に拡大していく。本当に、今どんな状況にあって、これから何が起きるのだろうか。まったく先が見通せない。
 つい数刻前の楽観的な空気は、いまや不穏な影に覆いつくされていた。

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