第55話

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「どういうことだ?」
 レオホルト隊長から発せられた言葉は疑問の形をとっていたが、一気に蒼ざめた顔を見るかぎり、盟友から返ってくる回答を充分予測していたのだろう。
「あのクソ禿がイノシシ以下だっただけだ」
 エレンカーク隊長の答えは辛辣だった。
「やはりか。初動のタイミングがあまりにも早かったから、もしやと思っていたが」
 また9年前の繰り返しか。そう呟いて嘆息するレオホルトに、エレンカークは首を振った。
「いや、状況はあの時より更に悪い。あの時はクソ禿の隊とその周辺だけで済んだが、今回は第三騎士団全体が危ねえ」
 隊長同士の会話は、さすがに小声で交わされていたが、間近で聞いていたエルゼリンデは「危ない」の一言にどきりとしてしまった。
「――状況は、どうなっている?」
 一方、彼女の直属の上官はその程度の発言で冷静さを失することはなかった。
「最悪だな」
 エレンカーク隊長は口の片端を吊り上げて吐き捨てる。
「クソ禿が先走って突撃したもんだから、他の隊との連携が崩れたばかりじゃねえ。一団だけ突出しちまったもんだから敵軍が群がってきて包囲寸前だ」
「ちょっと待ってくれ」
 エレンカークの説明を遮ったのはレオホルトではなく、彼のすぐ前を行っていた隊の長の声だった。
「肝心のゼルヘルデン将軍らはどうしたというのだ? 姿が見えないようだが」
「将軍閣下なら先陣を切って真っ先に敵の群れに飛び込んでいったさ。今頃どこでどうしてるかは知らねえけどな」
「何だと!?」
 投げやりとも取れる返答に、エレンカーク隊長と同年代に見える3人目の隊長の声が上擦る。
「それでは将軍閣下を置き去りにした挙句、貴様は敵前逃亡してきたと言うのか!? 貴様それでも騎士か!」
「ならば訊くが」
 エレンカークの口調は、激昂する隊長とは対照的だった。
「アスタール殿下の命令を完全に無視して勝手な行動をとった挙句、自分だけじゃなく部下たちの生命までむざむざ危険にさらすゼルヘルデン将軍は、王国騎士として相応しい人物だと?」
「そ、それは……だ、だがゼルヘルデン閣下にも、何かお考えがあってのことかもしれないではないか」
「ベッセル」
 鋭い眼差しに射抜かれ、ベッセルと名指しされた隊長は言葉を続けようと開いた口を閉ざした。
「てめえの非難や苦情は、生きて帰ってきたらたっぷり聞いてやる。ただ、俺は騎士として、明らかに王国の不利になると分かってる行為に加担する気はなかった。それだけだ」
「将軍閣下の行動が、間違っているとでも言うのか?」
「間違い、なんて可愛いもんじゃねえよ」
 エレンカークは盛大に舌打ちした。
「あのクソ禿が敵の間諜だと言われたら納得するくらい、とんでもねえ愚行を犯しやがった」
 レオホルト隊長もまだ僅かに蒼い顔のまま肯く。だが、ベッセル隊長だけでなく傍で聞き耳を立てているエルゼリンデたちにも、将軍が何をやらかしたのか理解している者はいなかった。
「いったい、将軍が何をしたのだ? 確かにアスタール殿下のご命令に沿わず突出してしまったのはまずかったが、敵の数などたかが知れているのだし、叩きのめしてしまえばいいだけの話ではないか」
「それは違う」
 割って入ったのは、レオホルトの低く冷静な声だった。
「まずそもそもの前提として、ここはモザール人の土地。地の利がどちらにあるのかは自明の理だ。たとえ敵軍が少数であっても、彼らの都合の良いように囲い込まれてしまっては、いかな屈強の大軍であろうと野の兎と同じではないか」
 エレンカークも盟友の言に同意を示した。
「それに、うちの団がごっそり抜けてみろ。城壁に穴が開くようなもんじゃねえか。そこから入ってくるのが鼠一匹であれ、怯む奴が一人でもいりゃあ、恐慌なんてあっという間に伝染するからな。下手すりゃ壁が勝手に崩れることになりかねねえ」
 てめえだって似たような状況を経験してるだろうが。エレンカークが吐き捨てると、ベッセルは返す言葉を失った態で蒼ざめた。
「もちろん遠征軍全体が壊滅するなんざ、戦力差から言ってもまずありえねえ。だが少しでも崩されちまえば、アスタール殿下は軍を再度纏め上げるために時間を割く必要がある。その間にモザール軍に後退されて守りを固められたら、おそらく戦いは長引くだろう」
「アスタール殿下は、本格的な冬を迎える前に戦いを終結させておきたいとお考えだ。これ以上、我々の部隊が殿下の御手を煩わせるわけにはいくまい」
「……了解した」
 二人の隊長に畳み掛けられ、ベッセルが苦渋の表情で肯く。
「それで、この後どう対処するのだ? 包囲されているのだろう?」
「まだ完全に囲まれたわけじゃねえ。っつっても、クソ禿の説得は諦めて、禿に従わなかった奴らを連れて下がってきただけだがな」
「おそらく、どの方向から来たのかは読まれているだろう。包囲は時間の問題か。ならば、どこから突破するかを見極めなければならんな」
 ベッセル隊長の目に光が灯る。先程までの狼狽はもはや影も形もない。やはり一部隊の隊長を務めるだけはあると、傍観していたエルゼリンデは素直に感心していた。
「この場所の正確な位置は取れないが、今の時間ならば西に後発部隊が展開しているはず。そこに合流できれば一番良いのだが」
 空を振り仰いだレオホルト隊長が眉間に皺を寄せる。
「殿下もこの事態は把握してるだろうから、援軍を差し向けてる可能性は充分にある。このまま後退してある程度敵を引きつけつつ、西に向けて突破を図るしかねえな」
「前方と左右は囲い込まれてる可能性が高い以上、突破の時の衝突は避けられないか」
 西の方角を見晴るかし、ベッセル隊長が唸る。
「運が良けりゃその一回だけで済むがな。ただ、味方とどんだけ離れてるのか、こっからだと見当がつかねえのが難点だが」
「動きながら探っていくしかないということだな」
 三人の隊長は今後の方針を手早く決めると、動揺と不安に支配された部隊を鼓舞しながら突撃隊形へと纏め上げていく。
「ミルファーク」
 レオホルト隊長の指示に従うべく馬首を廻らせかけたエルゼリンデを、聞き慣れたはずなのにひどく懐かしく感じる声が呼び止めた。
「……エレンカーク隊長」
 まさかこのタイミングで隊長に話しかけられるとは思ってもいなかったからか、声を詰まらせてしまう。
 エレンカークはそれまでの険しい顔を僅かに緩めた。
「ま、思ったよりは落ち着いてるみてえだな」
 そういって肩を竦める。エルゼリンデはどんな顔をしたらいいのか分からず、困ったような表情を浮かべながらも、とりあえず肯いておく。落ち着いてる、というよりこの状況についていけず置いてけぼりを食らっている感があるのだ。しかしながら、それを正直に伝えるのはあまりにも情けなさ過ぎる。
「だが、こっからが正念場だ」
 エルゼリンデの複雑な胸中を知ってか知らずか、小柄な隊長は再び顔つきを厳しいものへと変えた。
「死なせはしねえが、お前も自分にできることはしっかりやれ。何もせずに生きて帰れるとは、絶対に思うんじゃねえぞ」
 手綱を握る掌が強張る。いざという時は、今度こそ、敵を斬らなければならない。それを覚悟しろと隊長は告げているのだ。
「――はい」
 彼女の返事を見届けて、エレンカークは隊列を統率するべく前へと馬を進める。エルゼリンデは咽喉の辺りに引っかかっていた息を一気に吐き出すと、自分も自分のやるべきことを果たすべく、その場を動き始めた。


 敵軍との二度目の激突は、エルゼリンデが予想していたよりもずっと早くやって来た。どうやら、本当に包囲される寸前だったらしい。
 敵の接近を視認したモザール軍の兵士たちが、一斉に矢を放ってくる。すぐ耳元で矢の唸る音を聞き、一瞬肝を冷やす。
 こちらの隊も、速度を上げて迫りつつ弓で応戦する。エルゼリンデも弓を構えようと腕を動かし――
「!?」
 左肩の辺りに衝撃を感じ、バランスを崩しかけてしまった。何とか落馬は回避したが、肩から腕へと痺れが拡がっていく。流れ矢が左肩に当たったらしい。
 体勢を低くしてひっきりなしに飛び交う矢から身を守りつつ、左手を握ったり開いたりしながら損傷の具合を確認する。痺れはすぐに治まってきたから、そう酷くはないようだ。矢が掠った程度だろう。
 自分の怪我に気をとられているうち、弓矢の音に代わり金属音が大きくなっているのに気づく。いつの間にか敵陣に突入していたのだ。
 エルゼリンデは慌てて剣を抜いた。
 周りの騎士たちは既に敵と剣を交えている。エルゼリンデはというと、またしてもたまに迫ってくる刃を打ち払う程度のことしかできなかった。
 幸いにも、戦いの波はすぐに去った。あっけないと言っても過言ではないくらいの短さに、エルゼリンデだけでなく周囲の騎士たちもどこか拍子抜けしている様子だ。
「何か、すっげえ手薄だったな」
 すぐそばでザイオンの声が聞こえ、そちらに首を向ける。ザイオンの顔はちょっとだけ物足りなさそうにも見えた。
 あとはこのまま進んでいけば、味方に合流できるだろう。皆の間に漂い始めた楽観的な空気を、しかしエレンカーク隊長が一言で制する。
「――不味いな」
 後方に鋭利な視線を飛ばしつつ、薄い唇を歪める。
「追撃の勢いが半端ねえ」
「見たところ、敵軍の統率は取れていないようだが……それが逆に厄介か」
 レオホルト隊長も、ベッセル隊長もそれぞれ全身に緊迫感を漲らせている。遠く、背中の方から馬蹄の音が聴こえてくるのを、エルゼリンデも認識していた。部隊の中でも、恐怖と狼狽がざわめきだす。
「このまま前へ進むしかねえか」
 エレンカーク隊長は嘆息混じりに即断した。
「イーヴォ、ベッセル、先に行け」
「スヴァルト、私も残ろう」
 友の意図を察したレオホルトがすぐさま反駁する。が、エレンカークは首を振った。
「お前がここいらの地理には一番詳しいんだから、先頭を走れ。逃げたはいいが、迷ってちゃザマねえからな」
 深刻になるどころか、揶揄するような口調だ。
「心配すんな。何もここで壁になるつもりはねえよ。俺の隊はお前の後を追うだけだ」
「……分かった」
 レオホルト隊長は愁眉を開かなかったが、それでも部下に命じて隊列を整える。エルゼリンデも彼に従わなければいけないはずだった。なのに、どういうわけだか体が動かない。
「ミルファーク、何やってる!」
 エレンカーク隊長から叱責の声が飛んでくる。それでも、エルゼリンデは移動しようとしなかった。
 ここに残りたかった。退却する場合、殿軍が一番重要かつ危険なことくらい彼女にも理解できる。だけどここにはエレンカーク隊長も、ザイオンもいる。一度顔を見たら、離れがたくなってしまったのだ。
「あの、私も」
「ミルファーク」
 ここに残ります、という言葉はエレンカーク隊長の声にかき消された。
 隊長が鋭い眼差しでエルゼリンデを見据える。怒鳴られることを覚悟したが、降ってきたのは意外にも静かな声だった。
「こっちの心配をする余裕があるんだったら、さっさと援軍を連れて来い。それがお前の役目だ」
 エルゼリンデは藍色の目を瞠って、思わず隊長の顔をまじまじと見返す。エレンカークはいつもの強面に苦笑を浮かべていた。
「てめえを怒るのは後回しだ――早く行け」
 エルゼリンデは隊長とザイオンに目礼を残し、前を向いた。

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