第59話

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 結局その日は、ローゼマリーの奮闘もむなしくセルリアンを発見することはできなかった。
 しょうがないか。広い城だし、どの辺りにいるかの見当もさっぱりついていなかったのだから。
 寝台にごろりと横たわり、エルゼリンデは目を閉じた。重い疲労感が全身を駆け巡っている。病が明けてすぐ城内をうろついたり、捜し人を見つけられずに落ち込むローゼマリーを慰めたりしたものだから、思った以上に体力を消費してしまったようだ。
 それにしても、とエルゼリンデは寝返りを打った。今日のローゼンヴェルト将軍との一件で、あの女中の少女に変な誤解をされてしまったのは、どうしたものか。ただ単に「凄いですね」くらいで済めば、それはそれで流しようがあるというものだが、「自分のような学もない平民がお世話をするなんて申し訳ない」と恐縮されてしまってはかなわない。こちらこそ、大したことない地方出身の一貴族なのに恐縮させてしまってすみませんと謝り倒したいくらいだった。
 兄さんは何をどうやってあんな雲上人の方々と懇意になってしまったんだろう。
 深いため息を一つ零す。目を閉じても、体が疲れていても、何故だか眠りの世界が遠い。
 睡魔がなかなか迎えに来てくれないものだから、エルゼリンデはつらつらと考えを頭の中に綴っていく。
 いや、果たして本当に兄が王弟殿下や彼の腹心と知己であるのか。
 眉を顰め、過去をゆっくり手繰り寄せる。兄のミルファークは虚弱体質にしろ頭脳は聡明で妹より遥かに気が利く性格だったゆえ、もっと良い家柄に生まれていれば王宮勤めの上級文官になれていたと父が酔っ払うたび嘆いていたのをよく憶えている。
 そういえば、母が亡くなって王都に移ってきた後、一時は養子に出そうかと父が伝を頼ってどこぞの伯爵家に兄を預けたこともあったっけ。エルゼリンデはおぼろげな記憶を引っ張り出した。確かあの時は、いつまでも家に戻ってこない兄の帰りを泣きながら待ち続けていた自分が、とうとう痺れを切らして家を飛び出し、迷子になった挙句攫われかけてちょっとした騒動になった気がする。その騒ぎがミルファークの耳にも入り、彼は伯爵家との養子縁組を断ってイゼリアの家に帰ってきたのだ。
 今にして思えば、自分の我儘で兄の出世街道を潰してしまったようなものである。エルゼリンデは申し訳ない気持ちで毛布を頭まで被った。
 とりあえず、兄に対する謝罪は置いておくとして、今は兄がこれまでにお偉方と知り合う機会があったかどうかが問題だ。
 気を取り直して考える。もしも何かしら顔を会わせることがあったとすれば、その伯爵家に預けられていた数日間くらいしか思いつかない。そもそも病弱なミルファークが外出する機会などエルゼリンデの知る限り、数えるほどしかなかった。近所を歩いていてばったり遭遇するとか、そんな御伽噺じみた話などそう簡単に転がっているものではないし。
 とすると、まさか自分のほうが?
 エルゼリンデは目をぱちくりさせた。自分の推測に自分でびっくりしてしまった。
 偉い人と接点を持つなんてミルファーク以上にありえないと思うのだが。
 ――あ。あの時の騎士様。
 可能性があるとすれば、リートランドに住んでいた頃に出会った騎士くらいだ。エルゼリンデは再び目を瞑る。
 当時は幼すぎてよく分かっていなかったが、何となく身分ある騎士だったんだろうな、と思い当たる点はあった。確か他にもたくさん騎士がいる中でも、一番偉くて一番優しい人だったのだから。
 でもあいにく、彼女の記憶は曖昧だった。騎士が去った直後に母親が病死してしまったことも関係しているのかもしれない。何せそれはもう、もの凄い騒ぎだったと誰もが口を揃えて言うのだから。おまけにそのせいで、私のせいで兄さんが――
 ぎゅっと閉じた眦に力を込める。胸がずきずきと痛んで、額に脂汗が滲む。思い出してはいけないことまで、思い出してしまった。
 王都に帰って来たら、兄さんに謝ろう。きっとまた、困らせてしまうと思うけれど。




「小汚くないもん!」
 気がつくとエルゼリンデはそう叫び、片足を大きく蹴り上げていた。幸か不幸か、少女の小さな爪先は綺麗な弧を描いて、首根っこを掴み上げていた男の顎に命中する。男は衝撃というより驚きで足元をふらつかせ、ついでにエルゼリンデからも手を離す。当然ながら、彼女は尻餅をついてしまった。
「――小汚いものを小汚いと言って、何が悪い」
 地面に尻をついたままの少女の頭上に、怒りと不愉快と侮蔑で彩色された声が落ちてくる。こちらを見下ろす冷ややかな眼差しとかち合ったが、心を凍りつかせるより怒りが燃え上がってくる力が勝った。
 小さな頬を紅潮させながら、口を開きかけるも。
「このっ、無礼者があっ!」
 目の前の男を庇うように割って入った大男の大声に阻まれる。熊に似た大男は誰が見ても怒り心頭といった様子で、年端もいかないエルゼリンデを怒鳴りつけた。
「この方をどなたと心得る! この無礼でみずぼらしい小娘めが! …………! …………!!」
 凄まじいわめき声が頭上に容赦なく降りかかり、さすがに怒気も血の気とともに引いていく。懸命に涙を堪えることしかできない。大男の後ろでは、さっきの男がざまあみろと言わんばかりの表情を浮かべている。
 その時だった。
「何をしているのかね?」
 大きくはないが、鋭い声。その声が飛び込んでくるや、大男は雷に打たれたように口の動きを止めた。エルゼリンデも尻餅の態勢のまま、声のしたほうへ首を向ける。鎧を着た長身の男がエルゼリンデのすぐ前に立った。
「このような幼気な子ども相手に怒鳴り散らすとは。どうやら貴公は騎士の身分、捨てても惜しくはないらしい」
「し、しかし、こいつが……!」
「見苦しい」
 ぴしゃりと言い放たれ、大男は口を噤んだ。
「大の男が、この期に及んで言い訳をするか。よかろう、見上げたその根性、あとで二人まとめて叩き直してやろうではないか」
「何で俺まで……!」
 抗議の声を上げたのは、さっきのいけ好かない男である。しかし騎士のひと睨みで、大男と同じように口を閉ざしてしまった。
「分かったらさっさとこの場を去れ。可哀想に、すっかり怯えてしまっているではないか」
 二人の男に対してまるで犬猫を追い払うような仕草をすると、騎士はエルゼリンデに向き直り、彼女の手を優しくとって立ち上がらせてくれた。
「すまなかったね、お嬢さん。私の部下たちが無体なことをしてしまって」
 怪我はないかな。膝をついてそう訊ねる騎士の声と顔は、非常に穏やかだった。だからエルゼリンデはほっとして、こくりと肯いた。
「それは良かった」
 にこりと微笑み、エルゼリンデの服についた土埃を払ってくれる。彼女の父親より年は上だろう。鎧を身に纏っているからか、かなりがっしりとした体格をしているが下がり気味の目尻に刻まれた皺が物柔らかな印象を醸し出している。
 ぼうっと騎士を見つめていたエルゼリンデだったが、母の言いつけを思い出し、はっと顔を上げた。
「あ、あの、助けていただいてありがとうございます」
 スカートをつまみあげてお辞儀をひとつ。
「おやおや、これはご丁寧に」
 騎士も立ち上がり、エルゼリンデに一礼を送る。
「ところでお嬢さんは、どちらの家のご令嬢かな?」
「エルゼリンデ・ヴァン・イゼリアと申します。以後お見知りおきを、騎士さま」
 エルゼリンデはいつも練習しているとおりに名前を告げる。ちょっと所作がぎこちないのは、まあご愛嬌といったところか。
「そうでしたか、イゼリア子爵殿のご令嬢であらせられましたか。どうりで礼儀正しいお嬢さんかと思えば」
 こんな素敵な騎士に褒められて悪い気はしない。エルゼリンデが頬を染めてはにかむ。
 騎士は柔らかい眼差しを彼女に返し、腰を折った。
「私の名は――」


 ぱちりと目を開けると、昨日と同じ石造りの天井が視界にあった。
 ぼんやりした頭でここがどこなのかを考える。
 ああ、そうか。ゼーランディア城の中にいるんだっけ。
 エルゼリンデは二、三度瞬きを繰り返し、それからゆっくりと体を起こす。またもや、ひどく懐かしい夢を見た気がする。そしてどことなく胸がむかむかしてくるような感覚もこの前を髣髴とさせる。
「うーん……」
 唸りながら頭を掻く。どうにも思い出せない夢ですっきりとしないが、寝起きで頭を回転させたところで記憶が甦ってくる可能性は低い。諦めて寝台から下り、身支度を整える。
 さて、どうしようか。ローゼマリーが来る気配もまだないし、ここは自分で朝食を用意するべきか。
 そう思いながら扉を開ける。遠くから、どことなく慌しい使用人たちの声がエルゼリンデの耳に届く。何かあったのかな。首を傾げながら昨日の捜索劇で教えてもらった使用人の控えの間へと足を向けると。
「あ、おはようございます、ミルファーク様」
 軽快な足音とともに、爽やかな少女の挨拶がやってくる。ふと目を向けると、ローゼマリーが栗色の髪と白いエプロンを揺らしながら小走りに駆け寄ってきた。周囲の空気同様、彼女も忙しそうだ。
「おはよう、ローゼ。随分みんな忙しそうだけど、何かあったんですか?」
「はい」
 ローゼマリーは僅かに息を切らして首肯する。
「今朝がた、王弟殿下のご本隊がお戻りになられたので、お迎えの準備を」
「え?」
 声が少しばかり上擦るのを自覚した。
「それじゃあみんな、戦場から戻ってきているっていうことですか?」
「はい、結構な人数だと聞いているので、そうだと思います」
 そうか、戻ってきたんだ。先刻までの夢もきれいさっぱり忘れ、エルゼリンデは逸る心を抑えた。
「そのため、今日に限りましてはミルファーク様のお世話にも若干差し支えが出るかと思われますが、ご容赦くださいませ」
「ああ、うん。それは全然構わないので」
 頭の中はもう、エレンカーク隊長たちのことでいっぱいだった。
「すぐに朝食をご用意いたしますので、お部屋でお待ちください」
 ローゼマリーに言われるがまま、来た道を引き返す。朝食もそこそこに隊長たちの無事を確かめに行きたかったが、腹が減っては戦もできぬ。それに普段着よりは騎士服のほうが何かと融通が利くだろうから、着替えなければ。
 エルゼリンデは部屋に戻るとすぐさま荷物から騎士用の簡易服を探し出し、いそいそと袖を通した。

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