第60話

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「なに、人の顔見るなり間抜け面さらして」
 不機嫌なセルリアンの声に、エルゼリンデはようやく我に返った。
「あ、ええと、その……なんか、いたから……」
 そう返してから、曖昧かつ不躾な答えだったと思い至る。でも、彼女からしてみれば、驚愕するのも無理ない話なのだ。なんたって、エレンカーク隊長たちを捜しに行こうと勢い勇んで出てきたら、昨日ローゼマリーと城内を捜し回っていたセルリアンにばったり遭遇したのだから。
 驚きを顔面に貼り付けたままのエルゼリンデを見て、セルリアンは大きな双瞳を眇めた。
「僕からすれば、何で君が城内にいるのかのほうが不思議なんだけど」
「うーん……何でだろう」
 それはセルリアンだけでなく、エルゼリンデ本人にとっても不可解なことだった。思わず声に出して呟くと、呆れ半分の嘆息が返ってくる。
「まあ、別に君のことなんかどうでもいいんだけど」
 突き放すような口調で吐き捨て、栗色の髪をかき上げる彼は数日前の夜に見た時よりは血色も良く、元気そうだ。だがエルゼリンデが僅かに眉を顰めたのは、纏う雰囲気に微妙な違和感を覚えたからだった。
「……セルリアン、背、伸びた?」
「はあ?」
 一瞬だけ彼の可憐な顔が呆けた表情に変わるも、意表を衝かれたのが面白くなかったのだろうか、すぐに不愉快そうに歪められてしまう。
 エルゼリンデの言葉に込められていたのは身長とか、体格の変化だけではない。その少女よりも少女らしい繊細な面立ちにも変化が見られた――ような気がした。上手くいえないが、「大人びた」とはこういう様子を言い指すのかもしれない。目元の辺りにも、うっすらと陰が落ちかかっている。
 セルリアンの薄い唇は、以前よりも低くなった声を零した。
「――急に何を言い出すのかと思えば。そもそもこのくらいの年齢ならまだ、誰だって身長くらい伸びるでしょ。君だって王都にいた頃よりも伸びてるじゃない」
「私も?」
 エルゼリンデが首を傾げる。髪はともかく、背が伸びた実感はほとんどないのだが。
「それで」
 セルリアンは咳払いとともにことさら冷たい声を発した。
「特に用がないなら、もう行くから」
「あ、待って」
 自分の横をすり抜けようとするセルリアンを、慌てて呼び止める。どうして呼び止めたのか実のところ自分でも分かっていないのだが、このまま行かせてはならない、と心のどこかが訴えたのだ。
 まだ何かあるの。肩越しに遣した視線が如実に鬱陶しそうにしている。エルゼリンデは挫けるまいと、ちょっと語気を強めた。
「あの……元気にしてるかと思って」
 少年の顔が微かに歪み、そうしてから無表情を形づくる。
「馬鹿じゃないの」
 セルリアンは顔と同じ声音で断じた。
「そもそも僕は出兵すらしてないんだから、無傷に決まってる」
 唇の片端だけの嘲笑を返すと、セルリアンは何故か再び方向転換してエルゼリンデに背を向ける形で歩き出した。どこに行くつもりなのか。エルゼリンデは、今しがたとは真逆の方向に進んでいく彼の背中を、立ち竦んだまま見つめるしかできない。
 と、おもむろにセルリアンが足を止めた。
「いつまでぼさっと突っ立ってるの。帰還した部隊のところに行きたいんでしょ」
「え?」
 エルゼリンデは藍色の目を円くする。図星を衝かれた驚きよりも、どうして自分の考えていることが分かったのか、それにびっくりしてしまったのだ。
 セルリアンは顔を背け、またがらんとした廊下を進み始める。エルゼリンデが半ば反射的に後を追う。まさか、案内してくれるとは。その事実にも動揺したし、今までの言動を顧みると何か別の思惑があるようで、警戒心が頭を擡げるのは否めない。
 エルゼリンデは歩きながら頭を振った。あれこれ考えていてもしょうがない。ここは素直に親切として受け取っておこう。
 互いに無言のまま、石の廊下を右に左に歩いていく。この場所がどういう区画か把握できていないが、他の場所に比べてひとけが少ない。たまにすれ違う使用人がセルリアンに対して垣間見せる視線の意味も気に掛かった。親しみがあるわけでも、敬意を示しているわけでもない。かといって冷たさとか嫌悪といった類の色も感じられない。あるのは一抹の同情と、まるで何か別の生き物を眺めるかのような、無機質なよそよそしさ。
 それにしても。エルゼリンデは痩せた背中から目をそらさずに考える。
 いったいいつから彼は自分にこんなにさまざまな表情を見せてくれるようになったのだろう。セルリアンの後頭部に視線を移しながら、エルゼリンデは何気なく記憶を巡らせる。初めて会ったとき、つまりまだ王都で訓練していた頃は、いつも隙のない笑顔を浮かべる得体の知れない綺麗な顔立ちの少年だった。フロヴィンシアにいた時も、基本的にその印象に揺らぎはなかった。ただ一度だけ、あの忌まわしい脱走騒ぎで聴いた「声」を除けば。
 綺麗ごとだけですべて上手くいく世界なんて存在しない。
 セルリアンは彼女にそう告げた。どんな意図があってその言葉を口にしたのか、今でも分かっていない。だけど、思えばあの後からセルリアンはちょっとずつ態度を変えていったような気もする――といっても、次にまともに会話を交わしたのがゼーランディア城でのあの夜だったから、ちゃんと自分の目で見たわけではないし、確証があるわけではないけれど。
 セルリアンは大きな螺旋階段の前で立ち止まった。
「ここを降りた先にある通路を左に2回曲がれば、各隊の詰め所に出られるから」
「あ、ありがとう」
 エルゼリンデは戸惑いがちに礼を述べた。やっぱり普通に案内してくれただけだったことに安堵する。
「それと」
 そのまま下の階へ降りようとする足を、少年の細い声が呼び止めた。何だろうと訝りながら見上げた先にあるセルリアンの顔は、自嘲めいた微笑が浮かんでいた。
「僕が変わったわけじゃないから」
「……?」
 唐突な台詞に眉を顰める。
「変わったのは、君のほうだよ」
 セルリアンは淡々と続けた。
「僕は何も、変わっていない」
 もしかして、さっきまで考えていたことが彼に筒抜けだったのだろうか。エルゼリンデはそれを確かめるべく口を開きかけたが。
「さよなら、ミルファーク」
 自分の頭上に落とされる声のほうが早かった。セルリアンは別れの挨拶を残し、痩身を翻すとあっという間にその場から消えてしまった。
 追いかけることもできず、すぐに気を取り直して階段を下りることもできず、エルゼリンデはしばらく螺旋階段の途中で立ち尽くしていた。


 変わったのは、自分のほう?
 ようやく自己を回復させたエルゼリンデは、本来の目的のために進みだした。それでも、セルリアンが放った言葉は頭の中をぐるぐる回っている。
 私、変わったかな?
 首をひねってみても、どこがどんな風に変わっているのか見当もつかない。そのうちに、野太い男たちの声が彼女の耳元にも届いてきた。帰還した兵士たちのものだろう。エルゼリンデの頭の中にあったセルリアンの声や疑問は、エレンカーク隊長の顔で塗り潰されていく。
 もうすぐ、会えるんだ。次第に両足にも力が入る。
 詰め所の一画には見知った顔はなかった。城内に入れる騎士も限られているから仕方がないのだが、レオホルト隊長あたりはいてもおかしくないのに。
 少しの不満を抱きつつも城門へ向かう騎士の一行についていき、久々に城外へ出る。城門前の広場は人馬で溢れかえっていた。四方八方から興奮や悲嘆に彩られた叫びが聞こえてくる。
 立ち止まってぐるりと騎士たちを見回すエルゼリンデのすぐ横を、怪我人を搬送する急拵えの担架がひっきりなしに駆け抜ける。
 みんな無事でいるかな。
 血塗れで呻く騎士の姿が目に映り、途端に不安が胸中を侵食していく。エルゼリンデは不安から逃れるように小走りで騎士の群れに飛び込んだ。
 しかし、不安は時間を経るごとに重量感を増すばかりだった。
 ――おかしい、どうして。
 心臓の鼓動がだんだんと早く、大きくなる感覚が襲う。
 第三騎士団の騎士たちが、どこにもいない。エレンカーク隊長も、ザイオンも、アルフレッドもレオホルト隊長も、ウェーバーら先輩騎士たちも。どんなに目を皿のようにして捜し回っても、見つけられないのだ。
 誰かに居場所を訊いてみようか。そう思い、歩く速度を緩めて親切そうな騎士を見定めると。
「いやー、しかし第三は酷かったってな」
 ざわめきから突出した声をエルゼリンデの耳は拾い上げた。心臓が一度大きく跳ね上がり、全身が強ばっていく。動かなくなった足をそのままにして、耳だけを必死に動かした。
「あの猪将軍、最期に派手にやらかしたんだろ?」
 群衆の中のほんの一部で発生した会話は、瞬く間に伝播する。
「そうそう。あの団の連中、あの会戦でほっとんど巻き添え食っちまってなあ。気の毒に」
「普通にしてりゃ、なんてことねえ戦いだってのによ」
「有名どころがどっさり潰れちまったってな」
 聞きたくない。聞いてはいけない。これ以上耳に入れては駄目だ。
 もう一人の自分が耳を塞ぐ。エルゼリンデは再び走り始めた。今度は、広場から逃げ去るために。
 怖い、どうしよう。怖くてたまらない。
 冷たい石の回廊を闇雲に歩きながら、浅い呼吸を繰り返す。さっきから嫌な想像が止まらない。止まってくれない。
 大丈夫、きっとみんな無事でいる。ただ自分が見つけられなかっただけだ。
 一向に鳴り止んでくれない鼓動を抑えようと、胸に両手を押しつけ、息を吐き出した時だった。
「――どうしたんですか、こんな場所で」
 昨日も聞いた男の声。顔を上げると、予想通りの人物が目の前にいた。
「……マウリッツさん」
 酷い顔をしているのは、見えなくても知っている。端正な顔にはっきりと怪訝な色をのせるローゼンヴェルト将軍に、エルゼリンデはほぼ無意識に問いかけていた。
「みんなは……エレンカーク隊長は、どこにいるんですか?」
 その瞬間、ローゼンヴェルト将軍の琥珀色の瞳が、動揺に大きく揺らいだ。エルゼリンデの呼吸が一層苦しくなる。震える声音を隠すこともできず、同じ質問を繰り返す。
「……エレンカーク隊長は、どうしたんですか?」
「死んだ」
 答えが返ってきたのは、ローゼンヴェルトの口からではなかった。彼の背中から、黒い影が現れる。まるで死神のようだと、エルゼリンデは思った。
「アスタール様……!」
 ローゼンヴェルトが咎めだてる口調で主君を顧みる。
 エルゼリンデは動けない。自分のすぐ眼前にやって来た王弟殿下が、何を言ったのか理解できなかった。
 だって、音が、世界が、止まってしまったのだから。
 アスタールはそんな彼女を見下ろし、温度のない声で再度同じ宣告を与えた。
「スヴァルト・エレンカークは戦死した」

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