第61話

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 嘘だ。
 そんなの嘘。
 否定の言葉は、自分の心の中にしか響かなかった。唇を動かしたくても、声を咽喉の奥から絞り出したくても、その思いだけが空回る。世界と同様、自分の体も止まってしまった。
「彼はヴォズマイル平原の会戦時、自軍の危機的状況を打破するべく奮戦し、自らの生命と引き換えに多くの友軍の生命を救った。彼の王国騎士としての功績は、叙勲の形を以って讃えられることになる」
 アスタール殿下の言葉は、もはやただの「音」としてしか認識されなかった。
「――以上だ。確かに伝えたぞ」
 王弟殿下は微動だにしないエルゼリンデを一瞥し、無表情を保ったまま踵を返す。残された腹心は、主君に続くことなく気遣わしげな眼差しをこちらに向けている。エルゼリンデはひたすら、目の前に広がる何もない、空疎な世界を見つめている。
「……あなたのご僚友、ホープレスク男爵のご子息ですが」
 ザイオンのことだ。ローゼンヴェルト将軍の声に、エルゼリンデの視界がようやく彼の顔を映し出す。
「ヴォズマイル平原の会戦で負傷し、現在は療養所で治療を受けているとのことです。重傷ですが生命に別状はないという話を聞いています。見舞いに行くときは私に言ってくだされば、いつでもご案内いたします」
 彼は静かな口調で告げると、次の言葉を口に出だすべきか逡巡した様子だった。が、あとに続くはずだった言葉を呑みこみ、目礼を残して王弟殿下に追いつくため彼女に背中を向けた。
 エルゼリンデは立ち尽くしていた。
 人の気配のない冷たい回廊で、ずっと。
 時折吹き抜ける冷たい風が、彼女から熱を奪っていく。それなのに、寒いとも感じなかった。風の音も、どこかから聴こえてくるざわめきも、彼女の耳には入らない。目の前には、ただ真っ白な暗闇が広がるだけ。
 ――死んだなんて、嘘。
 どのくらいそうしていたかは定かではないが、時間の流れとともに、エルゼリンデの意識は明確な形をとっていく。
 そうだ、嘘に決まってる。
 エルゼリンデは目線を少しだけ上に向けた。昼前だというのにひっそり静まり返った石の道が見える。
 きっと、王弟殿下が嘘を吐いているのだ。自分が今まで何度か怒らせてしまっていたから、懲らしめてやろう。そんなつもりであんなことを言ったにちがいない。
 だとしても、自分が悪かったにしろ、ああいう悪趣味な嘘を吐くなんて。
 この場を去ってしまったアスタールに微かな怒りを覚える。殿下がそういうつもりなら、見つけ出してやろうじゃないか。そうして、あの程度の嘘で私が堪えるわけなんてないと笑い飛ばしてやるんだ。
 エルゼリンデは掌を握り締めると、再び帰還した騎士たちの集う広場へと賭けていった。
 広場は、雑音が酷かった。さっき来たときはこんなに喧しかったっけ。両手で耳を塞いでしまいそうになるのを抑え、人ごみへと飛び込む。耳障りな音の奔流に巻き込まれ、頭が鈍く痛む。
 ゆっくりとした足取りで、騎士たちを注視する。彼女の目はただ、小柄で痩身の隊長の背を追っていた。
 ――なかなか、見つからないな。
 視界に入ってくるのは、知らない顔ばかり。
 エレンカーク隊長のことだ。きっと忙しくあちこち駆けずり回っているのだろう。なんせ、普段から忙しい人だったのだから。
 これは、発見するのに一苦労しそうだな。隊長を捜す足は止めないまま、そんなことを考える。頭はまだ痛むけれど、隊長の顔を網膜に浮かべると自然と心が弾んだ。
 話したいことがたくさんあった。同じ分だけ、伝えたいことも。
 早く会えればいいのに。
 エルゼリンデはただ一人の姿を求めて、歩き続けた。


 広場をぐるりと回ってみたけれど、とうとうエレンカーク隊長を見つけ出すことはできなかった。ふと立ち止まって地面を見る。自分の影が長く伸びていた。隊長の影は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。
 これだけ捜しても見当たらないということは、城内にある詰め所にいるのかもしれない。
 影の中に落ちかかる感覚に襲われそうになった瞬間、エルゼリンデの頭に天啓がひらめいた。
 城に戻って捜してみよう。それでも見つからなかったら、彼の部屋を訪ねてみたらいいんだ。心にちいさな火が灯り、彼女は城門めがけて走り出した。
「ミルファーク様!」
 城の大きな入り口に差しかかったところで、少女の声に呼び止められた。広いホールの隅に、彼女の世話役となっている女中の姿がある。そして、少女から数十歩離れた場所には、どこか見覚えのある鮮やかな赤毛の騎士が立っていた。騎士はエルゼリンデを一瞥したあと、すぐに早足で城内へ歩き去ってしまう。
 一方のローゼマリーはエルゼリンデの顔を見るなり緑の双眸を大きく見開き、蒼ざめた顔で駆け寄ってきた。まるで幽霊に遭遇したかのようなローゼマリーの様子に、エルゼリンデは苦笑してしまった。
「どうしたんですか、そんなびっくりして」
「……ミルファーク様、お部屋に戻りましょう」
 少女の表情は強張ったままだ。エルゼリンデがゆるゆると首を振る。
「まだ夕食には早い時間だし、人を捜さなきゃならないから」
「それは、明日にでも。とにかく今日はお休みになったほうがいいと思います」
 ローゼマリーも簡単には引き下がらない。
「大丈夫。まだそんなにお腹も空いてないし、具合も悪くないから」
 むしろ体は軽かった。ふわふわ浮いてしまうんじゃないかと思うくらい。ローゼマリーを安心させるために笑顔を作ってみたが、少女も頑なだった。胸の前で両手をきつく握り、ひたと藍色の瞳を見つめてくる。
「戻ってください。――お願いですから」
 強い懇願の言葉も、最後のほうは消え入りそうだった。ローゼマリーの尋常ならざる態度にエルゼリンデは小首を傾げた。ひょっとしたら、誰かに戻るよう言いつけられてるのかも。彼女は平民身分の女中だ。上の人間の意向に逆らうわけにはいかないのだろう。生活も懸かっていることだし。
 だとしたら、ここは自分が引かないと後々彼女を困らせることになる。
「……分かりました。今日は戻ります」
 肩を竦めて肯くと、ローゼマリーの表情にも安堵が混じった。
「では、お部屋までご案内します」
 自分に対して恭しくお辞儀する少女を瞳に映していながら、エルゼリンデの意識は別の場所にあった。
 まあ、明日また捜せばいいか。もう戦争は終わったんだし、一日経ったからいなくなるなんてこともない。朝早くから捜し回れば、きっと見つかるはず……


 いつの間にか眠っていて、いつの間にか目が覚めていた。
 エルゼリンデは寝台から降りるなり騎士服に袖を通し、がらんとした廊下に飛び出す。
 今日は絶対に見つかるはず。いや、何としても捜しださなければ。王弟殿下の嘘を打ち消すためにも。
 決意も新たに一歩踏み出す。目の前の風景が、一瞬ぐらりと揺れたような気がした。
 昨日からの頭痛はいまだ尾を引いていた。でも、この程度の痛みならどうってことない。むしろ痛みすら、体の一部に同化してしまったみたいだ。
 薄暗い廊下を歩く。時々肩が壁にぶつかって、エルゼリンデは顔を顰めた。この廊下、こんなに狭かったっけ。
 どこをどう歩き回ったのか自分にも分からないが、何かに導かれるように詰め所の付近まで辿り着いていた。暗くて、がらんとしている。昨日と違い騎士の姿はほとんど見当たらない。どこかへ行ってしまったんだろうか。
 これじゃ捜すに捜せない。立ち止まって途方に暮れかけたときだった。
「――そこの小さいの。お前、レオホルト隊のやつじゃないか?」
 背中に人の声がぶつかった。エレンカーク隊長の声ではないことに落胆しつつ振り向くと、中背の騎士らしき男がいた。
「こんな朝早くに何してるんだ? 朝番にはなってなかったはずだが」
 近づいてくる声に聞き覚えがあった。確か戦場で一緒になった……
「ベッセル隊長、ですか?」
 彼女の前で足を止めた男は肯き、それから何故かぎょっとしたように目を円くした。昨日、ローゼマリーにもこんな反応をされた気がする。
「お前……大丈夫か?」
 息を詰めた口調に首を傾げて応える。いったい何を心配しているんだろうか。自分はどこもおかしくないし、いつもと変わらないというのに。
「はい、大丈夫ですけど。あ、それより」
 エルゼリンデは声をやや高くした。ベッセル隊長は同じ第三騎士団に所属しているのだから、きっとエレンカーク隊長の居場所も知っているはず。それに思い当たったのだ。
「エレンカーク隊長がどこにいらっしゃるか、ご存知ないですか?」
「……はあ?」
 変なことを訊いたつもりはないのに、ベッセル隊長の眉が怪訝そうに動く。エルゼリンデもつられて訝しげな顔になる。
「何を、言っているんだ? 奴はもう――」
 彼は不意に口を噤んだ。いきなり言葉がなくなったことにエルゼリンデが不審の眼差しを向ける。ベッセル隊長はしばし彼女の顔を凝視してから、力なく首を振った。
「――いや、見てねえな」
「そうですか」
 ちょっとがっかりしたが、彼女の両目は輝いた。やっぱりあれは嘘だったんだ。エレンカーク隊長はどこかにいるんだ。
「ありがとうございます。私はこれで」
「……ああ、気をつけてな」
 手がかりをくれたベッセルに一礼を残し、エルゼリンデはまた進み始めた。隊長を捜すために。
 灰色の空に聳え立つ城門を抜けて、城の外へ出て行く。やはり、隊長の姿はない。
 本当にどこへ行ってしまったんだろう。
 知らずに足は城壁外の裏手へと向けられる。
 話したいことは遠くに見えるあの山脈のように積もっているのに。戦場であったこととか、あの時のこととか――
 どさり。人が馬から落ちる鈍い音と、その時の光景が脳裏にまざまざと甦る。
 あの人はどうしたのか。生きているのか、それとも死んでしまったのか。
 死んで。
 急激に胃の奥から嘔吐感がせり上がり、エルゼリンデは茂みに隠れるようにしゃがみこんだ。
 苦い味が口いっぱいに滲み出る。
 自分の嘔吐く音を他人事のように聞いていた。
 苦い。
 ぐらぐら揺れる視界の中立ち上がると、顔を歪める。口の中が苦い。どうしよう。口を濯がなきゃ。
 ふらりと足を動かす。幸運にも、城壁の角を曲がると掘っ立て小屋と井戸が見えた。
 井戸水で口内を濯ぎ、その場に座りこむ。何だか疲れてしまった。
 どうやったら、エレンカーク隊長を見つけることができるのか。彼女の脳内はそのことで満杯になっていた。
 ――泣けば、来てくれるかな。
 そうして「メソメソしてんじゃねえ」と怒ってくれるのではないか。エルゼリンデは目元に力を込めてみた。何度か瞬きもしてみる。しかし、涙は出てくる気配を覗かせなかった。
 悲しくも、嬉しくもないのに泣けるはずがない。
 再び、視界が揺れた。気がつくと乾いた地面が眼前にある。立ち上がってまた歩かなきゃいけないのに、体が動いてくれない。それどころか土色の大地がじわじわ白く塗りつぶされていく。
 捜さなきゃいけないのに。
 瞼が下がりかけた刹那、自分の体がふわりと浮き上がった。
「ったく、こんな状況で無闇にウロウロするんじゃねえよ」
 エレンカーク隊長……かと思ったが、声が明らかに違う。
 白から黒へ。急転する世界の狭間でほんの一瞬だけ、赤い色が掠めた。

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