第65話

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「おはようございます」
 エルゼリンデの一日は、無機質な声とともに始まった。
 聞き慣れないその声にびっくりして目を開くと、寝台の横に黒髪の少年が仏頂面で控えていた。
 どなたですか、と訊きかけて思いとどまる。昨夜の記憶が甦ってきたからだ。確か、イェルクと名乗った彼はローゼンヴェルト将軍の従者だったけど今は臨時で自分の従者になっている……んだったっけか。
 エルゼリンデは音を立てる勢いで起き上がった。
「お、おはようございます」
「扉の外からお呼びしてもお返事がなかったので、失礼ながらお邪魔させていただきました。何の悩みもなさそうなすがすがしい寝顔でしたので、さぞかしよいお目覚めかと存じます」
 少年は昨夜と同様、機嫌の悪さを滲ませる表情で述べる。最後に余計な一言があるのも昨日と同じ。エルゼリンデはちょっとだけカチンと来たが、
「それで、もう朝食のご用意が整っているのですが」
 彼女が口を開くより早く、イェルクはそう告げて部屋の中央に置かれたテーブルへ視線を移す。エルゼリンデもつられてそちらを見ると、彼の言うとおり既に朝食が所狭しと並べられていた。
「給仕は」
「あ、結構です」
 少年の言葉を遮り、珍しく即答する。臨時の従者はやや鼻白んだようだが、咳払いをひとつして「そうですか」とそっけなく呟く。
「食事が終わりましたら、わざわざ私を呼ばなくても、そのままにしておいて結構ですので」
「わかりました」
 寝台に腰掛けたままエルゼリンデが肯く。暗に「無闇に自分のことを呼びつけるな」と言われてることくらいは理解できた。
「それと、もうひとつ」
 てっきりさっさと出て行くものかと予想していたが、イェルクはその場を動かずに言葉を続ける。
「本日のご予定を伺いたいのですが」
「予定、ですか?」
 エルゼリンデは藍色の目を軽く瞠った。食事とか着替えとか、最低限の身の回りの世話だけを担当しているのかと思いきや、どうもそうではないらしい。もしかしたらローゼンヴェルト将軍にそう訊ねるよう言いつけられているのかもしれないが。どういうわけか分からないが、あの温和な将軍に非常に気にされているようなので。
 うーんと唸りつつ首を傾げる。急に今日の予定を訊かれても、理路整然と答えるのは難しい。なんせ、特に先のことなんて考えられる状態でもなかったのだから。
「ええと、そうですね。ザイオン……同僚のお見舞いに行こうかと思ってます」
「それだけですか?」
「あ、あと、騎士団の詰め所にも行くつもりです」
「目的は何でしょうか」
 畳み掛けられ、僅かに眉根を寄せる。いくらなんでも詮索しすぎなのではないか。
「知り合いの安否を確かめようと思ってますが」
「分かりました」
 イェルクはもう充分、とばかりに頷くと、今度こそ部屋を出て行くために身を翻したのだった――と思いきや。
「言っておきますが、私は別にあなたの予定なんて興味は毛ほどもありません。これはあくまでファルク殿のためですので、変な誤解はなさらぬようお願いします」
 扉の前で振り返りざま、やっぱり余計な一言を吐き捨てたのだった。
 本当にもう、何が何やら。
 少年の去っていく背中を呆然と見送ったエルゼリンデは、脳内に疑問符を大量に飛ばしていた。何でこんな部屋にいるのかも分からないし、こんなしがない身分の貴族に従者が付けられるのも謎だし、イェルクの態度も言動も意味不明だし。
「うーん……」
 身支度を済ませて食事の用意されたテーブルに着いたものの、どうしても食欲よりも疑問のほうが先立ってしまう。
 朝食は、二種類のパンに豚肉の燻製、山羊のチーズに野菜のたっぷり入ったスープ。おまけに好物の干し葡萄まである。ちょっと前から気にかかっていたが、なかなかに謎の厚遇ぶりだ。
 じっと眺めているうちに、空腹が存在を主張し始める。
 ……まあ、自分ひとりで考え込んだって、誰かにちゃんと訊ねないかぎり、答えは出ないのだ。それに行動自体を制限されてるわけでもなさそうだし、あとでローゼンヴェルト閣下あたりに改めて訊いてみよう。
 彼女はそう結論付けると、目の前の朝食を平らげることに取りかかった。


 先に詰め所に立ち寄ってからザイオンのところに行こうかな。
 広々とした廊下を一人歩きながら、エルゼリンデは漠然と目的地を定める。ちなみに昨夜は少々迷ってしまったが、部屋から階段までの道のりはしっかり覚えておいた。とりあえず階段を下りれば、あとは道なりに行けば何とかなることも。
 詰め所に行けば、他の人たちのことも色々分かるだろう。レオホルト隊長、シュトフにカルステンス、それにウェーバーら第三騎士団の先輩騎士たち。
 ――ナスカはどうしているんだろう。
 階段を下りきったところで、ふと考える。自分の従騎士なのに戦いが収束してから今まで名前すら聞いていない。果たして無事でいるのだろうか。
 もちろん、ナスカに限らず知り合いの安否を確認するのに恐怖感はある。誰しも元気で帰ってこられるわけではないことは、もう嫌と言うほど知ってしまったのだから。
 エルゼリンデは首を振った。止まりかけた足に力を込める。またあの単語を耳に入れるかもしれないことは、とても怖い。だけど、目を背けているばかりだと、何にも見えなくなってしまう――そう、今の自分はまさにそれだ。
 詰め所まで角をあとひとつ曲がるというところで、エルゼリンデは見知った人物を目に留めた。
「カルステンスさん!」
 視線の先にいたのは、淡い金髪の細身の騎士。別の方角から詰め所へ向かう途中だったらしい彼が、足を止めて薄い水色の双眸を向ける。最後に会ってからそんなに時間は経っていないはずなのに、妙な懐かしさをエルゼリンデは覚えていた。
「無事だったんですね」
 その言葉は自然と口をついて出た。カルステンスが小さく笑う。
「ああ。ミルファークも元気そうで何よりだ」
「おかげさまで」
 どことなく力ない微笑が心にひっかかりつつも、エルゼリンデが答える。と、不意にいつもの賑やかな人物が一緒にいないことに気がついた。
「あれ? シュトフさんは?」
「奴なら死んだよ」
「そうなんで……」
 普通に頷きかけて、エルゼリンデの動きが止まる。
 今、カルステンスは何と言った?
 あまりにも、とてつもないほど他愛ない世間話の口調だったから、危うく聞き流しかけるところだったが、彼は今、どんな言葉を口にしたのだろう。
 カルステンスの顔を見上げたまま硬直するエルゼリンデに、当の本人はどことなく困ったような、苦い微笑を返した。
「ヴォズマイル平原での会戦時、敵の兵士ともみ合いになってな。そのまま二人とも、馬ごと崖から転落した」
 あいつが最も嫌っていた、なんとも間抜けな最期だった。カルステンスは淡々と彼女に説明する。
 シュトフが、死んだ?
 エルゼリンデは強張った表情のまま微動だにできない。シュトフには失礼な話かもしれないが、殺しても死ななそうな印象があっただけに、余計に信じがたい。
 それに、どうしてカルステンスは平然としていられるんだろう。何でもない口調で、彼の死を語ることができるのだろう。あんなに仲が良かったはずなのに。
「どうして……」
 震える唇を開く。
「人はいつか死ぬ。それが戦争であれば、なおさら」
 カルステンスが答える。「どうしてシュトフは死んでしまったのか」、彼女の言葉の意味をそう捉えたのだろう。
 違う、とエルゼリンデは両の手のひらを強く握りしめた。彼のいつもと変わらぬ冷静さが、エルゼリンデを苛立たせる。
「どうして」
 息をひゅっと吸い込むと、エルゼリンデは昂ぶる心の赴くままに声を吐き出した。
「どうして、そんなに平気な顔をしていられるんですか?」
 カルステンスの眉が微かに動く。
「シュトフさんが、死んでしまったのに……」
 エルゼリンデは俯いた。自分の影が濃く見える。
 信じられなかった。あの陽気で気さくな騎士が、こんなあっけなくいなくなってしまうなんて。
「――仕方がないことだ。戦争なのだから」
 カルステンスの声は、冷や水を浴びせかけるようだった。少なくとも、エルゼリンデにはそう感じられた。そんなに寒くもないのに、肩が震える。
「……カルステンスさんが、そんなに冷たい人だったなんて、思いませんでした」
 一度だけ冷たい水色の瞳を睨みつけ、エルゼリンデは踵を返す。
 怒りはなかった。苛立ちも消え失せていた。
 ただ、悲しかったのだ。「仕方がない」の一言だけでその人の人生を片付けてしまうことが。そうして、それに何ひとつ反論できる術を持たない自分が。
 闇雲に歩き回っているうちに、気が静まってくる。ちょうど外が見えるテラス部分に差し掛かり、エルゼリンデは立ち止まった。
 カルステンスさんに、悪いことをしてしまった。
 心臓の辺りにずしりと見えない重みが圧し掛かる。冷たいだなんて、酷いことを言った。彼が本当に平然としていたかなんて自分には分からないのに、どうしてあんな台詞を投げつけてしまったのだろう。
 ザイオンとかごく親しい人物にならともかく、自分だってカルステンスにエレンカーク隊長のことを訊かれたらきっと強がったに違いない。悲しみなんて見せられなかったはずだ。
 悲しいかどうかなんて、他人にはっきり見えるものではない。心の中なんて、誰にも覗けやしないのだ。
 それなのに自分は、決めつけるようなことをしてしまった。
 最低だ。唇を噛むと血の味が滲んだ。でももう、叱咤してくれたり、諭してくれたりする人はどこにもいない。
 目頭が熱くなってきて、四角く切り取られた青空を見上げる。冴えた空の色が目の奥まで冷やしてくれるようだった。
 空から廊下の先へ視線を戻す。早く気持ちの整理をつけて、謝りに行こう。小さな決意を胸に灯し、エルゼリンデは再び歩き始めた。

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