第67話
エルゼリンデは中庭を右に左に進んでいく。
城址は無骨だが、中庭は意外なほど整っていた。均等な高さに剪定された庭木の間をするりと通り抜けながら、従騎士の背中をひたと追っていく。
ナスカは彼女の追跡に気づいているのかいないのか、一定の速度で庭を巡っている。淀みのない足取りは、どこか目的地があることを予感させた。
もしかしたら、どこかに誘い出されているのかもしれない。
奥まった場所に差し掛かるにつれ、そんな疑念が爪先からじわりと忍び寄ってくる。だとしたら、何のために? ――いや、そもそもどうして一介の従騎士身分でしかないナスカがゼーランディア城内にいるのか。
歩を重ねるにつれ、疑念も積み重なってくる。いっそ今このタイミングで、ナスカを呼び止めたほうがいいのだろうか。
エルゼリンデは意を決して口を開きかけたが、まるでその瞬間を見計らっていたかのように、ナスカが東屋らしき建物の裏手に回った。
彼女も慌てて足を速め、同じ方向へ回り込んで。
眼前を横切った影に、反射的に2、3歩大きく後ろに飛び退る。
エルゼリンデが体勢を立て直したのと、その足元に鞘付きの剣が飛んできたのはほぼ同じタイミングだった。
突然現れた、もう目に馴染んでしまった剣に訝りながら影の出処に目を向け――エルゼリンデは瞠目したまま体を強張らせた。
その藍色の双瞳に映ったのは、抜き身の剣を手に自分に対峙する従騎士の姿だった。
「……ナスカ?」
あまりに突拍子もない事態についていけず、エルゼリンデは呆けた声を発する。
なぜ、ナスカは自分に剣の切っ先を向けているのだろう。なぜ、自分は鋭い、敵意すら感じさせる眼差しに射抜かれているのだろう。
頭の中で答えの見つからない疑問がぐるぐると回る。
数秒の間流れる、薄ら寒い沈黙。それを打ち破ったのはナスカの静かな――いつもどおりの声だった。
「剣を取ってください」
言われている言葉の意味を理解したくないエルゼリンデが眉を顰める。彼は同じ言葉を同じ声音で繰り返した。
「剣を取ってください、ミルファーク様」
なぜかと問いかけたかったが、声はあいにく咽喉の奥に張りついたままだった。
稽古かとも思ったが、それにしては脈絡がないし、何よりナスカの纏う雰囲気が殺伐とし過ぎている。
困惑顔で身じろぎすらする気配のないエルゼリンデに対し、ナスカは姿勢はそのままに、軽く肩を落とした。
「……少し、昔話をしましょうか」
またもや予想だにしない一言を耳にして、エルゼリンデの眉間の皺が深くなる。
彼女の従騎士は自分の主人を見据えたまま、こう告げた。
「私は、奴隷です」
空気が、時の流れが、止まる。
ナスカが奴隷? エルゼリンデが我が耳を疑うのも無理はない。だって彼は自分の従騎士であるはずなのだから。
「祖父の代から今の主人にお仕えしてきました」
彼女の驚愕をよそに、ナスカは淡々と言葉を紡ぐ。
「主人は、公明正大で寛大な方でした。満足な食事、質素ですが雨露を凌げる住まいを与えてくださった。それだけでなく私のような卑しい身分の者でも剣を学ぶことを許してくださるほど、広い心をお持ちでした」
唇を自嘲の形に歪めるナスカを、エルゼリンデは黙然と凝視するほかなかった。
「折檻もされず、時に我々に労わりの言葉と幾許かの金銭を恵んでくださる……奴隷にとってはまさに理想の主人と言っても過言ではないでしょう。私は幼い頃からずっと、そんな主人を尊敬しておりました」
普段の寡黙さからは想像もつかないほど、今の彼は多弁だった。こちらが彼の本質なのだろうか。エルゼリンデには分からなかった。ただひとつはっきりしていることと言えば、「尊敬すべき理想の主人」を語っているはずのナスカの目が、暗く沈んでいることだけ。
「もっとも」
鋼色の切っ先が小刻みに揺れる。彼女の従騎士が剣の柄を強く握り直したためだ。
「後継者の孫息子どのには、主人の美徳は何ひとつ受け継がれなかったようですが」
背中が粟立つのを自覚する。脳裏に彼女の従兄弟の顔が過ぎったのは、果たして偶然であろうか。
嫌な予感が胸中を侵食していく。蒼ざめたエルゼリンデに、ナスカが暗い微笑を向けた。
「もう、お分かりでしょう。私の主人はエルンスト・ヴァン・バルトバイム伯。ミルファーク様もご存知のように今は元伯爵の身であり、ディストラー姓を名乗っておりますが」
ナスカの告白にエルゼリンデは瞠目した。だがその一方で頭の片隅では「ああ、やっぱり」と納得している自分もいる。やはりあの時の予感は間違っていなかったのだ。
「爵位を剥奪されてから、主人は変わってしまいました。いや、むしろ本性を現したといったほうが的確かもしれませんが」
再び、剣の切っ先が微かに震える。
「主人の公正さ、寛大さはすべて、伯爵という強力な後ろ盾があってのものだったのです。爵位を失い、身分上は平民と同等の立場に立たされたとき、主人は我を失いました」
今まで何代も続いたバルトバイム伯爵家が自業自得とはいえ断絶したとあれば、さすがに取り乱すのも無理はない。エルゼリンデだって、アルフレッドからその事実を知らされた時はさすがに驚いた。
「主人からすれば唾棄すべき存在、取るに足らない存在の平民になってしまったことは、何よりも耐え難い屈辱だったようです」
軽い錯乱状態に陥った主人の手にかかり、何十人もの奴隷が惨殺された。あくまでも平淡な口調を崩さず、ナスカはそう続ける。
「ひとしきり八つ当たりが済んだあと、主人はこう考えました。爵位を失ってしまったのならば、奪ってでも取り戻せばよいと」
――ああ、そういうことか。
エルゼリンデはその一言で彼がなぜ自分に剣を向けているのかを理解した。以前この耳で直に聞き、体感した貴族減らしの噂。あれがどこまで真実味を帯びているのかは不明瞭であるにしろ、自分の身に降りかかっている以上、実際にあることは事実なのだ。
しかし、衝撃よりも戦慄よりも、疑問が先立った。
ナスカは自分を始末するために従騎士として側についた。であるならば今まで何度も殺す機会はあったはずだ。というより、直接手を下す必要もない場面だってあった。たとえば草原で盗賊に襲われた時。ナスカが庇わなければ自分は今頃草原の冷たい土の下だった。そうすれば誰からも何の疑いもなくイゼリア子爵を名乗れたはずなのだ……エルゼリンデとミルファークが入れ替わっている事実を抜きに考えれば、ではあるけれども。
なのにナスカは自分を助けた。それだけでない、ヴォズマイル平原での戦いだって、見捨ててしまえば良かった場面なんて数えるほどあった。
それなのになぜ今、ナスカは真正面から自分に剣を向けているのであろうか。
エルゼリンデの疑惑を込めた眼差しに気づいたのか、ナスカは一度目を閉ざした。
「私はあの方を、伯爵様を心より尊敬しておりました。その伯爵様が、あれほどまでに平民を見下し、爵位を掠め取ろうなどという矮小な考えに囚われるなど……私には赦しがたかった」
ぎり、と奥歯を噛み締める音がエルゼリンデの耳にも流れ込む。
「ですが、所詮私は奴隷です。主人の命には従わなければならない」
三度、彼は手にした剣を握り直す。そうしてこちらを真っ直ぐに見据え、こう宣告する。
「だから私は、あなたを殺さなければならない」
エルゼリンデは陽の光を受けて鈍く光る刃とナスカの顔を交互に見つめた。
「……それで」
ようやく彼女の唇から声が形を持って滑り落ちてくる。
「それで、私が剣を取らなければならない理由は?」
殺すのであれば、その刃をほんの少し、突き出すだけでいい。それなのになぜ殺す相手に剣を取ることを求めるのか。
そう訊ねる声音は自分でも驚くぐらい、落ち着いていた。
「……理由は、ただひとつ」
ナスカの目が僅かに眇められる。
「あなたも騎士であるならば、自らの死に抗っていただきたい。むざむざ黙って殺されるような愚鈍で弱い騎士に我が人生を捧げるなど、赦せないのです」
それは自尊心の高いナスカらしい答えだった。だけどもエルゼリンデにはそれが本心からとは思えなかった。
「ナスカ……」
エルゼリンデが唇を噛む。殺されるのも嫌だし、彼に自分を手にかけてほしくない。自分は子爵身分の「貴族」なのだ。平民、奴隷が貴族を手にかけるということは、彼らの生命も終わることになる。
どうしたら、どうすればナスカを思いとどまらせることが出来るだろう。
言葉では無理なのは、すぐに知れた。たかが15年しか生きていない自分の言葉に、どんな説得力があるだろうか。
となると、今の自分に取れるべき選択肢はひとつだけ。
エルゼリンデはゆっくり腰を折ると、自分の足元に転がった長剣を拾い上げた。
「それでこそミルファーク様です」
ナスカが満足そうに肯く。エルゼリンデは剣の重みを全身に感じながら、鞘を抜く。
瞬時に眼前の切っ先が襲い掛かってくる。その動きを予測していた彼女は大きく後方に跳び退った。すぐに第二撃が迫りくる。剣を掬うように捌き、小柄な体を反転させて次の斬撃も回避する。
ナスカと剣を合わせることは、訓練で何度かあった。しかし彼の動きは当時とは明らかに違う。
一合、二合と打ち合うたび、剣を持つ右腕に痺れが走る。
「ただ逃げ回るだけでは、保身は叶いません」
息ひとつ上がっていないナスカの声が聞こえる。このまま防戦一方に回っているようでは彼を止められないことぐらい、自分にも分かっている。だがどうしても、ナスカを攻撃できないのだ。
自分は弱い。そのことを痛感するのは、これで何度目だろう。ナスカを剣で打ち負かし、その上でこんな無謀な行動は止めるよう説得するには圧倒的に力不足だ。
やっぱり自分には無理だったのかな。
そんな心の隙を従騎士は見逃さなかった。降りかかる刃を弾こうと剣を掲げたエルゼリンデだったが、力負けして後ろに倒れこむ。
勝敗はついた。
両者ともそれは確信しただろう。
「もう、終わりですか。あなたならもう少し粘ってくれると思っていたのですが」
仕方がないですね。ナスカはいつも通りの口調で嘆息すると、剣を構え直した。
自分は、ナスカに殺される。もうどうしようもない。だって弱かったのだから。
エルゼリンデは、兇刃が自分の頭上に落ちかかるのを待つべく、両目を閉ざした。
「――諦めるんじゃねえ!」
懐かしいその「声」が耳元に響いたのは、視界が暗転するのと同時だった。