第68話

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 その声に促され、エルゼリンデは躊躇いがちに瞼を上げた。
 ぼやけた視界の中で、目の前に立ちはだかる騎士の姿がゆっくりと像を結んでいく。
 それは、ナスカではなかった。もっと小柄で痩身で、それでいてよく研磨された剣のような雰囲気を纏う騎士。
「――エレンカーク隊長……?」
 エレンカークの褐色の目が、彼女を静かに見下ろしている。エルゼリンデは目を瞠ったまま身じろぎすらできず、固まってしまった。
 これは、夢だろうか。それとももうナスカの手にかかって、死んでしまったあとなのだろうか。
 ただただ呆然と見上げる彼女に、隊長はいつもと同じ厳しい表情で、手にした木刀を突きつけた。
「この前も言ったばっかりだろうが! そこで簡単に諦めるんじゃねえ!」
 いつもと変わらない声だった。口が悪くてきつい声音で、だけど自分のことをちゃんと見ていてくれる声。
 ――ああ、これは過去の思い出だ。
 すとんと正解が落ちてきた。夢でもない、まぼろしでもない。エルゼリンデの記憶の中に存在するエレンカーク隊長なのだ。だからいつもと変わらないのだ。
 そういえば、最初の頃はしょっちゅうこんな風に怒られていたっけ。
 隊長が稽古を付けてくれるようになってからしばらくは、木刀を取り落としただけでも「もう駄目だ」と思ってしまっていた。武器を失ったらそれまでだと。
 そしてその度に、エレンカーク隊長から「諦めるな」との怒声が飛んでくるのだ。
「いいか、ミルファーク」
 尻餅をついたままのエルゼリンデは、隊長の言葉を噛み締めるように聞いていた。
「何度も言うようだがな、とにかく生き残ることだけを考えろ。だから武器がねえくらいで諦めんじゃねえ。自分で勝手に見切りをつけんな。地べたに這いつくばってでも、みっともねえくらいに足掻いてみろ」
 格好つけたところで、死んじまったら何にもならねえからな。エレンカーク隊長が口の片端をつり上げて笑う。
 それが自嘲めいた笑顔に見えたのは、自分の気のせいだろうか。
「てめえはちゃんと足掻いてみろ。絶対諦めんじゃねえぞ。てめえが諦めちまったら救われねえ人間だっているんだ」
 隊長はそこでふと、肩越しを振り返った。まるで彼の背後に誰かいるかのように。
「そこの、従騎士みてえにな」
 はっと、息を詰まらせる。
 夢でもない、まぼろしでもない……はずだ。だけど、過去の記憶でもない。
「――隊長!」
 エルゼリンデは叫んだ。
 次の瞬間、彼女の瞳に映ったのはエレンカーク隊長の姿ではなく、頭上に降りかかってくる白刃のきらめきだった。
 諦めるな。
 エルゼリンデはとっさに地面に指を立てて土を掴むと、ナスカの両目を狙って投げつけた。
 不意をついた攻撃を受け、ナスカが素早く片手で目を覆う。ほんの数秒、彼の動きが止まる。その僅かな時間で充分だった。エルゼリンデは身を起こし、すぐ傍らに落ちていた剣を再び手に取る。
 今度は躊躇しなかった。ナスカが態勢を立て直す前に、彼女が動く。彼の懐に一歩大きく踏み込むと、剣の鍔元めがけて刃を振り下ろす。
 金属同士が鳴り合う、甲高い音が響いた。
 一瞬力が緩んだとはいえ、体格の良い従騎士から一撃で剣を奪うのは非力なエルゼリンデには無理な話だ。その手は柄から離れぬまま、ナスカが剣ごと体を後ろに引いて、彼女の攻撃をやり過ごそうとする。
 だが従騎士が一歩下がるのよりも早く、エルゼリンデは更に懐に踏み込んで、再び剣を振り下ろす。予想外の身のこなしに、ナスカの目が僅かに見開かれる。
 彼女は刃を打ち合わせたまま、真っ直ぐ従騎士の顔を見据えた。
「ナスカ、私は――諦めたくない!」
 一合、二合。斬り結ぶたびに鋼の鳴る鋭い音が響く。
「絶対に、諦めたくない――自分のことも、ナスカのことも!」
 両腕の痺れをエルゼリンデは自覚していた。この不毛な打ち合いが長引けば、自分に不利になることは分かっていた。それでも、諦めるわけにはいかなかった。
 ナスカは、本気を出していない。だからと言って手加減をしているわけでもない。エルゼリンデには、彼の今の心理状態が読めなかった。ただ何となく、もしかしたら動揺しているのかもしれない、という薄い予想は懐いていた。
 どちらにせよ、何としてでもこの状況を打破しなければ。
 エルゼリンデは渾身の力を込め、再び従騎士の剣を落とすべく刃を叩き付けた。もちろん結果は先ほどと同じ。ナスカはやはり剣を引くべく、一歩後ずさりかけ――
 その、ほんの一瞬。エルゼリンデは素早く重心を前のめりから戻し、膝を屈めて剣を――今度は下から上へ――振り抜いた。
 澄んだ音が空気を震わせる。
 ナスカの手から離れた剣は、大きく弧を描き、地面に突き刺さった。
 エルゼリンデはすかさず、飛び退るように剣の方向へと動いた。ナスカが再び剣を取ることのないよう、立ちはだかる。息が上がり、肩から下の感覚も乏しい。そんな中でも、彼女は従騎士から目を離すことをしなかった。
 ナスカは、どこか呆けたように立ち尽くしていた。もう戦意はないのかもしれないが、油断は禁物だ。エルゼリンデは柄を握る手を緩めなかった。
 数秒間の沈黙が二人の間を遮る。
 エルゼリンデは厳しい視線を向けてはいたが、かける言葉を持ち合わせていなかった。ナスカが何を考えているのか、やはり分からない。
 不自然な沈黙は、しかし彼の呟きによって瓦解した。
「私の、負けです」
 そう言って肩を落とす従騎士は、気のせいかいつもより穏やかに見えた。そして、彼はエルゼリンデが注視する中、ゆっくりとその場に膝を折った。
「ナスカ……」
 もう彼が動く気配はない。切っ先を下ろし、全身の緊張を解いたエルゼリンデは自分の従騎士の名を呼んだ。
 ナスカは赤銅色の顔に不思議なほど柔和な微笑を浮かべていた。
「ミルファーク様、あなたは強くなられた――私よりも、ずっと。だから私は負けたのです」
 普段からは想像もつかないほど穏やかな声音で自分の敗北を認める彼に、しかしエルゼリンデはぐっと眉根を寄せた。
「それは……」
 違う、そう言いかけた時だった。不意にいくつかの足音と気配が迫り、エルゼリンデは背後を顧みた。そして藍色の双眸を瞠る。
 目を瞠ったのは彼女だけではなかった。
 背の高い庭木の陰から現れたのは、最近見慣れてしまった赤い髪。確かファルクという名の騎士は、今にも斬りかからんばかりの気迫で抜き身の剣を構え――膝を折り、戦意を喪失した従騎士と、剣を持ったまま彼の前に立ちはだかる小柄な騎士という光景を目の当たりにして、さすがに面食らったようだ。瞠目したまま二人と、地に突き刺さった剣とを交互に見やる。
 エルゼリンデもエルゼリンデで、唐突に闖入してきた親衛隊員を前に、驚愕して固まってしまっていた。唯一ナスカだけが、平生変わらぬ無表情のまま、微動だにせず赤毛の騎士に視線を投じている。
 ファルクのやって来た方角から身なりの良い騎士たちが数人、後を追うようにやって来る。その気配に、親衛隊員は我に返った。彼は一瞬緩んでしまった表情を引き締めると、大股でエルゼリンデの真横を通り過ぎ、ナスカの眼前で足を止める。
 そうして、こう告げた。
「ナスカ・アルヴェーゼン、だな? 貴殿にはヘルムート・ディストラー……旧バルトバイム伯爵令孫殺害の嫌疑がかかっている。我々に同行願おう」


「……え?」
 自分の声を、エルゼリンデはどこか遠くに聞いた。我ながら、何とも間抜けな声だと他人事のように思う。
 彼女の声とほぼ同時に、三人の騎士が彼女の従騎士を取り囲む。押し退けられた形になったエルゼリンデは、呆然とそのさまを眺めることしかできない。
 目の裏に、ヘルムートの陰険な表情が浮かんでくる。ヘルムートが、あの従兄弟が死んだ――殺された? ナスカに? でもナスカはバルトバイム伯に仕える使用人、つまりヘルムートは彼の主人だったということだ。そして彼は、ヘルムートに爵位を取り戻させるため、わざわざ自分の命を狙いに来たのではなかったか。
 ナスカは動揺も抵抗もせず、自分の両手首に手錠が嵌められるのを見下ろしていた。まるで、こうなることを予期していたかのように。
 そんな彼の表情が俄かに変わったのは、ファルクたちがやって来た庭木の傍からゆったりと現れた黒い影を目にした瞬間だった。さすがに驚いたように、ナスカの黒い瞳が見開かれる。
「……まさか私の逮捕に王弟殿下が立ち会われるとは、夢にも思いませんでした。身に余る光栄にございます」
 皮肉を投げつけられた側は、しかし素知らぬ態で肩を軽く竦めた。
「中庭を散歩中にたまたま通りがかっただけだ。そうだろう、マウリッツ」
「ええ、左様でございます」
 アスタールの斜め後方に控える腹心の青年が、こちらも平然と首肯する。
 たった一人この事態についていけないエルゼリンデだけが、舞台の成り行きを見守る観客さながら、ひたすらこの光景を注視するばかりだった。よもや、王弟殿下にローゼンヴェルト将軍までが、舞台の出演者とは。
「散歩のついでに、一つだけ聞きたいことがある」
 アスタールは蒼い目でナスカを一瞥した。従騎士が無感動な黒い目で王弟を見返す。
「貴殿を城内に手引きしたのは誰だ?」
 世間話の延長のような口調とは裏腹に視線は鋭い。しかしナスカは気圧されることなく、しっかりと顎を上げて答えた。
「私は自分自身の意志と力で、ここへ参りました」
「……そうか。ならばいい」
 アスタールは思いのほかあっさりと引き下がり、ファルクに目で指示を出した。
 赤毛の親衛隊員らに促され、ナスカが立ち上がる。胸を張り、堂々と正面を見据えるその姿は、到底主人殺しの罪人には見えない。
「――ナスカ!」
 彼が連行されてしまう。その瞬間を目の当たりにし、ようやく混乱から醒めたエルゼリンデが声を上げる。
 自分がどうしたいのか分からない。ただ足の動くままに彼の元へ駆け寄ろうとしたが、素早く立ちはだかったローゼンヴェルト将軍にやんわりと制止されてしまった。
「憐れみも、同情も要りません」
 ナスカは真っ直ぐ前を向いたまま、明瞭な発音で告げる。
「私には、こうするしかなかったのです」
 彼女の従騎士は、その一言を残して彼女の前から去った。

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