第69話

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 ナスカと騎士たちがいなくなり、中庭は本来の、そうあるべきであった静寂を取り戻した。
 主役たちの去った舞台に残された出演者は王弟殿下と彼の腹心、そしてたった一人の観客。
 観客たるエルゼリンデは驚愕と衝撃の波が引かぬまま、呆然と立ち竦んでいた。あまりに色々なことが旋風のように一瞬で吹き抜けていったようで、理解と現実感とがまったく追いついていない。
 彼女の瞳には連行されていく従騎士の姿が焼きついたままだった。とても罪人とは思えない、超然として、何の迷いも見受けられぬその表情――ナスカは何を思い、どうしてヘルムートを殺したのだろうか。そして、なぜ自分を殺さなかったのだろうか。
 訊きたくても、当の主役は舞台から去り、幕は引かれてしまった。
 ただひたすらに従騎士の消えていった空間を凝視するエルゼリンデを、二対の双眸が黙然と見つめていた。そのうちの一対、アスタールの蒼い瞳がもの言いたげに揺らぐ。
 しかし固く引き結ばれた唇から零れ出たのは、微かな嘆息のみだった。彼は足音をほとんど立てずに踵を返すと、肩越しに腹心を一瞥した。
「……後は任せた」
 アスタールはそう言い残し、辿ってきた道を引き返す。そこでエルゼリンデははっと我に返り、遠ざかる王弟殿下の背中と、自分のすぐ傍らにいるローゼンヴェルトの顔を交互に見やった。殿下の表情は既に窺い知れないが、将軍はどことなく非難がましいような、呆れたような視線を主君の背に送っている。
「――まったく、あの人は肝心な時にこれだ」
 そんな訳の分からない、小言めいた呟きまで拾ったものだから、エルゼリンデは首を傾げるしかなかった。
 アスタールの長身が完全に見えなくなってから、ローゼンヴェルトは再び彼女の前に向き直った。
「お怪我は、ありませんでしたか?」
 訊ねる将軍の表情から、かなり心配されていることはすぐに知れた。エルゼリンデは一瞬驚きのあまり目を瞠ったが、慌ててかぶりを振るとぎこちない笑顔を覗かせる。
「あ、はい。全然、それはそれはもう、無傷そのも」
 そこで彼女の声はぷつりと中断された。
 雲も出ていないのに急に目の前が翳り、両肩に自分のものではない熱を感じる。
「……無事でよかったです。貴方に何かあったら、私は――」
 すぐ真上からローゼンヴェルトの声が落ちてきて、ようやく状況を悟る。自分の両肩に将軍の手が置かれ、抱き寄せられる3歩手前のような態勢になっていた。
 人間、驚きすぎると声を失うものらしい。何度目かの実感を噛み締めながら、エルゼリンデは両目を瞬かせてローゼンヴェルトを見上げた。しかし困惑の時間は長くは続かず、将軍は素早く体を離すと、何事もなかったそぶりで柔らかな笑みを覗かせる。
「貴方を見失ったとファルクから報告を受けた時には、思わず殴り倒すところでした」
 思いとどまっておいて良かったです。穏やかな顔と声とで、さらりと物騒なことを言ってのける。が、今のエルゼリンデは色々な出来事が鉄砲水のように押し寄せてきていて溺れる寸前だったので、そのことに気を回している余裕がなかった。
 ただひとつ、彼の言葉で引っかかったのは、どうやらファルクというあの赤毛の親衛隊員が、自分のことを見張っていたという事実のみ。
「あ、あの、私はファルクさんに監視されていたんですか?」
 確かに会戦後、ゼーランディア城内に滞在するようになってから度々彼の姿を身近に感じていた。今の話だと、彼に指示を出していたのはローゼンヴェルトその人と言うではないか。
 いったい何のために。続けて浮かんだ疑問は、言語化する前に将軍の一言によって押しとどめられた。
「ここで立ち話もなんですから、とりあえず城内に戻りましょうか」


 案内されたのは、城内の奥まった場所にある応接間の一室だった。壁や天井は石が削りだされたままの状態だが、床には毛足の長い絨毯が敷かれ、テーブルや椅子も飾り気はないが上等なものだ。上級貴族のみが使う部屋ということはすぐに知れた。
 目の前のテーブルには、ビスケットと3種類のジャム、それに湯気の立つ薄焼きのカップ。
 どうぞ遠慮なく、と向かいに座るローゼンヴェルト将軍に促され、エルゼリンデの脳裏にそんなに遠くない過去の記憶が甦ってくる。
 ……まさかこれも、将軍閣下のお手製とか。
 訊こうか訊くまいか。ちょっと戸惑ったエルゼリンデだったが、何となく止めておいたほうがいいような予感がして、口を噤んだままビスケットを一枚手に取る。ざっくりした食感に、杏のジャムがよく合う。ついつい二枚目、三枚目とつまんだ後、エルゼリンデはようやく本来の目的を思い出した。
「……ええと、さっきの話なんですけど」
 ナプキンで指を拭ってから、居ずまいを正す。ローゼンヴェルトは思慮深い表情で肯いた。
「貴方の訊きたいことは承知しているつもりです。確かに私は貴方の側にファルクを付けました。貴方が今の部屋に移る少し前のことです。しかし決して監視する目的ではなかったことは、ご理解ください」
 真摯な眼差しを受けて、エルゼリンデは黙ったまま肯いた。おぼろげながら、なぜ将軍がそうしたのか、予想できる気がした。
「ナスカ・アルヴェーゼン――貴方に付けられた従騎士が、ヘルムート・ディストラーを殺害、逃亡したとの報を受けたとき、真っ先に貴方の保護を命じたのはアスタール様でした」
 ナスカが自分を狙ってくる可能性が高い。王弟殿下の腹心はそう続けた。
「ですが、私には得心がいきませんでした。旧バルトバイム家の企みは把握していましたが、自分の主人を害したナスカがわざわざ危険を冒してまで貴方をも手にかけようとする、その根拠が見当たらなかったからです。だからとりあえず殿下の命に従って貴方をあの部屋まで上げましたが、自由まで取り上げる気はありませんでした」
 おや? エルゼリンデは僅かに眉を顰めた。つまりアスタール殿下は、自分を軟禁状態にするつもりだったということなのだろうか。
 彼女の表情から疑問を読み取ったのか、ローゼンヴェルトは端正な顔に苦笑を滲ませた。
「アスタール様とて、悪意があってそのような処置を命じたわけではありませんよ。単に過保護の度がすぎるだけで……ただ、結果として殿下の判断が正しかったということにはなりますが。殴られるのはファルクだけでなく、私もですね」
 肩を竦める将軍を、エルゼリンデはじっと見つめた。つまり自分があんな場所に置かれたのは王弟殿下の命令で、ナスカから遠ざけるためだったのだ。ただ、軟禁状態にされるのは気の毒だと思ってくれたローゼンヴェルト将軍の計らいで、自由に歩かせる代わりにお目付け役を付けた、と。
 ふと、アルフレッドの顔が浮かんできた。「大変なことになってるかも」とザイオンから聞かされていたが、このことだったのかもしれない。
「ナスカを捕まえようとは思わなかったんですか?」
 何気なく胸に浮かんだ質問を口にする。
「もちろん捜索はされていました。我々ではなくゼーランディアの警吏隊が、ですが。今回の事件は使用人の主人殺しであり、さらにどちらも平民身分でしたから。戦後処理に追われる中、あまり熱心ではなかったようですね」
 残念ながら、戦場での殺人は被害者が貴族でないかぎり見逃されることが多いのだと、ローゼンヴェルトは教えてくれた。
「ついでながら、彼の処遇もまだ決まっているわけではありません。ヘルムートは元々使用人を残虐に扱うことで悪名高かったですから。裁判ではそのあたりの事情も考慮されるでしょう」
「つまり、ナスカは死刑になるわけではないんですか?」
「貴方に危害が加えられていれば、話は別でしたが」
 将軍は語調を強めながらも首肯した。それを耳にして、エルゼリンデの心は幾許か軽くなった。そうか、彼は確実に死刑になるわけではないんだ。目の前が明るくなった心持ちで、エルゼリンデはお茶を一口飲んだ。
 しかしローゼンヴェルトの表情は彼女のように晴れなかった。彼は目元に若干の躊躇いを見せたあと、こう告げた。
「それと、本人に死ぬ意志がなければの話です」
「――!?」
 危うくカップを取り落とすところだった。エルゼリンデは息を呑み、将軍の顔を見直した。
「それは、どういうことですか?」
「……先ほど中庭で彼を見たとき」
 彼女の動揺を鎮めるように、静かな口調で将軍は言葉を紡いだ。
「これは完全に私の主観で、彼の本心は分かりません。貴方を本当に手にかけようと決意していたのかどうかも。――ただ、彼の目を見て思い当たったのです。私は何度かああいう目を見てきました。あれは、死を覚悟している者の目です」
「……」
 エルゼリンデは声もなく、彼の話に聞き入っていた。
「そして、こう思いました。彼は、ナスカは――最後に貴方に会いたかっただけなのではないかと」
 そこでローゼンヴェルトは口を閉ざした。しばし訪れる沈黙。エルゼリンデは膝の上で両の手のひらを握りしめ、じっとその言葉を胸中で反芻していた。
 ナスカが何を考えているのか、何を思っているのかが知りたい。
 不意にエルゼリンデの中で、強烈な欲求にも似た思いが芽生えた。このまままた「仕方がない」で終わらせてしまったら、きっと虚しさと後悔だけしか残らない。
「……マウリッツさん」
 彼女は将軍に呼びかけた。
「ナスカに会わせてもらえませんか?」
 ローゼンヴェルトの琥珀色の双眸に、微かな迷いが覗く。だが彼が何かを言う前に、エルゼリンデは畳み掛けた。
「ナスカは私の従騎士です、まだ。王都に戻り兵役を解除されるか、私がナスカの任を解くかしないかぎり、いくら犯罪を犯したとはいえ私の従騎士という身分に変わりはありません。従騎士の不祥事は私の責任でもありますから、彼に面会し事情を聞く権利は私にもあるはずです」
 ほとんどひと息に言い切って、真っ直ぐローゼンヴェルト将軍を見据える。王弟殿下の腹心は、どこか驚いたように彼女の顔を見返し、それから軽く息を吐き出した。
「……貴方の言い分はもっともです。私から取り計らいましょう」
「ありがとうございます」
 エルゼリンデがほっと胸を撫で下ろす。そんな様子に、ローゼンヴェルトは口の中でこう呟いた。
「変わりましたね、貴方は……いや、昔からそうだったのかもしれません」
 私が気づいていなかっただけで。
 彼の声は口元を滑り落ちる前に霧散してしまったので、エルゼリンデの耳元まで届かなかった。

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