第70話

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 ナスカに会って、話を聞く。
 エルゼリンデの申し出を受けたローゼンヴェルト将軍は、頼んだその日に面会の段取りを整えていてくれた。しかも日取りが明日の朝だと言うから、あまりの手際のよさにびっくりしてしまった。さすが王弟殿下の腹心と呼ばれるお方だ。
 その夜はなかなか寝付けなかった。
 明日、ナスカに会ったら何を話そう。何を彼に伝えたらいいのだろう。自分の体には大きすぎる寝台の上で、エルゼリンデは何度も何度も寝返りを打った。
 ナスカに会いたい、会わなければ。そんな気持ちだけが先走って、ローゼンヴェルト将軍ともあろう方に我儘を押し付けてしまったのだ。不安と緊張と自己嫌悪をないまぜにしたため息が、唇をするりと抜けてゆく。
 今の私に何ができるだろう。
 結局答えの出ないまま、夜が明けてしまった。


 しかし寝不足のまま朝を迎えたエルゼリンデを待っていたのは、俄かに信じがたい知らせだった。
 ナスカが死んだ。
 いつもどおり臨時従者のイェルクが不躾な朝の給仕を済ませた後、入れ替わりに現れたローゼンヴェルトが、沈痛な面持ちで彼女にそう告げたのだった。
「彼は昨夜、巡回の警吏に具合が悪いと偽って牢を開けさせ、警吏の持っていた腰の剣を奪い――それを自分の咽喉に突き刺しました。止める間もない、一瞬の出来事だったようです」
 エルゼリンデは藍色の目を見開いたまま微動だにできないでいた。
 これは、夢だろうか。将軍は、何を言っているのだろうか。
 昨日、彼女に剣を奪われたナスカが垣間見せた、物柔らかな微笑が脳裏を掠める。ほんの昨日までは、生きて、彼女の前にいたのだ。それなのに一晩でずっと遠くに、彼女の手が届かないほど遠くに行ってしまうなんて――それも、自分の意志で。
 信じられなかった。信じたくなかった。ナスカが本当に自分で自分を殺してしまうなんて。
「……結局私も何のお役にも立てず、申し訳ありません」
 ローゼンヴェルトの言葉にエルゼリンデは目に見えてたじろぎ、視線を彼に向けた。
「いえ、閣下……マウリッツさんが謝ることなど何も……むしろこちらの無理なお願いに応えていただき、本当にありがとうございます」
 動揺と気まずさを心の内にかろうじて押し込み、深々と頭を下げる。ローゼンヴェルト将軍に謝罪の言を向けられる必要も、そんな資格もエルゼリンデにはないのだ。むしろ生命を狙われていた自分を保護し、手厚い待遇を与え、おまけに我儘まで聞いてくれる。こんな王国の中枢にいる高位の人間にそうまでしてもらう意味は分からないが、ともかく謝られるなんて滅相もない話なのだ。
 頭を上げると、気遣わしげな琥珀色の瞳とぶつかった。
「もう、貴方の周囲に目を配る必要もなくなってしまったので」
 将軍は努めて柔らかな口調を前面に押し出した。
「どうぞ、城の内外を自由に散策して構いませんよ。この部屋にいるより、気分転換にはなるでしょう」
 彼女の受けた衝撃を慮ってくれている。エルゼリンデは恐縮しきりで、もう一度深々と一礼した。
 王弟殿下の腹心は、ナスカの死を報告しただけで長居はしなかった。多忙なのだから当然だろう。
 誰もいなくなった広い室内で、エルゼリンデは整然と用意された朝食に見向きもせず、再び寝台へ足を向けるとのろのろと腰を下ろした。
 ――ナスカまで、いなくなってしまった。
 その事実が黒い影となって、少しずつ胸の内側を食んでいく。
 せっかく会えると思っていたのに。ナスカに訊きたいこと、話したいことがたくさんあったはずなのに。
 目の前が暗く落ち込む感覚に、彼女は首を軽く振った。このままだと、またおかしくなってしまう――エレンカーク隊長の時のように。
「……散歩でも、してこようかな」
 あえて声に出して呟き、エルゼリンデは立ち上がった。

 階段を下に降りていくにつれ、慌しい気配が彼女を包んだ。朝の忙しい時間だからというだけではない。そこかしこを騎士や従騎士、役人が歩き回っている。どうやらそろそろゼーランディアを出立する時が近づいてきたらしい。
 ふと、エルゼリンデは別の思いに囚われた。帰還はどうなるのだろう。第三騎士団は先の会戦で将軍以下主要な騎士たちがほぼ壊滅する惨事に見舞われ、現在は機能していない。ゆえにエルゼリンデもザイオンも、自分の所属を正確に把握できていない状態なのだ。おそらくローゼンヴェルト将軍か、あるいはアルフレッドあたりに尋ねれば判明するのだろうけれど。
 レオホルト隊長は、どうしているのだろうか。
 騎士の詰め所で何度か捜してみたが、直属の上官の所在もまた掴めていない状態だった。騎士たちの話では、どうも負傷して療養中との噂だ。
 これも将軍に訊いてみればすぐに答えを得られることだった。そして見舞いたいと彼女が言えば、よほどの事情がないかぎり叶えてくれるだろう。
 本当に、何なんだろう。エルゼリンデは口元に苦笑を刻んだ。
 衛兵たちに若干不審の眼差しを向けられながら城門を出る。陽光は日を追うごとに光を薄めていて、冬が迫っていることを教えてくれる。
 城壁沿いに歩き、人気のほとんどない木陰に腰を落ち着けた。だが、頭の中ではさまざまな疑問や思いが歩き回り続けている。
 なぜナスカは自ら死ぬことを選んでしまったのか。
 覚悟の上だった。そう、ローゼンヴェルト将軍は言った。確かに、いかにヘルムートが陰険で横暴であったからとはいえ、殺されていいはずがない。人を害してしまったことには責任を取らなければならないのは当然……
 エルゼリンデは膝を抱える腕に力を込めた。戦場では、殺人は罪にはならないけれど。あの時、彼女が矢を放った光景が閃光のごとくひらめき、エルゼリンデは思わず目を瞬かせた。肺いっぱいに涼やかな空気を吸い込み、気分を鎮める。
 彼女の思考は再び昨日のあの場面へと遡行した。
 あの、ナスカと最後に剣と言葉を交わしたあの短い時間。おそらくあれが自分に与えられた最初で最後の好機だったのだ。ナスカを思いとどまらせるには、その時間内でなければ駄目だったのだ。
 エルゼリンデは唇を噛んだ。
 それなのに、何もできなかった。ただ目の前の出来事に狼狽し、戸惑うばかりでナスカの胸中を斟酌することも、的確な言葉をかけることもできなかった。
 もっと自分がしっかりしていて、頭が良かったなら。結末は、違ったものになっていたかもしれないのに。
 いつかも噛み締めた無力感が、再び彼女の両肩に圧し掛かってきた。
 エレンカーク隊長に会いたかった。
 会って、話を聞いてもらって、そして何でもいい、何か声をかけてほしかった。それだけできっと心が軽くなる。だけど隊長は――
 目元が緩んでしまいそうになり、慌てて力を込める。と、不意に頭上が翳ったのでエルゼリンデは原因を突き止めるべく顔を上げた。
 そして、一瞬だけ硬直する。
 まず視界を占領したのは目に鮮やかな赤毛だった。
「よお。相変わらず辛気くせえ顔してんな」
 影の元、ウォルフガング・ヴァン・ファルクがいつの間にやら彼女の目の前に立っていた。今日は仕事がないのか簡素な平服を纏い、片手には何やら小ぶりな袋を提げている。
「あ、ど、どうも、おはようございます……」
 怯みかけながらも挨拶を返す。少し前まで見ていたような、険の強い表情はない。むしろ気さくな雰囲気さえ感じさせる。しかしどうも「怖い人」という印象が払拭できないエルゼリンデは、僅かに緊張を覗かせていた。
 彼女の妙な緊張感はファルクにも伝わったらしく、彼は形の良い眉を上げた。
「言っとくけど、もう監視なんかしてねえからな」
 彼はそう言い放つと、エルゼリンデの隣に座った。
「あれは本当に災難だった。戦場に来て、まさかガキの後をコソコソつけるなんてことになるなんてなあ。思ってもみねえだろ普通は」
 確かに、親衛隊員がするような仕事ではない。
「じゃあ、ファルクさんはどうしてここに?」
 エルゼリンデが首を傾げると、ファルクはやや大げさに肩を上下させた。
「城内で、あんたがやたら思いつめた顔でふらふら歩いてるのを見かけたから。またあんたに倒れられようもんなら、今度こそローゼンヴェルト閣下の制裁――」
 そこで彼ははたと声を切り、一度わざとらしく咳払いをする。
「ま、この前みたいに変なところでぶっ倒れられても困るからな。様子見に来たってわけだ」
 ファルクは袋の中から大麦のパンを取り出し、かぶりつく。エルゼリンデにも「食うか?」とパンを差し出されたので、ありがたく受け取っておく。実は朝食もまだ食べていなかったから、腹の虫が存在を主張し始めていたのだ。
「そういやあんたの従騎士、ナスカだっけ? 獄中で自殺したんだってな」
 パンをかじるエルゼリンデの肩がぴくりと震えた。それには気づかず、彼は話を続ける。
「詳しい事情は分からねえけど、後味わりいよな。剣の腕も優秀だったし、こう言っちゃ何だが、ゼーランディア城内への侵入経路も見事だったしな。多分有能な間諜になれただろうに勿体ない……つうか、あんた良くそんな奴に勝てたよな。単なるひょろっこいチビだと思いきや、意外とやるじゃねえか」
 ほとんどひと息に捲くし立てながら無遠慮に彼女の肩を叩く。エルゼリンデはそうですね、と曖昧に肯いた。あれは決して自分の実力ではないことを誰よりも熟知しているから、とても喜ぶ気になれない。
 ファルクも彼女の沈んだ様子を察したのか、ちょっと気まずげに頬を掻くと話と声のトーンを変えた。
「そういや、あんたカルステンスの知り合いなんだな」
 どこで知り合ったんだ? と重ねて訊ねられ、エルゼリンデは目を瞬かせながら答えを紡ぎだした。
「ええと、行軍中に同室になったんです。カルステンスさんと、あと……シュトフさんと」
 シュトフの名前を出す時に、少しだけ躊躇ってしまった。カルステンスから死亡を聞かされてもなお、あのシュトフが死んでしまったとは信じ難かった。
「ふーん、なるほどねえ。そういやシュトフの野郎もあっさり逝っちまったってな。崖から転げ落ちるとか、あいつらしくもねえ間抜けな死にザマだったとか。カルステンスしか見届けてねえのが悔やまれるな」
 俺もその場に居合わせてたら、死ぬまで語り草にしてやったのに。ファルクはそう言って笑っていたが、エルゼリンデは非難がましい思いを懐かなかった。彼の目は、ちっとも笑っていなかったから。きっと、ある意味とても正直な人なのだろう。
 悲しみをほんの僅かにでも共有できたからだろうか、エルゼリンデの気持ちも落ち着いてきた。
「カルステンスさんから、ファルクさんは元同僚だったって聞きました」
 ファルクは肯いた。
「カルステンスと俺は同時期に騎士団入りしたんだ。シュトフもその時従騎士から騎士に上がってきたから、ほぼ同期だし。あと一人、デュッケって奴も同期でいるんだが、あの頃は4人でよく馬鹿やってたなあ」
 昔を懐かしむように、彼の緑眼が細められる。だがそれも長くはなく、彼は残りのパンを一口で飲み込むと、また袋の中に手を突っ込んだ。
「まあ、戦争なんて不味い酒みてえなもんだからな。呑んでる最中はいいが、後々その不味さを頭痛と共に実感する――ほらよ」
 おもむろに手渡されたのは、琥珀色の液体が入った小瓶だった。突然の贈り物に小瓶とファルクの顔を交互に見つめると、赤毛の親衛隊員は器用に片目を瞑ってみせた。
「不味い酒を呑んだ後は口直しに限るってな。それ、結構貴重なんだぜ。大事に呑めよ」
 彼はエルゼリンデの亜麻色の髪を少々手荒くかき回すと、さっと立ち上がり、「あんま思いつめんなよ」との一言を残して城内の方向へ歩き去ってしまった。
 やっぱり、ファルクには犬猫と同じ扱いをされてるような気がする。片手で髪を直しながら、エルゼリンデは憮然と考える。そしてふと、もう片方の手のひらに収まった小瓶を、しげしげと眺めた。
 これは、エレンカーク隊長が呑んでいたお酒と同じだな。ぼんやりと、彼女はそんなことを思った。

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