第71話
草原の真ん中で、ひとり馬を走らせていた。
周りには何もなく、誰もいない。耳元で流れる風の音がやけに不穏に響く。
いつまで、どこまで走ればいいのだろう。行けども行けども何も変わらない風景の中、エルゼリンデはただひたすら手綱を握っていた。
不意に、目の前に騎影が現れる。自国の騎士ではない、他国――モザールの立派な鎧を身に着けた影。影がこちらをじっと見つめている。
気がつけば、手綱から手を離して弓を番えていた。躊躇うことなく影に狙いを定めて弓を引き絞り――射た。
どさり。
不快な鈍い音とともに、世界が暗転する。
真っ暗な闇の中に、エルゼリンデは立ち尽くしていた。いつの間にか乗っていた馬も、手にしていた弓も消失している。
ここはどこ? 心の中の疑問に答える声はない。足を動かしたいが、まるで泥濘に嵌ってしまったかのごとく、思うとおりに動いてくれない。
一歩踏み出そうとするのを諦めて周囲を見回してみる。無窮に広がる闇が、視界を覆いつくす。
私はどうして、ここにいるのだろう。
疑問が泡のように弾けては消えてゆく。その時だった。背後からこちらへ向かってくる気配を感じたのは。
素早く肩越しに振り返り、目を瞠る。
「……ゲオルグ」
体が芯まで強張るのを感じた。そこにいたのは、脱走の嫌疑で処刑された、かつての同僚の姿。
彼は暗い面持ちで、しかしエルゼリンデのほうはまったく顧みずに彼女を追い越し、前へと進んでいく。
「まっ――」
待って、と言いかけたとき、新たな気配が再び背中にぶつかった。また振り返り、そうして瞠目する。
「――ナスカ!」
視線の先には、彼女の従騎士がいた。真っ直ぐ前だけを見つめ、淀みない足取りで歩いている。しかし彼の目もまた、エルゼリンデの姿を映していない。
「ナスカ、待って!」
無表情で横をすり抜け、遠ざかる背中に精一杯の声をかける。追いかけようと必死に足を前に出そうとするも、意思とは裏腹にまったく上手くいってくれない。
ナスカは振り向くことなく、常闇に溶けた。
エルゼリンデはただなすすべなくゲオルグとナスカの消えていった一点を見つめていた。
何も、できなかった。
足を動かすことすらできない、無力な自分。
じわりと心の中にまで闇が侵食してくる。
力なく項垂れかけた瞬間だった。背後からまた、新たな気配を感じたのは。
再び自分の横を通り過ぎる影。横目でそれを追ったエルゼリンデは、思わず息を詰まらせた。
よく見慣れた、何度も何度も目にした小柄な背中が遠のいてゆく。
「……エレンカーク隊長!」
彼女は声を上げた。だが隊長もやはり振り向いてはくれない。いつもなら呼ぶ声に応えてくれる隊長の輪郭も、次第に闇へと揺らいでいく。
「待って、待ってください! 隊長!」
焦燥感ともどかしさの中、声を張り上げ消えゆく背中に手を伸ばし――
気がついたときには、薄闇の中にいた。目の前には滑らかに塗装された石の天井が広がっている。もうすっかり馴染んでしまった風景の中に彼女はいた。
夢、だったんだ。
横たわったまま、荒い息を整えながらおぼろげに考える。寝汗がかなり酷い。エルゼリンデは顔を顰めて窓へと視線を投げた。室内の暗さから、まだ夜半なのは明らかだ。彼女は光の射すことない窓を見つめたまま、ゆっくりと、大きく胸を上下させた。
そのまま瞳を閉じて、糸を張ったかのような夜の静寂に耳を澄ませる。
あれは夢だった。そう言い聞かせても胸郭を波立たせる動揺と不安は治まってくれない。夢の最後に見たエレンカーク隊長の姿が脳裏に甦る。エルゼリンデは堪らず目を開けた。頭はぼんやりしているはずなのに、ある一部だけ妙に冴えている。そのせいか、両目を瞑って横たわっていたところで睡魔が再び訪ねてくる気配はなかった。
エルゼリンデは体を起こし、寝台に腰掛ける形で座り直す。
ふと、視界の端にいつもはない小瓶が映りこんだ。寝台横のサイドテーブルに置かれたそれは、今朝がたファルクから譲り受けたものだった。彼は酒だと言っていたか。
じっと小瓶を見つめる。あの中は、いつかエレンカーク隊長が飲んでいた酒と同じ色をした液体で満たされているはずだ。
エルゼリンデは音もなく立ち上がると瓶を手に取った。何の感情の吐露か分からないため息が零れる。
夜風に当たりたい。彼女は小瓶を持ったまま、自分にはいささか重たすぎる扉に手をかけた。
廊下にも当然ながら薄闇の世界が落ちていた。エルゼリンデは同じフロアにあるはずのテラスを目的地に定め、歩き出す。
テラスと部屋とを往復したことは何度かあるが、深夜ともなると勝手が違う。そうでなくともただでさえ広い城内なだけあって、足取りにも迷いが生じた。途中で廊下の奥に人影らしき気配を感じたが、目的地に辿り着くことに専心していたエルゼリンデは気に留めることなく右へ左へと進んでいく。
戸惑いはあったもののさほど迷うことなく、彼女は目的の場所で立ち止まった。
ひやりとした夜風が心地よい。天空を振り仰ぐと半分に欠けた月が皓々と深い闇を照らしている。
エルゼリンデはしばし深閑の夜に身を預けた。だがざわめく不安は、風が木々を揺らすがごとく彼女の心を震わせ続ける。自分も闇に溶けてしまうのではないか、そんな思いすら懐かせる。
何もかも不安定な中で、手のひらに感じる小瓶の重量感だけが今の彼女を支えていた。視線を落としてみると、夜と同じ色に染まった液体が微かに揺らめく。
そういえば、レオホルト隊長や同じ隊だった騎士たちはどうしているのだろう。どうなってしまったのだろう。沢山のことがありすぎて、結局自分の隊の状況すら聞けていない。アルフレッドにもまだ会えていない。
私は本当に、何をやっているのだろう。エルゼリンデは口元に小さく自嘲の笑みを刻んだ。
琥珀色の液体が入っているはずの小瓶を見つめる。
叱咤してほしかった。怒鳴られてもいい。「お前は何をやっているんだ」と、いつまでも立ち止まったまま動けない、軟弱な自分の背を叩いてほしかった。
けれども、今の自分に与えられるのは、労りと気遣いとほんの少しの同情だけ。
そんなものは要らなかった。贅沢だと詰られようと、自分にとって必要な優しさはそんなものではないのだ。
瓶の栓をおもむろに抜き放す。鼻をつく苦味のあるにおいが夜の闇に拡がっていく。いつかエレンカーク隊長と行った、酒場のにおいだ。
思い切り息を吸い込んでみる。アルコールの苦さに目がちかちかした。栓の空いた小瓶の口を覗き込むと、暗色の水が揺れている。
これを飲めば、エレンカーク隊長に近づけるだろうか。少しでもあの人と同じものが見られるだろうか――脈絡のない考えが、彼女の思考を絡めとる。エルゼリンデは衝き動かされるままに瓶に口をつけると、中の液体を一気に流し込んだ。
咽喉と胃が灼けつく感触に、思わず咳き込んでしまう。体中に熱が回り、頭がくらくらしてくる。
苦しい。咳き込みながら目の端に涙を滲ませる。だけどこの苦しさが今の自分に一番必要だとも思った。
空を振り仰ぐと、視界が一回転した。頭の芯がずきりと痛み、目の奥まで熱くなる。
隊長も、ナスカも――厳しく自分を正してくれる人たちは、あの空の向こうに行ってしまったのだろうか。自分もそこに行けるだろうか。行けば隊長たちに会えるだろうか。
エルゼリンデは一歩足を踏み出した。足取りとともに目の前も景色もよろめく。覚束ない歩みで、一歩、また一歩と進んでいき、テラスの縁へ両手を手をついた。
覗きこんだ先に見える深淵は、恐ろしいはずなのにどこか蠱惑的だった。
そこに飲み込まれてしまえば、私も隊長たちのところへ行けるのだろうか。
ぐらぐらと揺れる世界で、生と死の境目だけははっきりこの目に映っている。まるで重力に引き込まれるように、エルゼリンデは両腕にありったけの力をこめてテラスから身を乗り出し――急に強い力でこちら側に引き戻された。
「何をしている」
静かだが、鋭いものの混じった声が頭上から落ちてくる。聞き覚えのある声。いまだ境目から醒めない彼女は、ひどく緩慢な動作で上を見上げた。半分の月明かりでも蒼い双眸がはっきりと見えた。
「は、離してください」
右腕を掴む王弟殿下の手から逃れようと身じろぎする。頭がずきずきする。
「駄目だ」
アスタールの返答は簡潔で、にべもなかった。
「……酒か」
幼子のようにもがくエルゼリンデなど意も介さず、彼はテラスの床に転がる小瓶を目で追った。
「どこで手に入れた」
殿下の問いかけにエルゼリンデは無言だった。せっかく隊長のところへ行けそうだったのに、こんなところで邪魔されるわけにはいかない。
「は、離して、離してください。邪魔しないで……わ、私も、私もエレンカーク隊長のところに行かなくちゃ……」
「エレンカークは死んだ。もうどこにもいない」
「だから!」
無情な一言を頭痛とともに振り切るように、彼女は頭を振る。
「だから、私も行くんです、あっちに……あ、あっち側に行ければ、隊長にもナスカにも会えるから……」
「お前が死んでも彼らに会える保証はどこにもない」
「そ、そんなの、やってみなければ分からないじゃないですか!」
エルゼリンデはなおもこちら側に押し留めようとする力から抗うように激しく体を捻らせる。
アルコールと熱い涙で目が痛い。掴まれたままの右腕からも、じわりと痛みが滲み出てくる。痛い痛い痛い。頭も、目も、腕も、心も。どこもかしこも痛い。きっとこの痛みも、あの境目の向こう側に行くことができたら解放されるはずに違いないのに。
「わ、私は、私はもう……」
「エルー!」
兄のものではない、自分の名前を呼ぶその声に、ぴたりと彼女の動きが止まった。