第77話

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 エルゼリンデはいつにない緊張状態の渦中にいた。
 ファルクは何だかんだ言いながらも、彼女を部屋まで送ってくれた。そうして部屋に戻って一息ついていたところへ、イェルクが不意の来客を告げたのである。
「あの、その節は、大変ご迷惑をおかけしいたしました……」
 恐縮しつつ項垂れていると、彼女の目の前に座る人物は呆れ半分に嘆息した。
「前にも言ったと思うが、お前の迷惑は今に始まったことではないからな」
「す、すみません……」
 アスタール殿下を前に、エルゼリンデは恐縮しきりであった。
 王弟殿下に先日の非礼を詫びなければならない。それは昨日からずっと考えていたことである。だが昨日は尋常ならざる宿酔いに苦しんでいたため叶わず、今朝もさんざん廊下で立ち往生した挙句、夜にならないと戻らないということで先送りにしていた経緯がある。
 いよいよ覚悟を決めなければならないと思っていたところで、まさか殿下のほうが直々に訪ねてくるとは。
 アスタール殿下は彼女の緊張を知ってか知らずか、イェルクが用意した香茶をすすった。
「で、体調はどうなんだ? ひどい宿酔いだった聞いたが」
「は、はい、イェルクさんの看病もあり、おかげさまで大丈夫です」
 恐縮が最高潮に達し、肩を竦めながら答えを返す。アスタールは彼女の様子をじっと見つめ、それから軽く嘆息した。
「その態だと、あの夜のことはほとんど覚えていないようだな」
「ううっ」
 痛いところを衝かれ、エルゼリンデは更に頭を下げるしかなかった。まったく、自分はどこまで殿下に失礼な態度をとり続けるのだろうか。別に意図しているわけでもないのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
「ひ、非常に申し訳なく思っております」
「そうやって畏まられるのも妙な気分だ」
 アスタールはどういうわけだか、若干不機嫌そうに腕を組んだ。何が彼の機嫌を損ねたのかまったく把握できずに、エルゼリンデは途方にくれる。
「あの、本当にすみません……」
 非は全面的にこちらにあるので、とにかくひたすら頭を下げるしかない。しかし殿下は一層形のよい眉を顰めるばかり。
「ひとつお前に問うが」
「は、はいっ」
 エルゼリンデは勢いよく背筋を伸ばした。兎にも角にも、これ以上の不興を買うわけにはいかない。だいたい前科がありすぎるのだ。フロヴィンシアでのことといい今回のことといい、そろそろ王弟殿下の堪忍袋の緒が切れてもおかしくない。
 アスタールは僅かに身を乗り出し、その蒼い瞳で彼女の目をじっと見つめた。
「お前は俺が偉そうに見えるのか?」
「……は?」
 エルゼリンデは目をぱちくりさせた。意表をついた質問に、一瞬思考がついていかない。
「え、偉そう……ですか?」
 鸚鵡返しに訊き返す。そうだ、とアスタールは険しい表情のまま肯いた。
「それは、王弟殿下ですから」
 質問の意図が判らなかったが、当たり前のことなので胸を張ってきっぱりと答える。この広大なライツェンヴァルトを治める王族の一人、それも現時点で第一位の王位継承権を有する相手――現国王、シグノーク陛下に男児が生まれなかったら次の国王になるお方だ。これを偉い人といわず、誰を偉い人というのか。
 しかし、アスタールの顔を見返したエルゼリンデは瞠目とともに硬直してしまった。
 彼は端整な顔を翳らせ、何と言おうか、どこか寂しげな、それでいて憮然とした表情を浮かべているのだ。いったい何故? 自分の返答が気に食わなかったのだろうか。もっとこう、敬意を最大限に込める必要があったとか。
 エルゼリンデはあからさまに狼狽した。なんだかこの殿下、すごく扱いにくいぞ――などと、無礼なことを心の片隅で思いながら。
「……その割には、いまいちお前の態度からは尊敬の念が感じられないが」
 次に言葉を紡いだときは、既にエルゼリンデの知っている王弟殿下の顔に戻っていた。
「え、い、いやそんなことはないです……」
 動揺を隠すように彼女も香茶を一口すする。ほのかに甘くまろやかな味が広がり、緊張の糸がほどけていく感じがする。あの従者の少年はそこまで考えてくれていたのだろうか。
 アスタールはじろりと彼女を一瞥した。
「その件については後々追及するとして」
 わ、忘れていただきたい。できることなら今すぐにでも。
「今日ここに来たのはお前の今後についてだ」
「私の今後ですか?」
 高価そうなカップを慎重に受け皿に戻しながら訊き返す。色々な出来事が押し寄せすぎて忘れていたが、そろそろ王都に帰還する頃合だ。
「明後日、ゼーランディアを発つが、お前はどうしたい?」
 エルゼリンデは眉をひそめた。どうしたい、とはどういう意味なのだろうか。王弟殿下は彼女の表情を斟酌したのか、こう続ける。
「このままの状態でいいのであれば、お前はファルクの下で行動してもらう。第三騎士団――といっても今は機能していないが、元の所属先の人間と共にいたいのであれば、戻す用意はある」
 殿下の言葉に、エルゼリンデは藍色の双眸を何度か瞬かせた。今のあやふやな境遇の中で、彼女自身に選択を委ねてくるとは思いもしなかった。
 アスタールから香茶の水面に視線を移し、しばし考えを廻らせる。この待遇は、環境面だけで見れば最高だ。人の目も少ないし、おそらく彼女が望んだことはたいてい適えてくれるに違いない。だけど、その分精神的な負担とか、言い表しがたい後ろめたさもかなりのものだ。
 環境をとるか、気楽さをとるか――その二択だったら、エルゼリンデの答えは決まっていた。
「私は、できることなら第三騎士団に戻りたいです」
 再び前を向いて、正直に自分の気持ちを告げる。
「……エレンカーク隊長に約束したことも、守りたいです」
 強くなりたいと、その思いに変わりはない。だからこのまま緩やかな優しさに浸っているだけでは駄目だ。きっと甘えてそこから抜け出せなくなってしまう。
「そうか」
 アスタールの返答は簡潔だった。
「すぐには無理だが、帰還の隊はベッセルのところに編入させるようマウリッツに言っておこう」
「あ、ありがとうございます……」
 あまりにもあっさりと承諾され、戸惑いを目元に滲ませる。王弟殿下はため息混じりに頬杖をついた。
「お前のことだ、そう答えるのは分かっていた。それに、アルフレッドからもお前の待遇に関して苦情が来たようだからな」
「あ」
 意気揚々とした後ろ姿が甦ってくる。アルフレッドは、本当に上層部の人間に文句をつけたようだ。エルゼリンデは頭を抱えそうになるのをこらえ、代わりに口を開いた。
「殿下もアルフレッド様とお知り合いなのですね」
 さすがは超名門、ローデン伯爵家の出自だけはある。
「アルフレッドよりも、その後見人のほうが馴染みが深いが」
「後見人……あ、ハンスさんのことですか?」
 騎士に似つかわしくない柔和な笑顔が思い返される。あまり言葉を交わしたことはないが、アルフレッドから信頼を寄せられていることは、彼の発言の端々から感じていた。
 アスタールは浅く肯いた。
「彼は俺の恩師の孫だからな」
 恩師。そこでいつかのフロヴィンシアでの出来事が脳裏を過ぎった。シュトフとカルステンスが、アスタール殿下とエレンカーク隊長には共通の師がいたと話していたことを。
 名前は、確か――ミクラウス将軍。
「あの、殿下」
 気がつくと、エルゼリンデは彼に呼びかけていた。アスタールの蒼い瞳が彼女のほうを向く。その色に、見覚えがあるのは気のせいだろうか。
「何だ?」
 怪訝そうな顔をする王弟殿下を前に、はっとして息を呑む。自分は何を言おうとしたのか。
「……ええと、ですね。その」
 何故呼びかけたのか、何を告げようとしていたのか思い出せないまま、エルゼリンデはとりあえず頭を下げた。
「数々のご厚意、非常に感謝いたします」
 その場しのぎだったことは否めないが、それも心からの気持ちに変わりはない。
「それでですね、殿下。ひとつお伺いしたいのですが」
 自分の発言で、もうずっとわだかまっていた疑問を訊いてみるいい機会だということに思い当たった。
 アスタールは視線だけで発言の先を促す。
「ええと、会戦が終わってゼーランディアで療養させていただいて、こんなに手厚く看病していただけたこと、まことに光栄なのですが」
 そこで一呼吸おいて、続ける。
「どうして王弟殿下やローゼンヴェルト閣下は、私にここまで良くしてくださるのでしょうか」
 以前、彼の腹心に同じことを質問したら、「自分の心に訊ねてみれば分かる」と返された。果たして殿下はどう答えるのだろう。
 アスタールは黙然と彼女を見つめた。エルゼリンデにとっては気まずい沈黙が流れる。
「何故、か」
 ようやく言葉を発した彼は、淡々とした口調で続けた。
「特に理由はない」
 と。
「……へ?」
 間の抜けた声を上げてしまったのも無理はない。想像の斜め上を行く答えだったのだから。
「本当に、理由……ないんですか?」
 もう一度注意深く問いかけるも、王弟殿下はにべもなかった。
「あるとすれば、お前の従騎士の件。それくらいだな。それに、少し前までのお前の様子を見るに、しばらく外界から遠ざけておいたほうがよさそうだったからな」
 それは、エレンカーク隊長の死を告げられてからのことだろう。確かにあの時の自分は到底、正常と呼べる状態ではなかった。
「とはいえ、それほど厚遇していたつもりもないがな。たまたま部屋が空いていなかったからここになっただけで」
 いや、滅相も無いくらいの好待遇でしたが。そう言いさして、ふと思いとどまる。確かにしがない子爵令嬢から見ればそれこそ天変地異が起こったかのような騒ぎだったが、王族からすれば本当にたいした扱いではなかったのかもしれないと。
「まあ、今のところお前の身分はヴァンゲルマイヤー夫人の親戚ということになっているから、周囲の目を気にする必要はない」
 ヴァンゲルマイヤー夫妻は非常に信頼の置ける傑物だ。アスタールは世間話をする態で続けたが、エルゼリンデにしてみればそれも気が気でない。よりにもよって、ここの城主夫人の親戚などと。
「そ、それもそれで心臓に悪いのですが」
「ヴァンゲルマイヤー夫人とマウリッツの計らいだ。気にする必要はない」
 王弟殿下は淡白な口調で答えると席を立った。どうやら話は終わったということらしい。エルゼリンデも慌ててそれに倣い、扉のところまで殿下を見送る。その際、内心で安堵してしまったのは仕方がない。ごく短い訪問だったが、彼女にとっては夜よりも長く感じられたひと時だった。
「――ああ、言い忘れていたことがあったが」
 部屋を出る直前、アスタールは蒼い瞳で彼女を顧みた。
「今回の会戦の戦没者の葬儀は全て終わっている。……エレンカークも共同墓地に祭られているから、時間が許すのなら行っておいたほうがいいだろう。場所はマウリッツに案内してもらうといい」
 その一言に、エルゼリンデの顔が僅かに強ばった。もうエレンカーク隊長はいない。それを理解していてなお、心臓が凍りついたように冷たくなってしまう。
 アスタールはそんな彼女を一瞥したが、それ以上何も言わずに部屋を立ち去った。ただひとつ、形容しがたい嘆息だけを残して。

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