第79話
薄い灰色の雲が空一面に拡がる。
「せっかく出立の日なのに、天はあまり歓迎してくれないな」
エルゼリンデの横に馬を寄せたアルフレッドがぼやく。確かに空はどんよりと暗く、吹く風も冷たい。
もしかしたらここから去ってしまうのを残された人々が寂しがっているのかもしれない。そんな考えが胸を過ったが、すぐにかぶりを振る。少なくともエレンカーク隊長がそんな感傷に浸るとは、まったくもって考えられなかったからだ。
「でも、雪や雨が降らないだけでもありがたいですね」
代わりに無難な返事で濁す。それはそうだなと頷いたアルフレッドが再び天を仰ぐ。
「ようやく帰れるな」
零した声音は、何事もはっきりしている彼にしては珍しくこの曇り空に似たものだった。エルゼリンデも同じように薄雲に覆われた空を見上げた。
「王都に戻ったら、絶対おまえん家行くからな」
昨日のこと。
最後の見舞いに顔を出すなり、ザイオンが口火を切った。
「……家見たらだいぶびっくりすると思うけど……」
これまでのように隠しおおせるか、不安がもたげる。それでもローゼンヴェルト将軍が来るよりはずっと気が楽なのは確かだ。
それに、とエルゼリンデは考える。
ザイオンになら告げてもいいかもしれない。自分がミルファークではないことを。むしろこれ以上ザイオンに隠し通すことが辛くなってきたのだ。ザイオンは大事な友だ。これからもずっと、嘘をついたまま付き合っていきたくない。それに、兄の――本当のミルファークのことも紹介したかった。自慢の兄だって。
「ああ、大丈夫だ。覚悟はしておく」
ザイオンがきっぱり断言する。口調は頼もしいのだがそれもそれで釈然としない。エルゼリンデは少々不服気味ながらも首肯した。
「……うん、王都に戻ったらぜひ家に来て。ザイオンに話したいこともいっぱいあるし」
もし自分の嘘が原因で嫌われたり怒られてしまっても仕方がない……悲しいけれど。
「だな。俺も色々話したいことあるし。まあその前に、お互い無事に王都に戻ることが先決だけどな」
草原には気をつけろよ、と茶化したように笑うザイオンに、彼女も「迷子にならないようにしないとね」と微苦笑を返す。
それじゃあまた王都で、と普段通りの気安さで別れの挨拶を交わし、エルゼリンデは医務室を出た。ザイオンは春になったらここを発つ予定だから、王都で再開できるのは早くても初夏になるだろう――彼と初めて会ってからちょうど1年後くらいになるだろうか。
1年後。エルゼリンデは医務室から次の目的地へ続く石廊を歩きながら思いを馳せる。王都にいた時とはすべてが違う世界を見た。あのころの自分と比べれば、少しは変わっているのかもしれない。再びザイオンに会うときには、もっと変わっているのだろうか。
――変わったのは君のほうだよ。
ふと、セルリアンの声が脳裏に反響する。あの中性的な美貌の少年とも、エレンカーク隊長の死を告げられたあの日以来顔を合わせていない。彼は今どうしているのだろうか。共に王都へ戻るのだろうか。ローゼンヴェルト将軍や同僚のアルフレッドに訊いてみてもよかったのだろうが、なぜかそれができなかった。
セルリアンに会いたいのか会いたくないのか。自分の心に訊ねてみても明確な答えは返ってこない。彼のほうも、エルゼリンデには会いたくないのではないか。そんな気もするから。
とにかく、元気でいてくれればいい。もう誰も死なないでくれればいい。
「なんだ、二人そろって辛気臭い顔してるな」
今の上官であるベッセル隊長の声に現実へ意識を引き戻される。
「ようやく帰れるってのに天気にでも呑まれたか?」
「――そうかもしれません。ゼーランディアでは、やはり色々と考えさせられたので」
応えたのはアルフレッドのほうだった。彼にしては殊勝な物言いに聞こえてしまうが、思い起こせばこの大貴族のご子息はちゃんと立場を弁えた振る舞いもできる如才なさを兼ね備えているのであった。
アルフレッドの言葉を無言で首肯すると、ベッセル隊長の目に若干の困惑が点った。この若い隊長にはエレンカーク隊長の件で少々迷惑をかけてしまった。エルゼリンデにも自覚があるから少々ばつが悪い。
「まあミルファークも色々とあったからな……」
微妙な空気になりかけた場をつないだのはアルフレッドの声だった。色々、には本当にさまざまなことが含まれるのだろう。エレンカーク隊長のことやセルリアン、そしてナスカ。彼女の上官だったレオホルト隊長にも面会はかなわなかった。ファルクに聞いた話だと、怪我を隠して戦い続けていたらしく、相当に重傷のようだ。春に戻れるかもまだ分からないらしい。どうか無事でいてほしい――優美な笑顔を思い出して、胸がちくりと痛んだ。
「またゼーランディアに戻ってくるから」
エルゼリンデはローゼマリーに力強く頷いた。いつになるのかはわからないが、必ずまた来よう。そう決意したのだ。ここにも会いたい人がたくさんいるから。
城に運び込まれた当初、世話になった女中の少女も目を輝かせる。
「ええ、ぜひまた来てください、ミルファーク様。ゼーランディアは冬はただ寒いだけですけど、春になるとチューリップの花が至るところに咲いて、とっても綺麗なんですよ」
「ちゅーりっぷ?」
聞きなれない花の名前に首を傾げる。ローゼマリーは緑眼を瞬かせた。
「あら、西の――王都の方はご存知ないのですね。この辺りではとても有名な花なんですよ。形はユリに似ていて、赤や黄色、紫など色とりどりの花を咲かせてくれるんです。ゼーランディアでは、特に白いチューリップが多いですね」
「へえ、見てみたいなあ」
エルゼリンデも一応は年頃の少女なので、きれいな、それも見たこともない花には興味を引かれる。彼女が花の話題に乗ってきたのが嬉しかったのか、ローゼマリーが鈴の鳴るような声を弾ませる。
「ふふ、チューリップは愛の花でもあるのですよ」
「……愛の花?」
「この辺りでは殿方が意中のかたに愛を告白する時、必ずこの花を添えるのですわ」
「愛を告白……」
不意に昨日のローゼンヴェルトの眼差しが甦ったものだから、エルゼリンデの顔は瞬時にチューリップに負けない赤色に染めあげられた。
「あら、ミルファーク様。もしかして花を贈りたい相手がいらっしゃるんですか?」
「えっ、ええっ!?ち、ちちちちちがいますちがうんです!」
妙な期待に目を輝かせる少女を前に、エルゼリンデはあからさまに狼狽しながら首を振る。そもそも男じゃないから花を贈る側じゃなくて貰う側だし。いや、貰いたい人とかいないけど……いないけど!
「あらあら、ではそういうことにしておきますわね」
でも今度会ったときは教えてくださいませ。可憐な笑顔を向けられ、完全なる誤解なんですと訂正できなかった自分が情けない。
「ミルファーク、どうしたんだ?」
左手怪我したのか?馬上のアルフレッドが訝しげに顔を覗き込んできて、エルゼリンデははっとした。
「あ、いや……ちょっとぶつけてしまって。全然大したことはないんですが」
無意識のうち、革のグローブ越しに左手の甲をさすっていたらしい。慌てて手を引っ込める。
「本当か?顔もちょっと赤いし、風邪でも引いたんじゃないか?」
「……あー、だ、大丈夫です。やっと王都に帰れるからか、緊張でちょっと寝つきが悪くなってしまって」
「そうか。何だか挙動不審だけど、寝つきが悪くなるとそうなるものなのか」
違うと思います。
とは言わず、曖昧な微苦笑を浮かべて誤魔化しておく。しっかりしないと、とひとつ深呼吸して背筋を伸ばす。昨日お礼と別れを告げたイェルクにも、最後まで不審の目を向けられたままだったし……
結局微妙なイェルク少年とも距離感のまま別れてしまった。ついた溜息は、しかし甲高いラッパの音にかき消された。
「出発だ」
二人のすぐそばにいたベッセル隊長に促され、彼女は愛馬の背を撫でた。
「こんな遠いところまで一緒に来てくれて、戦ってくれてありがとう。あと少しよろしくね」
小声でつぶやき、手綱を引く。馬はゆっくりと、ゼーランディア城を背に歩みだす。
はるか前方を見晴るかすと、黒色の旗がたなびいているのが見える。第一騎士団、王弟殿下の率いる部隊だ。アスタール殿下のほか、副団長のローゼンヴェルト将軍やファルク、カルステンスら世話になった面々がいるはずだ。そこにギルベルト・シュトフがいないことが、いまだに信じられなかった。シュトフの墓も訊ねてみたが、墓石もなく一般兵士と同じように埋葬されたらしい――空の棺だけで。
そして、あの夜に告げられた「殿下をよろしく頼む」の真意を聞くことは終ぞかなわなかった。
エルゼリンデはもう一度黒旗の方向を眺めた。
遠いなあ。
胸中で独り言ちて、肩を竦める。しがない子爵令嬢と名門貴族のかたがた。本来であればこれくらいの距離があって然るべきなのだ。昨日までそんな偉い人たちと普通に言葉を交わしていたことが夢のように思える。
エルゼリンデは片手を胸元に当てた。服の下に、ペンダントの存在をしかと感じる。ローゼンヴェルトから「お守り」として貸してもらったものだ。この存在が、昨日までのことが夢じゃなかったと主張している。
だんだんと城が遠ざかり、一面の草原が迫ってくる。
エルゼリンデは馬上から背後を振り返った。堅牢なゼーランディア城は薄曇りのなかで静かに佇んでいる。
また会いに行きます。それまでさようなら。
その地に眠る彼女の大切な人たちに心の中で別れを告げ、エルゼリンデは前を向く。ちょうどその瞬間、薄雲の切れ間から朝日が覗き、行く手の大地を照らした。