第10話

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 あたりはすっかりと夜の闇色に包まれている。天を振り仰げば、星の粒が一面に散らばり、月は細い爪の形。
 夜空を見上げても、エルゼリンデの胸中には不気味な風が吹き荒れていた。
 果たして、来るべきだったのだろうか。
 就寝時間後に兵舎裏の物置小屋に来い。ガージャールはそう言った。話があるとのことだったが、ロクな内容じゃないことぐらい、エルゼリンデにも見当がつく。
 行かないほうがいい。心の中でもう一人の自分が警告する。だが、行かなかったら明日が怖いのもまた事実。何を言われるか、何をされるのか分かったものではないのだ。
 誰かに相談しようにも、そんな当てなど今のエルゼリンデにあるはずもない。ザイオンとはあんな感じだし。レオホルト隊長ならきっと力になってくれるだろうけれど、変な噂が流れていることもあって躊躇してしまう。セルリアンは……何となく嫌だ。
 そんなわけで、エルゼリンデは危険を憂慮しながらも指定された場所に来ていた。
 まあ、何かあるといってもまさか命までは取られないだろう――そう思っていた矢先、暗闇の中から人影が三つ現れた。
「ちゃんと一人で来たようだな」
 薄い闇の幕越しに、ガージャールがにやりと笑うのが見える。
「……話って何ですか?」
 エルゼリンデは用心深く訊ねる。
「なあに、そんな小難しい話じゃねえ」
「そうそう。ちょっとお坊ちゃんにお願いがあるだけさ」
「お願い……?」
 男三人がにじり寄ってくるたびに、じりじりと後退する。そんな動作を繰り返しながら、エルゼリンデは眉根を寄せた。
「お前にとっちゃ、何てことねえお願いだろうからよ」
 そのときのガージャールたちの顔は、まさに下品を絵に描いて彩色したものだった。
「……何ですか?」
「いやなに、レオホルト隊長にしてるようにさ、俺たちも慰めてもらおうかと思って」
 慰める? エルゼリンデは彼の発言の真意が分からず、眉間の皺をいっそう深くする。
「あんな噂が流れてるぐれぇなんだから、ガキのくせにそっちの腕もいいんだろ?」
 そう言ってまた、下卑た一笑を送る。三人を横目に、しかしエルゼリンデは「え?」と声には出さずに呟いた。
 あの噂も、ガージャールたちが流したんではないのか?
 だけど今の口ぶりからすると、どうも彼らが火元ではないようだ。だとしたら、いったい誰が?
 エルゼリンデの思考は、そこで遮られた。


 不意に、ガージャールが彼女の前髪を掴んで自分のほうへ引き寄せる。エルゼリンデはなす術なく両膝をついてしまった。
「へへ……規律が変わってから外出すらままならなくなっちまったからな。お前にはたっぷりと解消に付き合ってもらうぜ」
 ガージャールたちが、いやらしい目つきで見下ろしてくる。
「さて、と。最初はどうするかな」
 彼らの双眸に、不気味な光が浮かび上がっている。
 エルゼリンデは総毛立った。今まで接したこともない言葉、態度、そして視線。それらすべてがいったい何を意味しているのか、これから何をされるのか、エルゼリンデの理性では考えも及ばない。
 だが、己が身の危険――それを、本能が告げている。
 エルゼリンデはとっさに両腕を伸ばし、ガージャールの膝を強く押した。彼がよろめいた隙に手を振りほどき、素早く立ち上がると男たちの間をすり抜けて走り出す。
 無我夢中だった。とにかく、一刻も早く兵舎に逃げ帰らなければ。それだけを一心に考えるも、恐怖と狼狽に揺さぶられた体は動きが鈍く、膝も震えてしまってなかなか思うように足が前に出ない。
 情けない! そう自分に一喝するも状態が好転するわけでもなく、追いついた男に背中を強く押され、勢い余って前のめりに倒れこむ。
 痛みと衝撃に顔を歪めたエルゼリンデの視界に、男たちの薄汚れた靴が飛び込んだ。
「追いかけっこはもう終わりかい、坊ちゃん?」
 揶揄する声が降ってくる。エルゼリンデは本能的な恐怖に呑まれないよう、必死に唇を噛み締める。
「ったく、お高い貴族サマは平民のお相手はできないってか」
 ガージャールは揶揄の中に棘を含めた。
「これだから貴族ってやつは嫌いなんだよ。平民から金も物も吸い上げて寄生してるだけのくせに偉そうにしやがって……だからここではよ、そういう奴らの目を醒まさせるために奴らに厳しく指導してやってたんだ。お前らと俺らと、どっちが上かってことを分からせるためにな」
 嘘つけ。権力のある貴族の前では大人しくしてるくせに。
 レオホルト隊長はおろか、彼女と同じ新兵でも有力なローデン伯爵家の子息に対するガージャールの態度を思い出し、エルゼリンデは段々腹が立ってきた。
「ところが、だ」
 ガージャールの声が、怒りと苛立ちに濁り始める。
「黒翼騎士団長が代わったおかげで規律も変わって、おおっぴらにそれもできなくなっちまった。お偉い貴族サマが平民ごときの下に立たされるのは真っ平ごめんってことだ……どこまでも俺らを馬鹿にしやがって」
 ぎり、と奥歯を噛み締める音が、エルゼリンデの耳にも届く。
「どうせお前ら貴族は平民のことを畜生としか思ってねえんだろ。表向きはいいツラで接してても、裏では見下してるんだからな。はん、いい気なもんで」
 瞬間、瞼の裏に友人たちの姿が浮かんできた。
 イゼリア家は爵位はあれど資産がないから、住居も街中、それも一般家庭の家に毛が生えた程度。おまけに貴族間での交流も薄く、自然と遊び友達は平民の子が多くなる。それゆえ、エルゼリンデの周りには平民の友人ばかりだった。
 もちろん貴族社会のマナーなどないし、読み書きすらままならない子がほとんどだ。だが皆陽気で親切で、エルゼリンデを貴族だからと差別することもない。彼女も貴族平民の別など、騎士団に入るまでほとんど考えたこともない。
 だから、許せなかった。平民は畜生だと思ってるなんて、見下してるなんて言われるのは。
 エルゼリンデの中で、何かの糸がぷつりと切れた。


「ち、違います!」
 痛みも忘れて起き上がると、彼女は決然とした面持ちでガージャールを見据えた。
「違います、そんな、見下してるだなんて! そりゃあそういう貴族だっているんでしょうけど、皆が皆そうとは限りません!」
 エルゼリンデの態度の急変に、さすがのガージャールらもあっけに取られたようだ。エルゼリンデは激昂に白い頬を赤く染め、強い口調で続ける。
「だ、だいたい、貴族がどうのこうの偉そうに言うんだったら、こんな爵位しかない私みたいな貴族じゃなくて、もっと偉い貴族に言ってあげたらどうなの? 本当に貴族の目を醒まさせてやりたいんだったら!」
 もう何を喚いているのか、当人にも分からなくなってきた。
「それに、平民は畜生だなんて、よくそんなことが言えたものね。卑下してるようだけど、あんたたち自身が平民を貶めてるんじゃない! そうやって平民を傘にしてるあんたたちが、一番卑怯だ!」
 卑怯。その言葉に、ようやくガージャールは反応を示した。怒りよりも屈辱を表情に滲ませ、エルゼリンデを睨みつける。
「てめえ……!」
 はっと我に返ったときはもう、彼に頭を掴まれて地面に倒されていた。慌てて起きようと身を捩るも、ガージャールに組み敷かれてしまう。
「二度とそんな嘗めた口利けなくしてやるぜ」
 沸騰した頭が急速に冷却される。そして自分が今どういう状況にあるかを思い出し、慄然とした。ガージャールに押さえつけられた両手首が、体中が粟立つ。
 そのときだった。もう随分と聞き慣れた声が割り込んだのは。
「何してやがる」
 びくりとガージャールの体が震え、即座にエルゼリンデから離れた。その顔は夜目にも分かるほど蒼い。
「エ、エレンカーク隊長……」
 喘ぐような呟きが、一瞬にして静まり返った空気に混じる。震えの止まらぬ半身を起こしたエルゼリンデは、彼らに近づいてくる痩身の騎士を藍色の瞳にとらえた。その手には大降りの長剣を提げている。
「もう一度訊く。何をしていた、ガージャール・トルモンゾ」
「な、何をって……そ、それはこいつが!」
 彼の目がエルゼリンデに向く。
「こ、こいつが誘ってきたんですよ…ほ、ほら、隊長も、例の噂、知っているでしょう?」
 何だって? 茫然としていたエルゼリンデは、その一言に現実へ引き戻される。取り巻きの二人も、ガージャールの言葉を強く肯定した。
「ほう、なるほどな」
 エレンカークの褐色の双眸が、すっと細まる。それはまるで、獲物を見定めた鷹そのもの。
「平民を見下す、貴族の目を醒まさせてやってる最中じゃなかったのか?」
 三人の顔が、目に見えて強ばった。エルゼリンデも目を瞠る。この隊長は、どうやらどこかで彼らのやりとりを聞いてたらしい。
 すぐ近くまで歩み寄ったエレンカークは、鞘つきの長剣で肩を叩きながら片頬だけで笑った。
「おいガージャール。てめえは平民をなんだと思ってやがるんだ?」
 世間話の域を出ない、軽い口調にもかかわらず、異様なまでの圧迫感がある。どちらかといえば小柄なエレンカークが、でかい図体のガージャールよりも一回り大きく見える。正直、エルゼリンデも腰を抜かしかけていた。ガージャールらは蒼い顔をしたまま硬直してしまっている。
「お偉い貴族サマに嫉妬や怨みをいだくのはいいが、結局やってることは弱い立場の奴を叩くだけ、単なる欲求不満の解消じゃねえか。騎士ともあろう者がみっともねえ真似してんじゃねえよ。てめえみてえな野郎のおかげで、平民出身者が余計に馬鹿にされるんじゃねえか。そいつも言ってたように、平民を一番侮辱してるのは、てめえらだ」
 ひゅっと、空気を切り裂く音。エレンカークがガージャールの眉間すれすれに剣を突きつけたのだ。
「――つまりそれは、この俺も侮辱してるってことだ」
 迫力満点に凄まれて、ガージャールは今にもへたり込んでしまいそうだった。蛇に睨まれたカエルそのものだと、エルゼリンデはほんのちょっぴりだがカエルに同情する。
「とにかく、今のは明確な規律違反。もうこれまでのような言い逃れはできねえな」
 冷酷無情に宣言され、三人の騎士は息を飲む。しかし反論の声は上がらない。
「朝、目が覚めたら処分が下ってると思え。それまでさっさと兵舎に戻って、自分の身の振り方でも考えておくんだな」
 顎をしゃくって退散を促す。三人は蒼い顔を歪めながら、一礼もせず逃げるようにその場を後にした。
 残ったのは、長剣を下ろしたエレンカークと、いまだ地べたに転がったままのエルゼリンデの二人。
 どうしたものかと考えた彼女に、エレンカークの鋭い双眸が向けられる。
「――立て、ミルファーク」
 それは、思いもしないほど静かな声音だった。

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