第11話

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 エルゼリンデはエレンカークに促され、立ち上がろうとした。
 ところが、まるで下半身に力が入らない。彼女は本当に腰を抜かしてしまっていたのだった。
「どうした?」
 エレンカークの双眸に不審の色が灯る。
「……ええと、あの…何ていうか、その……こ、腰、が」
「抜けたのか?」
「は、はい……」
 ばつが悪そうに視線を宙に泳がせる。
「ったく、情けねえ。さっき啖呵を切ったときの威勢のよさはどこへ行ったんだか」
 エレンカークは舌打ちすると、その細い腕を掴む。そのまま引きずるように何かの建物の壁へと移動し、そこへエルゼリンデを座らせた。
 なすがままにされていた彼女の隣に、エレンカークも腰を下ろす。
「あ、あの」
 エルゼリンデは思い切って声をかけた。そういえば、彼に自分から話しかけるのはこれが初めてかもしれない。
 エレンカークは横目でエルゼリンデを一瞥した。鋭い双眸が、緊張した面持ちの彼女の顔を映す。
「あ、ありがとうございます。助けていただいて」
 座った、正確に言えばへたり込んだまま、ぺこりと頭を下げる。
「別に礼には及ばねえよ。こっちだって決定的に尻尾を掴むまで黙って見てたんだからな」
 彼女から視線を外して正面を向き、エレンカークはそっけなく告げる。
 どういうことだろう? エルゼリンデは彼の返答を聞いて藍色の瞳を軽く瞠ったが、彼女がそれを訊くより、エレンカークが再び口を開くほうが早かった。
「で、だ」
 褐色の目に射抜かれ、エルゼリンデは訊くべき疑問も失って息を呑む。
「ミルファーク、お前は何のために遠征に参加するんだ?」
「何の……?」
「金か、出世か、名誉か、それとも強制か?」
 強制。それが一番近いように思えた。文官身分のイゼリア家に徴兵命令が下ったのは事実だし、拒否できなかったのもまた事実。だが、決して気乗りしなかったのかと問われれば、そうだとは言いがたい。手柄を立てればより多額の報奨金が貰えて、家計も少しは楽になるのだから。
 ということは、家族のため?
 適当な返答が見つからずに悩んでいるエルゼリンデを尻目に、エレンカークはさらに言葉を継ぐ。
「まあ、別にどれだろうが構わねえが、問題なのはお前の心構えだ」
「心構え……?」
 エレンカークの意図を察することができぬまま、日に焼けた精悍な顔を見返す。
「何にしろ、ここにいるのは遠征が終わるまでの間だけ。そう思ってんだろうが」
 ずばり図星をつかれ、エルゼリンデは「どうして分かったのだろう」という表情を全面に押し出してしまった。
「見りゃ分かる。新兵の半分以上はそういう連中だ。今回は余計にな」
 彼女の顔をちらりと見たエレンカークが、当たり前だと言わんばかりに口の端を吊り上げる。
「だがな、お前の場合、そういう態度が駄目なんだよ」
 ばっさりと切り捨てられて、エルゼリンデの中では傷つくよりも戸惑いのほうが先立った。
「で、でも本当のことですし……」
 我知らず、反論が口をついて出てくる。すると。

「この、馬鹿野郎が!」

 唐突に、怒鳴られる。間近だと迫力も倍増。エルゼリンデは反射的に身を縮こまらせた。
 エレンカークは彼女の怯えなどお構いなしに怒声を浴びせかける。
「そんな生温い考えで生き残れるか! おおかた少しの間だからって嫌がらせも我慢してきたんだろうがな、そうやっていちいち卑屈な態度を取るから、余計に連中をつけ上がらせるんじゃねえか!」
 ずきりとエルゼリンデの胸が痛んだのは、エレンカークの刃物のような怒号を恐れただけではない。隊長の厳しい指摘がどれも的を射ていたからだ。
「嫌だったら、耐えられねえと思ったなら他の軟弱なお坊ちゃんどもみてえに訓練そのものをやめちまえ。どれも中途半端にしてると、あとで痛い目に遭うのは誰でもねえ、お前自身だ」
 少しトーンダウンした低い声音。理性は痛みとともに忠告を受け容れるも、感情はなかなか納得してくれない。
 分かってる。こんな調子じゃ駄目だなんて、とっくに分かっていた。でも。


 夜風が吹く。熱を持った頬がひんやりとした。
 そこでようやく、エルゼリンデは自分が泣いていることに気がついた。そして、エレンカークもまた。
「ったく、男のくせにメソメソしてんじゃねえ!」
 男じゃなくて女です。
 決して言ってはならない一言は、何とか空気とともに飲み込んだ。代わりに、嗚咽が漏れる。
「だっ…だって、そんなこと言ったって……じゃ、じゃあ、どうすればいいんですか?」
 いったんしゃくりあげるも、一度出てきてしまった言葉は止まらない。
「変な噂は流れてるし、へっ、変なことだって、言われるし……おかげで、誰も話してくれないんです……ザイオンだって」
 ぐずぐずと鼻を鳴らすエルゼリンデの横で、嘆息する気配がした。
「堂々としてりゃいいんだよ」
 エレンカークはきっぱりと断言する。エルゼリンデは涙を流し続ける目を擦りながら、彼の横顔を見やった。
「根も葉もねえ噂も、周りの視線も、お前が潔白なら気にするな。さっきも言ったが、意識して縮こまるから、面白がって増長するんだ。連中にしてみれば、その類いの嫌がらせはな、ただの欲求不満の捌け口でしかねえ――いいか、ミルファーク」
 平生と変わらぬ厳しい顔つきで、エレンカークは小柄な部下に向き直る。鮮烈な眼差しを目の当たりにして、エルゼリンデは一瞬、泣きじゃくることすら忘れた。
「今の状況をどうにかしたかったら、強くなれ。ここは騎士団だ。戦場で殺し合いをする奴らが集まる場だ。そんな中で規律がどうだの、騎士の体面がどうだのなんて、甘っちょろい綺麗事だけじゃ通用しねえ」
 彼女は、荒々しくないが芯の強さを感じさせる声に聞き入った。
「どんなに短い間だろうがどんな理由があろうが、ここに来てやっていくなら、強くならねえとどうしようもねえんだよ。相手に優しさや温情を求める前に、まずは自分が変わることだ」
「…………」
 エルゼリンデは数回瞬きをしたあと、再び目に涙を溢れさせた。さっきのように、悲しくて悔しくて辛くて出た涙ではない。自分でもどういうわけか不可解だが、嬉しかったのだ。
「だから、いつまでも泣いてんじゃねえよ」
 一転して呆れ口調になったエレンカークが、腰のベルトに差し込んでいた布を引き抜いて、彼女の前に差し出す。どうやらこれで顔を拭けということらしい。エルゼリンデはありがたく頂戴し、両目を覆った。
「……お前を見てると、苛々すんだよ」
 涙を拭う様子を横目にしながら、エレンカークが呟いた。台詞とは裏返しに、その声がとても穏やかだったので、思わず藍色の双眸を見開いてしまう。厳格な隊長は、どこか遠い目をして話し続けた。
「騎士団入りした頃の俺にそっくりだからな。あのときはまだ13だったか」
 え? 思いも寄らなかった隊長の一言を耳にして、エルゼリンデの涙がまた引っ込んだ。
「セルスローグ領主の反乱、あれに駆り出された……っつっても11年前の、辺境で起きた事件なんざ、お前は覚えていねえだろうがな」
 確かに初耳だった。セルスローグは、南部の農村だったはず。ザイオンの故郷シュヴァルツと近かったから、彼ならば多少詳しく知ってるかもしれない。
「俺は貧農の出でな、栄養状態が悪かったのもあるが、今のお前よりもチビでひょろかったんだぜ。それもあって、討伐部隊の中でも浮いた存在だった」
 エルゼリンデはまじまじと隊長の姿を見直す。今でも痩身で小柄なほうではあるが、まさか自分より小さかったとは。現在からは到底、想像できない。
「そのせいでよく目をつけられてな。誰かをいびるのに貴族も平民もねえしな。いつだって自分より弱い相手に矛先が向かうもんさ」
 エレンカークは片頬に苦い笑みを刻む。
「まして11年前――アスタール殿下が黒翼団長に就任する前の話だからな。お前の時とは比べ物になんねえほど、散々な目に遭った。で、今のお前みてえに、最初の頃はひたすら周りの奴らの顔色ばかり窺って過ごしてたってわけだ」
 頑強な隊長にそんな過去があったなんて。エルゼリンデは驚きの気持ちでいっぱいだった。
 でも、きっとだからこそ、ああやって言えるのだろう。乗り越えた者にしか分からない重みが、言葉の端々にある。そう思い知らされるとたちまち親近感すら湧いてくるから不思議なものだ。


「さて、と」
 感慨に浸るエルゼリンデをよそに、エレンカークが立ち上がる。そうしてまた、厳しい視線が彼女の上に定まる。
「結局、お前はどうするんだ?」
 どうする? 布を握ったまま訝るエルゼリンデに対し、表情を変えずに言葉を付け加える。
「戦場に行く気があるのかどうか、だ。ないんだったら明日にでもイーヴォなり将軍なりに訴えて、やめさせてもらえ」
 エルゼリンデは返答に窮した。そんなこと、急に言われてもすぐに結論など出せるはずがない。
「わ、分かりません……」
 しょうがないので素直に答える。エレンカークは別段咎めるふうでもなく、ひょいと肩をすくめた。
「ま、すぐには出せねえか……ああ、そうだな、イーヴォのこともあるな」
 レオホルト隊長との噂を言い指しての発言だろう。彼は面倒そうに嘆息した。
「あいつには俺から言っといてやる。実直な男だが、何かに囚われると相手も周りもまったく顧みねえからな。あれだけ露骨な態度を取ってりゃ、そんな噂が立つのも当然だ」
「……?」
 エレンカークが何を憂いているのか、エルゼリンデにはピンと来ない。ぽかんとしている彼女の顔を一瞥して、エレンカークは苦笑を漏らす。
「分からねえか。なら知らねえままのほうがいい」
 戸惑うエルゼリンデをよそに、精悍な顔を引き締める。
「一日猶予をやる。もしやる気があるんなら、明日の夕食後、またここへ来い」
「……は?」
 唐突な、そして意外な発言に、エルゼリンデの目が点になる。エレンカークは鋭い目と声をさらにつり上げた。
「は、じゃねえ! 返事は!?」
「は、はひぃっ!」
 怒号に打たれ、バネ仕掛けの人形のように立ち上がったエルゼリンデは、声をひっくり返しながら返事をしたのだった。

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