第19話
王弟殿下に厳しく諭されて、エルゼリンデは途方に暮れかけた。
何だか、最近は説教されてばかりな気もするな。そう思ったが、しかしエレンカーク隊長にせよ王弟殿下にせよ、どういう理由かは不明だが、少しでも気にかけてもらえているのだから、自分はとても幸運なのだろう。
食べかけの白パンを再び齧り始めて、ふと隣を見やる。
考えてみると、こうして王弟殿下と並んで食事をしているなんて、実に奇妙なことだった。何せ身分の差からすれば、こんなふうに接近できるような人物ではないのだ。それなのに、隣の男はまるで身分差など存在していないかのように振舞っている。初対面のときも感じた鋭い威圧感は健在だが、決して不愉快なものではない。
彼が多くの人に慕われている一端が、エルゼリンデにも実感できた。
それでもやっぱり、ちょっと変な人だと思うけど、と付け加えるのも忘れなかったけれど。
「それにしても」
短い物思いに耽っていると、王弟殿下が口を開いた。
「レオホルト男爵と顔見知りということは、配属先は第三騎士団か」
その言葉に、どことなく深刻な響きが含まれていたように感じて、エルゼリンデは藍色の瞳に疑問の光を灯した。
「そ、そうです、けど…」
白パンを飲み込んでから肯くと、アスタールはエルゼリンデの顔をまじまじと見返す。次いで視線を逸らして何やら難しげな表情で黙り込む。
沈黙が長い長い行列を作っているようだ。
時間が長引くにつれエルゼリンデは段々と不審と不安が募り、居た堪れなくなってきた。間を持たせようとしても、もうあらかた食事は終えてしまったし、まさか先にこの場を離れるわけにもいかない。
どうしよう。とりあえず周囲をきょろきょろと見回してみる。すると、昼食の入っていた籠の中の、白布の包みが視界に飛び込んできた。
「あ、あの、殿下」
勇気をあるだけ結集させて、沈黙を生み出した張本人に呼びかける。
「何だ?」
アスタールはそれまでの深刻な顔つきを消し去って、平然と応えた。その包みは何か、と指さしながら問いかけると、彼はああ、と頷いた。
「開けてみれば分かる」
暗に開封を促され、エルゼリンデは包みを手にとってみた。手のひら大で、予想していたよりも重みがある。遠慮がちに包みを開くと、思わず藍色の目を瞠った。
中に入っていたのは干しぶどうの小山だった。
干しぶどうと、王弟殿下の顔を交互に見やる。食べないのか、と訊かれてエルゼリンデは勢いよくかぶりを振った。
ひとつ摘んで口の中に放ると、しゃりしゃりした食感、甘酸っぱい味と香りが広がる。自然と頬が緩むのを自覚した。美味しいものを食べると気持ちまで軽くなるから不思議なものだ。
ひとつ、またひとつと手が伸びていく。アスタールはその様子を横目で窺い、さりげなく問いかけた。
「干しぶどうは好きか?」
口内にぶどうが残っていたためすぐに声を出すことはできず、エルゼリンデは失礼かと思いながらも無言で首肯した。
干しぶどうは彼女の好物のひとつだった。とはいえ手軽に買えるものでもなく、食べられるのは年に数回程度。騎士団入りしてからも、干したイチジクや杏は出てきたが、不運にもぶどうにはお目にかかれていなかった。
「……そうか」
どことなく靄のかかった声で呟かれ、エルゼリンデは干しぶどうの山からアスタールの顔へ、慌てて視線を移した。彼はまじまじとこちらを見ていた。
「あ、す、すみません! 私ばっかり食べてしまっていて!」
またやってしまった。顔面を蒼白にしてぶどうの包みを差し出す。アスタールはあからさまに恐縮しているエルゼリンデから目を外し、声同様に不明瞭な表情で肩を竦めた。
「あいにくと、俺は干した果物はあまり好きじゃない。遠慮せずに好きなだけ食べろ」
「そ、そうですか……?」
さすが王族、気前のいいことを告げられて、また顔を下に向ける。しばしじっと干しぶどうを見つめたあと、それ以上食べることはせず大事そうに包みなおした。
「じゃ、じゃあ、これはまたあとでいただきます」
せっかくの上等な干しぶどうだ。一度にこれだけの量を食べるのはもったいないし、ザイオンやエレンカーク隊長、ナスカ、それに同室の騎士二人にも、ちょっとずつになるけどおすそ分けしよう。そう思っての発言であるのだが、
「まあ、好きにすればいいが……貧乏性だな」
王弟殿下にずばりと図星をつかれ、エルゼリンデはうっと言葉に詰まった。確かに家は貧乏なので反論はできない。
アスタールはもう一度、ぶどうの包みを懐にしまい込んでいるエルゼリンデを一瞥してから、音も立てずに立ち上がった。
「そろそろ行くぞ。あまりゆっくりしてる暇もないからな」
「あ、は、はい」
エルゼリンデも慌てて立ち上がる。頭二つ分背丈のあるアスタールは、彼女の亜麻色の頭を見下ろして、こう言った。
「……お前にはまだ訊きたいことがある。2日後の昼にまたここへ来い」
「は、はい……ええっ?」
反射的に承諾してから、我が耳を疑った。また来いって、しかも訊きたいことがあるって、どういうことだろう。冷や汗をかきながらアスタールのほうを見返すと、彼は籠を持って歩き始めたところだった。
「何してる。さっさとついて来ないとまた道に迷うぞ」
エルゼリンデは追求することもできず、数々の疑問を抱えたままその背中を追った。
突拍子もない出来事づくしだった昼間を過ぎると、また雑務が待ち構えていた。めまぐるしく右往左往しているうちに、夕食の時間も過ぎてしまったほどだ。エルゼリンデは仕方なく、何とか堅いパンと干し肉を確保して、兵舎の一室に引き返す。
結局、あれからエレンカーク隊長ともザイオンとも会えずじまいであった。正確には見かけたのだが、声をかける暇もなかったのである。
何しろ一日のうちに色々なことが押し寄せてきたので、疲労感も半端ではない。エルゼリンデは重たい体を引きずって部屋の扉を開けた。
室内には、カルステンス一人が寝台に腰かけて本を広げていた。
「今終わったところか?」
薄い水色の目が彼女に向けられる。エルゼリンデは肯くと、懐から干しぶどうの包みを取り出した。
「あの、よかったらどうぞ」
やや緊張した面持ちで差し出す。
「じゃあ、遠慮なく」
カルステンスは端整な顔を少しだけ緩やかにして手を伸ばした。すんなりと受け取ってくれたことにほっとする。実はその少し前、ナスカにも勧めたのだが、あっさりと拒否されてしまったのだ。貴族に施しなど受けるものか――彼の顔は雄弁にそう述べていた。
「そういえば、シュトフさんはどちらに?」
ぶどうを手に首を傾げると、彼の同僚は穏やかだった顔を迷惑そうに歪めた。
「どうせ街中をほっつき歩いているんだろう。放っておけ。あいつに関わるとロクなことがないぞ」
万年雪のごとく冷ややかな口調だったが、邪険な感じではない。
カルステンスは干しぶどうを二粒ばかり口にすると、再び視線を本に戻す。
「……地図ですか?」
邪魔にならないかな、と懸念しつつもエルゼリンデは本の中身が気になっていた。羊皮紙一面に描かれているのはどこかの地図であるらしい。
「そうだ。地図はいい。眺めているだけでも面白いし、戦争の準備にもなる。地形を把握しているか否かは、勝敗に直結するからな。ミルファークも機会があればまめに目を通しておくといい」
カルステンスの説明を聞きながら、エルゼリンデもついついその地図に見入った。
「これはどこの地図ですか?」
「このあたり――レークト城からフロヴィンシア城一帯のものだ。城内の図書室から拝借した」
最後の一言が微妙に引っ掛かったが、エルゼリンデは聞かなかったことにした。
「ここを出たら、次に向かうのはクートの町だな。城塞があるとはいえ、レークトよりも小さいからほとんど通過するだけだろうが」
カルステンスが地図上を指さしながら言う。
「あと、少しの間羽を伸ばせるとしたらフロヴィンシアだろう。ここは王都の次に大きな町だからな」
「そんなに大きいんですか?」
エルゼリンデは目を円くする。フロヴィンシアの名前はよく聞くが、規模までは知らなかった。そもそも、西のほうは住んでいたことがあるのである程度詳しいが、それ以外の土地には疎いのだ。
「東の王都と呼ばれているくらいだ」
抑揚のない声音で肯くと、カルステンスは分かりやすく説明してくれた。
ライツェンヴァルト王国はこの辺りでは一番広い国であるが、南北よりも東西に長く、特に東に突出している。建国当初からそうだったのではなく、領土拡張の結果だ。建国当時、西にはローデシア帝国が健在であり、北には剽悍な騎馬遊牧民族ネフカル人の国がせり出し、南にはアブハル人がいて、容易に攻め入ることが出来なかった。唯一、東だけは各公侯国が乱立している状態で、付け入る余地は充分にあった。さらに都合の良かったことに、東部は耕作に適した肥沃な平野が多い。
こうした好条件が重なって、ライツェンヴァルトを建国したヴァルト人は東方進出を図り、結果、現在の領域まで版図を拡大したのであった。
しかし、東に拡張しすぎてしまったがゆえの問題もある。王都ユーズが西に寄りすぎる形となり、必然的に王権が行き届かない地域が出てきてしまったのだ。由々しき事態を解消するため、時の王は東方進出の拠点として建設されたフロヴィンシア城に王の代理人たる総督を派遣し、王権を行き渡らせる方策を採った。それがフロヴィンシア城市の発展の礎である。
「今のところそれで上手くいっているが、フロヴィンシア総督がその気になれば、王国は西と東で分裂することになるだろうな」
「ぶ、分裂!?」
にわかに不穏な単語がカルステンスの口から飛び出したので、エルゼリンデは眉を顰めた。
「まだ王権は磐石だから、すぐにどうなるということはないと思うけどな」
彼女の不安を察したのか、カルステンスは冷静な声でそう締めくくる。
エルゼリンデは感嘆の眼差しを淡色の騎士に向けた。
「カルステンスさんは物知りなんですね」
聞き慣れない話に、中盤付近で眠くなりかけていたのは内緒にしておく。素直な賞賛を受けて、カルステンスは白皙に少しばかり苦笑を滲ませた。
「まあ、もともとは学者志望だったから」
下級貴族で大学に行く金もなかったから騎士になるしかなかった、と彼は言った。
それを聞き、エルゼリンデは兄であるミルファークのことを思い返していた。兄も学者になるのが夢だったと聞いたことがある。やはり貧乏のせいで諦めざるをえず、今は父のあとを継ぐべく官吏になるための勉強に励んでいる。
兄さんや父さんは元気にしてるかな。
エルゼリンデの心は自然とレークトからユーズへと向かっていた。騎士団に入ってから、多くの人に出会い、多くのことを知った。きっとこれからも色々と知り、学ぶのだろう。
だが、それが幸せなのか分からない。むしろ何も知らず、考えなくてもよかったあの頃が温かな光に満ちていたように感じて、エルゼリンデは思わず目を細めていた。