第20話

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 一晩明けても、エルゼリンデの心模様はなんとも複雑に濁ったままだった。
「どうした? 元気ないな」
 今日は朝からともに仕事をしていたザイオンが、顔を覗き込んでくる。
「……うん、ちょっとね……」
 はあ、と深いため息を吐き出して、エルゼリンデが返答する。どういうわけかザイオン相手だと、最近ではカラ元気を装う気もしない。
「おいおい、悩みごとか? 大丈夫かよ」
 ザイオンは赤茶色の髪をかき回すと、書類を書く手を止めて何やら考え込んだ。エルゼリンデのほうは、浮かない表情でありながらものろのろと手を動かし続けている。しかし、思考はザイオンのことから離れ、この場にいない人物へと向かっていた。
 ――好きってどういうことなんだろう。
 当然それは昨日レオホルト隊長にぶつけられた類いの「好き」のことだ。要は、恋人とか夫婦とかが懐く愛情に近いのだろう。昨夜寝台の中で悶々と考えた末の結論だ。だが、言葉で括ることはできても、自分の感情を納得させるまでには至らない。
 何で誰かを好きになったり、誰かから好きになられたりするんだろうか?
 さっぱり分からない。恋をするということがどういうことなのか、どうなってしまうのかも。
 次にレオホルト隊長に会ったとき、どんな顔をすればいいんだろう……それを考えることも、憂鬱さを増幅させる一端となっていた。
 受け容れるにせよ断るにせよ早いうちに、はっきりしておいたほうが身のためだ。王弟殿下の言葉が甦る。でも、いったい何て言えばいいのか、エルゼリンデには皆目見当もつかなかった。
 また、大きなため息の固まりを吐いて――
「おい、ミルファーク!」
「ひゃっ!?」
 ばしんと背中を叩かれて、しゃっくりのような奇声を発してしまった。横を見ると、いつの間にかザイオンが書類を片付けて立ち上がっている。
「ったく、ぼーっとしてないで返事ぐらいしろよ」
「あ、ご、ごめん……で、どうしたの?」
「今から稽古しに行くぞ」
「……え?」
 稽古? エルゼリンデが藍色の目を円くする。
「でも仕事は? もしかしてもう終わったの?」
 訊ねると、ザイオンは「終わってねえ」とあっさり首を振った。
「悩みがあるときはウジウジしてないで体を動かしたほうがすっきりするもんだって。そのほうが仕事もはかどるだろうし」
「そうかな?」
「そうだって」
 きっぱりと断言され、エルゼリンデはその提案に乗ることにした。すると、
「なに、お前らもサボるのか? じゃあ俺も一緒にサボろうかなあ」
 同じ部屋で書き物をしていたもう一人の騎士がだるそうな声を上げた。二人より十歳は年長で、名をハインリヒ・ウェーバーという。同じ第三騎士団所属の彼もまたエルゼリンデに続いて立ち上がる。
「んなわけで、ご一緒させてくれよ」
「もちろん」
 ザイオンが気さくな笑顔で返すと、三人は並んで訓練場へ連れ立った。最近は、第三騎士団内の騎士たちとも気軽に話せるようになってきたことが、エルゼリンデには嬉しい。頭上を飛び交った妙な噂や雑音を耳にすることもなくなった。
 ザイオンのおかげかな。エルゼリンデは隣を歩く少年に胸中で感謝を述べた。
 城の敷地内の外れにある訓練場でひとしきり汗を流すと、ザイオンの言ったとおり確かに頭も気持ちもすっきりとしてきた。
 ウェーバーに剣の稽古をつけてもらい、その後はザイオンとウェーバーは槍の、エルゼリンデは弓の練習だ。やはり女ゆえか腕力があまりないので、槍よりも弓を鍛えたほうがいい――以前、エレンカーク隊長にそのような助言を受けたためだ。
 と、一瞬エレンカーク隊長の顔を思い浮かべたときだった。
「おいてめえら、仕事はどうした」
 鋭い声が、三人の騎士の動きを止める。噂をすれば何とやらと言うべきか。彼らの後ろには、甲冑を着込んだ小柄な隊長の姿。
「……エレンカーク隊長! おはようございます! 今日はいい天気ですね。隊長もひと汗かきにこちらへ?」
 真っ先に口を開いたのはハインリヒ・ウェーバーだった。にこやかそうな、それでいて引き攣った笑顔を浮かべる彼が話を逸らそうとしていることは、エルゼリンデにも分かった。
「ったく、サボりやがったな」
「サボったんじゃなくて、休憩です」
 そう訂正したのはザイオンだ。しかし、
「今仕事してねえんだから、言葉は違えど同じことじゃねえか」
 にべもなく言い返される。
「そ、そういうエレンカーク隊長も、どうしてここに?」
 ウェーバーがめげずに訊ねる。さすが年の功とでも言おうか、ちょっとやそっと凄まれたくらいでは怯まないらしい。エレンカークは舌打ち混じりに答えた。
「俺は今日、見回り当番なんだよ」
 言われてみれば腰には大振りの剣を下げている。
「そういう訳だから、てめえらを見逃すことはできねえな。同じ団なら尚更だ。ほら、さっさと仕事に戻れ」
 ひらひらと片手を振って、追い立てる動作をする。ザイオンとウェーバーは不服そうだったが、これ以上強面の隊長に逆らう度胸はないようで、「分かりました」と殊勝げに返事をしてそそくさと訓練場をあとにした。突然の隊長の出現に驚いたのだろうか、またしても心拍数が上がってしまったエルゼリンデはただただ二人に流されているだけだったが。
 ところが、そのまままた元の部屋へ戻るのかと思いきや。
「……なーんかさ、いまいち消化不良って感じだな」
 頭の後ろで手を組みながら、ウェーバーがちらりと年少の二人を見やる。
「やっぱり、そう思います?」
 ザイオンも我が意を得たり、といった表情で肯いている。どうやらまだ暴れ、もとい動き足りないという意見の一致を見たらしい。
「ミルファークはどうする?」
 ウェーバーの緑色の目がエルゼリンデに向く。かすかに頬を火照らせたままのエルゼリンデは、すぐには反応できなかった。
「……ええと」
 少しぼうっとした頭を何とか働かせる。今はもう体を動かしたい気分ではなかったので、遠慮しておきます、とかぶりを振って辞退を示した。何となく、ひとりになりたいと思ったのだ。


 二人の同僚と別れたエルゼリンデもまた、エレンカーク隊長に叱られたにもかかわらず仕事に戻る気になれないで、城壁沿いの木立の合間をそぞろに歩いていた。
 何だか、最近の自分はおかしい。
 初秋の乾いた風を頬に受けながら首を傾げる。それに連動するかのように、何だか自分の周りの環境もおかしく感じられるから不思議だ。
 世の中は、本当に自分の知らないことばかりだ。エルゼリンデは浅いため息をついた。
「よう、ミルファーク!」
 少し離れたところから、彼女の心とは正反対の明るい声がかかったのはそのときだった。きょろきょろと首をめぐらせて声の主を捜すと、樫の木のたもとで片手を挙げて手招きしている黒髪の騎士が視界に飛び込んでくる。黒翼騎士団員のギルベルト・シュトフだ。隣には同僚のアルツール・ヴァン・カルステンスの姿もある。
 エルゼリンデは誘いを受けるまま、少し足を速めて彼らに近づく。濃淡の鮮やかな二人の騎士は、どうやら昼食の途中だったようだ。籠や水筒が膝元に散らばっている。
「散歩でもしてたのか?」
「は、い……!?」
 シュトフの問いに肯きかけて、エルゼリンデはぎょっと目を円くした。シュトフの日焼けした片頬には、赤い手形らしきものがくっきりと刻まれていたからである。まるで、誰かから平手打ちをされたとしか思えない。
「ど、どうしたんですか、それ?」
「もてる男の勲章だな」
 シュトフは平然と答えた。
「と、本人は言っているが実際は思わぬ反撃にあって不名誉極まりない負傷をしただけだ」
 横合いから冷静に補足したのはカルステンスである。恨めしそうに睨みつけてくる同僚をあっさりと無視した彼は、棒立ちになっていたエルゼリンデに座るよう勧め、蒸かしたジャガイモと胡桃入りのパンを持たせてくれた。
 いまいち要領を得ぬ顔でシュトフの頬をまじまじ眺めていると、カルステンスがさらにこう告げた。
「要は、痴情のもつれというやつだ」
「はあ……」
「嫌な表現をするな、お前は」
 シュトフが赤くなった頬をさすりつつ、忌々しげに吐き捨てる。
「ちょっとばかし、相手の女に寛容さが足りなかっただけだって」
「そしてお前はその倍以上、誠実さに欠けていたと」
「聞いたか、ミルファーク!」
 大げさに頭を横に振りながら、シュトフは二人のやりとりに気圧されていたエルゼリンデの肩に腕を回した。
「こういう奴なんだよ、こいつはさ。他人の揚げ足を取ることに生きがいを感じる、根暗な男だからな。お前さんも気をつけたほうがいいぞ」
 と言われても、肯くにしろ否定するにしろシュトフにがくがくと揺さぶられたため、何らかの反応を示すことはできなかったのだけど。
 当のカルステンスは眉ひとつ動かすことなく反論した。
「揚げ足を取られるお前に問題があるんだろう。シュトフは戦いはともかく言動に隙がありすぎると、殿下にも言われていただろうが」
「ちょっとくらい隙があったほうがいいじゃないか。かわいげがあって」
 シュトフは幼子のように唇を尖らせた。
「だいたいな、俺は博愛主義者なんだ。与えられる愛に平等に応えて何が悪い」
 黒髪の騎士は握った拳と語気に力を込める。
「向こうはこっちのどこに好意を持ってくれるかなんて分からないんだからな、好きになってくれてありがとうと感謝の気持ちを持つことが大事なんじゃないか。あ、野郎からの好意は別に必要としてないから感謝もクソもないけどな」
 シュトフの言い分に対して、カルステンスはあからさまに馬鹿にした眼差しを注いだが、エルゼリンデは違った。目からうろことはまさにこのことだ。
 ――そうか、感謝の気持ちが大事なんだ。
 なぜ自分を好きになったのかとか、好きというのがどういう感情なのかとか、細かいことばかり考えすぎていたのかもしれない。とりあえず、こんな自分でも好きだと言ってくれたのだから、それに感謝するべきなのだ。父さんも、常に感謝の心を持ちなさいと言ってたことだし。
 何も解決したわけではないし、これからどうすればいいのかも分からないままだ。しかしそれでも、シュトフの一言はエルゼリンデの心をかなり軽くしてくれた。
「そうですね、感謝が大事ですよね」
 エルゼリンデが至極納得した表情で相づちを打つと、シュトフは破顔一笑し、カルステンスは眉根を寄せた。
「そうそう。その意気だ、ミルファーク! なかなか筋がいいみたいだから、もちっと大人になったら俺の弟子にしてやろう」
 弟子って何の弟子だろう? それを疑問に思わなくもなかったが、肩をばしばし叩きながら笑うシュトフにつられ、エルゼリンデも晴れ晴れとした表情を覗かせる。
 ただひとり、カルステンスだけはそんな二人に呆れ返っていた。
「まさかミルファークまで、頭に風穴が開いてたとはな……」
 彼は複雑そうに呟くと、諦観を含んだため息を零したのだった。

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