第28話

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「――ナスカ?」
 エルゼリンデはその人物に呼びかけた。その声に、赤銅色の肌をした長躯の青年が立ち止まる。向けられた黒い双眸には、珍しいことにかすかな驚きの色が浮かんでいた。ナスカがどういうわけだか驚いていることに思わず瞠目するエルゼリンデだったが、当の従騎士は平生の無表情をすぐに回復させると静かに口を開いた。
「今日はお出かけでしたか?」
「あ、うん、そう……ちょっと買い物に」
 答えながら、そういえばナスカは城市に滞在中は自分の傍にいないことが多いな、と漠然と考える。行軍中はザイオンなりシュトフなり、誰かが近くにいようと付き従っていることが多いのに、どうしてだろう。
 内心首を傾げていると、従騎士は無表情に頷いた。
「そうですか」
「ナ、ナスカは今日は何してたの?」
 そのまま立ち去ろうとするナスカを、エルゼリンデは慌てて引き止める。仲良くなりたいなという望みを、エルゼリンデはいまだに諦めていなかったのだ。
「私たち従騎士には夜会明けの休みなどありませんので、仕事をしておりましたが」
 表情同様に無味乾燥とした声からは何の感情も読みとれなかったが、申し訳ない思いで胸中はいっぱいだった。自分がのうのうと街を散策しているとき、彼は長い行軍の疲れを癒すことなく働いていたのだ。それならば、常日頃傍に控えることができないのは当然である。
 謝罪の言葉が口をついて出かかるも、唇に力を込めて押し止めた。きっとそんなことを言っても軽蔑されるだけなのは分かっている。どうしたものか。エルゼリンデが言葉に迷っているうちに、
「それでは私はこれで」
 ナスカは形式的な一礼を残して、さっさと彼女の元から歩き去ってしまった。
 エルゼリンデは遠ざかる背中をむなしく見送り、嘆息する。どうにもこうにも、ナスカの前ではやることなすことすべて裏目に出ている気がする。
 こんなんじゃ、いつまで経っても仲良くできないな。またため息をついたエルゼリンデの耳に、がさりと下草を踏み分ける音が聞こえてきた。
 何気なく音の方向に首をめぐらせると。
「これはこれは、ヴァン・イゼリア殿」
「……!!」
 エルゼリンデは目を見開いて顔を強ばらせた。
 次に現れた人物もまた、見た覚えのある顔だった。身なりのいい若い騎士――それは以前バーナルディン城で遭遇した、従者を折檻していた青年である。
 騎士は軽薄な笑みを端整な顔に貼りつけ、エルゼリンデの目の前で歩みを止めた。
「元気そうで、何より」
 労りなど欠片も込められていないことは、侮蔑しきった眼差しを見れば分かる。
「……どちらさまですか?」
 エルゼリンデは声に不快と警戒の色を滲ませる。従者につらく当たっただけでなく、自分のこともなぜだか知っているとあれば当然の反応だ。
 謎の青年は口の端を吊り上げ、やや痩せた肩をおどけた仕草で上下させる。
「そう、つんけんしなくてもいいじゃないか。近いうちに未来の義弟となる者に対してさ」
 ……義弟?
 エルゼリンデはあからさまに眉を顰めた。義弟とは、すなわち義理の弟のことだ。いったいどうして、この見るからに自分より年上の男が義理の弟になるんだろうか。
 要領を得ない表情を覗かせる彼女に向かって、騎士は嫌味たらしく一礼した。
「僕の名はヘルムート・ヴァン・バルトバイム。君にとってはまた従兄弟ってことになるな」
「バ、バルトバイム伯……!?」
 まさに寝耳に水といった名前を耳にして、エルゼリンデは仰天する。バルトバイム伯はイゼリア子爵たるマヌエスの伯父、エルゼリンデから見たら大伯父に当たる人物である。伯爵は老齢ながらまだ健在だから、年齢から考えて目の前にいるのはその孫になるだろうか。
 エルゼリンデの言葉に、しかし彼は不快そうに唇を歪めた。
「知っててそう言うのなら、君はかなり嫌味が上手いんだな」
 なぜ不愉快になるのか分からずに眉根を寄せると、ヘルムートは気を取り直すかのように咳払いをした。
「……まあいい。とにかく僕としても、将来の義兄にお目にかかることができて良かったよ」
「……あの、何のことですか?」
「ここまで言ってまだ分からないのか?」
 思い切って問いかけるエルゼリンデに、彼は褐色味を帯びた金髪をかき上げて再び侮蔑の視線を向けてくる。
「この遠征から帰ったら、僕は君の妹と結婚することになるんだよ」


 驚愕から覚めるのに、しばしの時間を必要とした。
 結婚だって? 君の妹、それはつまりミルファークの妹ということであって……じ、自分のことではないか!
「けっ、けけけっ、けっこん……!?」
 この目の前の男と、自分とが結婚!? 突然告げられた衝撃的な一言に、エルゼリンデは動揺しきりだった。
「そう」
 対照的に、将来のバルトバイム伯は落ち着き払って肯く。彼の顔をちらりと窺い、エルゼリンデは息を詰まらせた。
 王弟殿下やレオホルト隊長のように群を抜いた美形ではないが、整っていると言っていい顔立ちだ。しかしその表情には薄情さと意地の悪さがありありと現れている。それに従者を平気な顔で鞭打つような男と結婚だなんて、絶対にごめんこうむる。
 嫌です! と全力で否定しかけて、今の自分はミルファークだったことをすんでのところで思い出す。エルゼリンデは拒絶の言葉を必死に飲み込んで、代わりにこう訊ねた。
「ど、どうして妹と結婚なんか……まったく初耳なんですが」
「そりゃあそうだろうな。こっちも言っていないんだから」
 平然と答えられ、思わず絶句する。ヘルムートはふてぶてしく言葉を重ねた。
「バルトバイム家がイゼリア家の娘と結婚してやろうだなんて、君の家にとっては幸運だろう? 貧しさから解放されることにもなるんだから」
 茶色の目を眇め、まだ狼狽覚めやらぬエルゼリンデを凝視する。
「僕としては、貧乏な小娘と結婚するのは本意ではないんだけどね……まあ、君を見るかぎり妹も見られたものではないというほどでもなさそうだ」
 失礼なことを次々と浴びせられ、エルゼリンデはすっかり憤ったが、体はまだ驚愕から抜け出せないままで、声となって抗議の言葉は出てこない。
 しょうがないから無言で睨みつけると、ヘルムートは鼻先でそれを笑い飛ばした。
「いくら君が足掻いたところで、こればっかりはどうしようもないからね。所詮財力も権力もない身なんだ、大人しく大事な妹を差し出すことだな」
 伯爵家の出自である騎士は傲慢に言い捨てると、踵を返してその場をあとにする。
「……」
 エルゼリンデはなす術なく立ち尽くすしかなかった。




 どうにかこうにかバルトバイム伯から放たれた言葉の衝撃から立ち直り、宿舎の部屋に帰りつくことができたのは、日が沈みかけた頃だった。
「お帰り、ミルファーク」
 ぐったりした面持ちで扉を開け、中にセルリアンの姿を見いだして、エルゼリンデはより一層、疲労と戸惑いを抱え込んだ。セルリアンはそんな彼女の姿を見て、淡い微笑を向けてくる。
「朝から見なかったけど、出かけてたみたいだね」
「うん、ちょっと城下の市場まで買い物に」
 あまり誰かと会話をする気分ではなかったが、相手に話しかけられて無碍にはできない。エルゼリンデはセルリアンの質問に素直に首肯した。
 ふうん、と呟いて、彼は俄かに表情を若干険しいものへ変える。
「もしかして、ザイオンとかいう騎士と一緒だったの?」
「そうだけど」
 どことなく不愉快そうなセルリアンに対し答えながら、エルゼリンデが怪訝な顔をする。セルリアンは可憐な口元を皮肉っぽく歪めた。
「あんな田舎貴族と付き合うのは、君のためにならないと思うよ」
 吐き捨てるように告げられる。すぐに意味を把握できなかったエルゼリンデは思わず目を瞬かせ、彼の顔を唖然と見返した。そうして、数秒遅れて言葉の意味を掴むやいなや、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。
「田舎貴族だなんて、ザイオンに失礼じゃないか」
 きっと眦を上げてセルリアンを睨みつける。だがエルゼリンデの眼光では、浮かぶ微笑にひびひとつ入れることはできなかったようだ。
「ふふ、怒った顔も可愛いね」
「…………」
 さらににこりと笑いかけられるものだから、エルゼリンデは怒りのやり場に困ってしまった。やっぱりどうも、このセルリアンなる少年は理解不能だ。
 当のセルリアンは、エルゼリンデにじっと視線を定めたまま、不意に小首を傾げた。はっきり言って少女よりも少女らしい仕草だ。
「ところで、何だか元気ないみたいだけど、どうしたの?」
 何かあった? と訊ねられたが、この貴族の少年に今しがたの出来事を正直に告白する気には到底なれるはずもない。
「……ううん、何でもない」
 ほぼ呟きに近い声でかぶりを振ると、エルゼリンデは自分の寝台に腰かけた。
「ふーん、そう。僕はてっきり」
 彼女と対面する形に座りなおしたセルリアンが、鳶色の大きな瞳をすいっと細め、含んだ口調で声を低くする。
「レオホルト隊長と何かあったのかと思ったんだけど」
「なっ……!?」
 今日のことではないが、確かにこの前「何かあった」ことをずばり言い指され、気がつけば目を円くして驚きの声を上げていた。
「ど、どうしてそれを?」
 まさかあのとき、王弟殿下のみならず彼にも盗み聞きされていたんだろうか。エルゼリンデは動転して顔を蒼ざめさせたのだが――
「やっぱり何かあったんだね」
 空々しい台詞を耳にして、ようやくカマをかけられたことを悟る。しまったと慌てて口を噤むも、時すでに遅し。
「隊長がはじめから君に好意を持ってることは、見ていればすぐに察しがついたし。まあ君の様子からするに、さしずめ思いを告げられたってところかな」
 何の根拠があってそこまで推測できるんだろう。エルゼリンデにはそれが不思議でしょうがなかったが、口には出さず、せめてもの反抗といわんばかりに押し黙っていた。
 セルリアンはそんな彼女にはお構いなしに、愉快そうに言葉を続ける。
「別に男同士だからって遠慮することはないんじゃない? それにレオホルト隊長は有力貴族の一員なんだし、愛人になっておいたほうが君の今後のためだと思うけど」
「? ……私のため?」
 少年の言葉を聞き咎めて眉を上げる。
「そう。だって君がこの遠征に参加してるのは、財務卿の失脚に連座させられたからなんでしょ?」
 エルゼリンデはまたもやぎょっとして、セルリアンの可憐な顔を見直した。いったい何故そんなことまで知っているんだろうか、まったく見当もつかない。
「ふふ。寝室では口が軽くなる人間もいるってことだよ」
 表情から疑問を読み取ったらしく、セルリアンが含み笑いをしながら答える。むろんのこと、返答を得てもさっぱり要領はつかめなかったのだが。
「ま、とにかく」
 セルリアンはおもむろに寝台から立ち上がると、彼女の前に立って頬をするりと撫でてくる。
「滅多にない機会なんだから、みすみす逃さないよう頑張ってね」
 すっかり腰の引けてしまっているエルゼリンデに、不可解な少年は妖しげな微笑を送り、そのまま部屋を出て行った。
 去り際に、「今度は黙っておいてあげるから」との一言を残して。

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