第48話

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「……盗賊だ!」
 砂塵と人馬の怒号、悲鳴、そして薄闇を切り裂く鋭い弓弦の音が、急速にエルゼリンデの華奢な体躯に圧しかかってくる。
 想像を絶する圧迫感に潰されそうになりながらも、とにかく状況を確認しなければと痛む両目を見開いてみる。北のほうから急速に迫ってくる盗賊の影は、おそらく十数人程度。だが、こちら側はというと、いつの間にか彼女の周囲には数十人の騎影しか見えなかった。
 これはいったいどういうことだろう。気づかぬうちに隊列から離れてしまったのだろうか。エルゼリンデは混乱したが、疑問を解決する時間は与えてもらえなかった。
 慌てふためき、逃げ惑う騎士が馬ごとエルゼリンデのほうへとぶつかってくる。狼狽しながらかろうじて衝突を避けるも、今度は矢の唸りが耳元をかすめる。盗賊たちが次々に矢を放っている。
 どさり。鈍い音がすぐ真横で聞こえた。
 苦痛に満ちた呻き声が、まるで地の底から響いてくるかのように、せり上がってくる。
 エルゼリンデにはそれが何を意味するのか分かっていた。同時に、理解したところで自分にはなす術がないのだということも。
 鏃が鎧を掠る。それには構わず、エルゼリンデは馬を宥めるために手綱を握りしめ、恐慌の渦中を彷徨っていた。もはや自分の耳には心臓の音しか入ってこない。
 どうすればいいんだろう。頭の中では混乱と恐怖がぐるぐると回っている。ここで死んでしまうのかもしれない。その考えがよぎった時だった。
「落ち着け! 隊列を崩すな! 矢は盾で防ぐんだ!」
 騎士の一人が放った言葉がエルゼリンデの全身を打った。そうだ、盾があったんだ。ようやくそのことに思い至り、震える指先で馬に括りつけてあった盾を取り、構える。
「勝手に逃げようとするなよ! 落ち着いて後退するんだ! 奴らの弓も強くないぞ!」
 ともにはぐれたらしい騎士たちの中には隊長格がおらず、エルゼリンデと同様に戦い慣れなどしていない者も多かったが、それでも経験者が数人いるらしい。彼らは叱咤しながらも何とか統率を取ろうと懸命に声を出す。おかげでエルゼリンデも多少冷静さを回復させた。
 しかし盗賊の不意打ちによって生じた混乱は容易には収まらない。騎士たちが動揺する隙をつき、理解できない言葉を発しながら一挙に斬りこんできた。
 一度は収束しかけた恐慌が、再び雪崩を打って押し寄せる。
 エルゼリンデは盾と手綱を握りしめるのに精いっぱいだった。逃げ惑う騎士の馬が彼女の馬にぶつかり、驚きの悲鳴を上げたのだ。暴走させないよう、手綱を力いっぱい引く。盗賊たちの動向から注意力が逸れた。
 ふと、エルゼリンデの眼前を黒い影が覆った。
 反射的に顔を上げて――藍色の目をいっぱいに見開く。
 目の前にいたのは、味方の騎士ではなく、顔の下半分が髭で覆われた盗賊の一人だった。
 盗賊はエルゼリンデと目が合うなり意味の分からない怒号を上げ、手にした円月状の刃を振り上げる。
 とっさに左手の盾を掲げ、その刃を受け止める。鋭い衝撃が腕を介して全身に伝わった。
 若干の間合いは取れたが、エルゼリンデの手には剣も弓もない。盗賊は顔を顰め、再度何事か喚きながら襲いかかってくる。

 時間が、ゆっくり流れていく。

 エルゼリンデは呆然と、わが身に落ちてくるであろう兇刃の行方を見守った。
 そして、すぐにやってくるであろう衝撃と痛みを予感して両目を閉ざす。
 だが、彼女の上に降りかかってきたのは、生温い液体と噎せ返るほどの血臭、そして断末魔だった。
 異変を察して目を開いてみると、飛び込んできたのは脇腹を槍で貫かれた盗賊が、馬上から落下する光景だった。
 何が起こったのか把握できぬまま、槍の繰り出されたであろう方向を見やると。
 ナスカがいた。
 この状況のさなかにあっても平生と変らぬ無表情で、剣を鞘から抜いている。
 彼が自分を助けてくれたのだ。すぐにその事実にたどりつく。エルゼリンデは思わず馬首をめぐらせた。
「ナ……」
「何を呑気にしているんです! 早く後退なさってください!」
 声をかけようと近づくや否や、普段からは到底想像つかない険しい表情と口調でナスカに一喝される。
 エルゼリンデは驚きつつも、口を噤んで肯いた。口内に苦い味が拡がる。彼の言うとおりに行動するしかなかった。武器を取ることさえできない自分がここにいても、ナスカの足手まといになるだけだ。
 慎重に周囲を窺い、弓矢と騒乱の渦をかいくぐって、徐々に盗賊たちから距離を置く。人数こそこちらのほうが多かったが、盗賊たちと剣を交えている騎士は少ない。
 このままだと、いずれ力尽きてしまいかねない。
 援軍を呼ぶ――というより、はぐれてしまった騎士団を捜すべきだろうか。どのくらい前から隊列を逸れてしまったのか見当もつかないし、発見できる保証もない。結局広大な草原で迷って、死んでしまうかもしれない。それでも、何もしないでいるより、少しでも自分にできることをしなければ。
 エルゼリンデが手綱を一層きつく握りしめるのと、後方から多数の蹄の音が風に乗って聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。
 新手の盗賊か!? エルゼリンデは緊張に体を強ばらせたが、それは聞き覚えのある声に打ち破られた。
「援護と救助を! 急げ!」
 薄闇の中でも鮮明な長い金髪をなびかせて、レオホルト隊長が檄を飛ばす。彼に呼応して、臨戦態勢の騎士たちが口々に雄叫びをあげながら盗賊の一団へ向かっていく。
 助けに来てくれた。
 見慣れた面々を前に、現実感を取り戻したエルゼリンデの全身から急速に力が抜けていく。と、制止の手も緩んでしまい、馬が走りだそうと身を捻る。唐突な出来事に対応が遅れ、あわや落馬の危機――と思いきや。
 横合いから腕が伸びてきて、彼女の手綱をしっかりと掴んだ。
「おら、気ぃ抜いてる場合じゃねえだろ。てめえの命ぐらいてめえでしっかり握ってろ」
「エ、エレンカーク隊長……」
 一段と厳しい表情を覗かせるエレンカークを、エルゼリンデの双瞳はしっかりと映していた。なぜか息が詰まりそうになって、慌てて深呼吸をして逃がす。エレンカークは手綱を彼女に返すと、レオホルト隊長のほうへ向かいながら部下に負傷者の救出と、盗賊を一人生け捕りにするよう指示を出す。
 援軍を前にして盗賊たちはさっさと逃亡を決め込んだらしい。戦いの熱が急速に冷めていく。
「ミルファーク!」
 半ばぼんやりと隊長の背中を視線で追っていたエルゼリンデに、また聞き慣れた声がかかる。
「無事だったんだな」
「ザイオン」
 緊張を滲ませた顔で、ザイオンがすぐ傍に馬を寄せる。
「まったく、すげえびっくりしたぜ。気がついたらお前はいないし、隊列を離れた一団が出たっていうんで、急に追っかけることになるし、来てみたら盗賊に襲われてるし…」
 彼も多少は混乱しているようだ。その説明を聞くかぎり、隊列を離れた一団に巻き込まれたのだろう。
「つうか、お前、怪我してんのか!?」
 ザイオンがエルゼリンデの顔をまじまじと見つめ、黄土色の目を瞠る。
「怪我? 別にどこも痛くはないけど」
 エルゼリンデは首を傾げた。
「だって、お前、顔とか頭に血がついてるじゃん」
「血……」
 あの時のだ。エルゼリンデの脳裏に、つい先刻起こったばかりの光景が再生される。ナスカの槍に貫かれた盗賊の返り血に違いない。
 喉から胃にかけて、冷たい塊が滑り落ちていく感じがした。黙り込んでしまったエルゼリンデに、ザイオンも何かを察知したのか「まあ、とにかく怪我がなくて何よりだな」と話を切り上げ、彼女をレオホルト隊長らのところへ誘導した。




 嵐は、本当に一瞬で通り過ぎた。しかしながら奪っていったものも多い。盗賊の襲撃によって、騎士団は7人の死者と十数人の負傷者を出す結果となった。その中で無傷だったエルゼリンデは、自分の運の良さを実感していた。
 遺体は連れていくわけにもいかず、やむなく草原に葬られた。従騎士たちの手で次々に掘られていく穴を眺めながら、エルゼリンデは居た堪れない気持ちでいっぱいだった。何もできなかったのに生きている自分と、死んでしまった人たち。その差はいったいどこで、どのように決まるのだろうか。
 それでも立ち竦んでいる時間はない。一刻も早く隊列に復帰しなければならないのだ。捜索と救援に来たのはレオホルト隊とエレンカーク隊だけで、生け捕った盗賊に道案内をさせながら第三騎士団の後を追う。
 道すがら、エルゼリンデはザイオンとウェーバーから、隊列をはぐれてしまった原因を聞いた。何でも、騎士数人が過酷な草原行に耐えかね、フロヴィンシアへ引き返そうと思ったのがことの発端だという。
「結局、彼らのほとんどは盗賊に殺されて、生き残ったのはたった一人だけどな」
 ウェーバーが顔を歪めた。同情する気もないではないが、数人の身勝手な行動で何の関係もない人間の命まで奪われたのだ。生き残った騎士も、行きつくところは一つしかない――先輩騎士は、複雑な声音で呟いた。
 つまりは、処刑されるということか。
 エルゼリンデは視線だけを動かして、問題の騎士のほうを見た。数人の騎士に囲まれているが、顔はすでに生気が失せ、虚ろな眼差しを中空に放っている。きっと何も聞こえず、何も見えないのだろう。もうすでに、彼は自分の辿る道を歩き去ってしまったのだ。
 胸が軋んだ。
 それでも、ゲオルグの時のように何としても助けたいという感情は湧きあがってこなかった。
 仕方がない。彼は自分だけでなく、無関係な人間までも死なせてしまった。だからきっと、仕方がないのだ。

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