第47話

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 見渡す限りの大草原に、エルゼリンデは言葉を失い、目を瞠るばかりだった。
 フロヴィンシア城市を北門の方向に抜けて2日。ふたつの小集落を抜けてさらに北上し、予定通りに草の海へと足を踏み入れた。この草原を東へ横断してゼーランディアへ入るルートをとる。「一番の難所」と呼ばれる乾いた大地を目前にしてエルゼリンデの周辺も、今までのどこかのんびりした空気の中に緊張感が濃くなってきていた。
 そう、いよいよ戦地へと赴くのだ。エルゼリンデとしても、いっそう気を引き締めていきたいところ――なのだが。
「大丈夫ですか」
 斜め後方から無機質な声がかかり、そちらを顧みる。常日頃から無表情無愛想の塊、従騎士のナスカが彼女の様子を窺っていた。
「うん……大丈夫」
 答える声にもため息が混ざる。誰がどう見ても大丈夫じゃないことは、本人も理解している。
「だいぶお疲れのようですので、ご無理はなさらないように」
 エルゼリンデは思わず目を瞠り、次いで口元を緩めた。口調は相変わらずだけれど、あのナスカが自分を気遣うようなことを言ってくれるなんて。
「ありがとう。気をつけるね」
 ちょっとくすぐったい気持ちで言葉を返す。
「あなたに倒れられたら、その分周りに迷惑がかかるので当然です」
 僅かに顔を顰めたナスカがことさら冷淡に言い放つも、エルゼリンデの気分に水を差すには至らなかった。
 が、しかし。気持ちは上向いても、体調がなかなかついてきてくれないのは困りものだ。
「……あー、だりい」
 大きなため息をついたところで、これまた絶不調な声が耳に入ってきた。ザイオンが疲労の色濃い顔をして馬を寄せてくる。
「ミルファークもかったるそうだな」
「うーん、そうかも」
 エルゼリンデは肩を竦めながら答え、次いで斜め前に視線を動かした。その先には、二人を疲労困憊にした原因――アルフレッドが悠々と馬に揺られている。
「にしても、何でオレたちが疲れてんのに、あいつは元気いっぱいなんだ?」
 釈然としない、と言わんばかりの口調でザイオンが呻く。エルゼリンデもその疑問に関してはまったく同感だった。
 再度手合わせを申し込まれてからというものの、出発までの短い時間で二人とも散々な目に遭った。何せこのアルフレッド、冗談として笑い飛ばせないほどの負けず嫌いなのだ。
 練習試合で負ければすかさず「もう一回だ!」の声が飛んでくる。それも二度や三度どころではない。エルゼリンデなどは夢の中まで「もう一回だ!」の声にうなされ、「勘弁してください!」と叫びながら跳び起きたこともあったくらいだ。あの時ほどセルリアンがいなくて良かったと思った日はない。
 さらにやっかいなのは、アルフレッドの腕が悪くないという点。本気で相手をすればその分疲れるし、ザイオンはともかくそこまで剣に優れていないエルゼリンデは2回に1回程度の割合で負けていたのだ。ところが、である。
「一度や二度勝ったところでは何も変わらない。僕が君よりも多く勝たないと本当に勝利したことにはならないからな」
 とまあ、こんな具合でいつまでたっても納得してくれないのだ。
 そんなこんなで二日間でみるみる疲労が蓄積されていったエルゼリンデとザイオンだったが、当のアルフレッドはというと、憎たらしいくらいに元気ハツラツなのだった。
「いかにも貴族のお坊ちゃんって感じなのにさ、どこにあんな体力があるんだか……納得いかねえなあ」
 エルゼリンデもそれにはまったくの同感であった。
「ま、でも弱音もあんま吐いてられねーな。これからゼーランディアに着くまでが一番大変だってエレンカーク隊長も言ってたことだしな」
 ザイオンは気分を現実に引き戻すかのように首を二、三度振り、眼前の草原を見据える。
 この世界の果てまで続いてるという草の大海が最大の難敵だと、二人の敬愛する強面の隊長が教えてくれたのは、フロヴィンシアを出立する朝のことだった。


「何もないのが曲者なんじゃねえか」
 草以外に何もないと以前に聞きかじっていたので、山道や湖沼地よりも楽に進めるものだと思っていたエルゼリンデの言葉に、隊長は呆れ半分ながらも説明してくれたのだ。
 まず、道に迷いやすい。行けども行けども変わり映えのしない景色が続き、目印となるものも夜空の星くらい。もちろん迷ったら終わりであるゆえ、行軍にも草原に精通した道案内は必須なのだ。
 次いで意外な強敵なのが風と砂である。壁となる障害物がないので常に吹きっさらし、風が運んでくる砂も容赦なく体に叩きつけられる。不慣れな者にとっては、命に関わる死活問題となるのだ。
「で、あとは盗賊だ。これが遭遇したら一番厄介な相手だろうな」
 一部の草原の民は、この地を往く隊商や軍隊を襲撃することで生計を立てているのだという。物資や金品の強奪が目的だが、殺害後に強奪される事例も後を絶たない。
「――とまあ、こんなところだが」
 想像以上の過酷さを知り口を噤んでしまったエルゼリンデとザイオンに、エレンカークは苦笑を向けた。
「今回は軍隊での移動だ。フロヴィンシアの目も行き届いてるからちゃんと隊列を乱さなけりゃ迷う心配もねえ。それに何よりアスタール殿下の本隊だからな、盗賊も迂闊に手え出してきやしねえよ」
 かつてのオアシス諸王に代わり「草原の道」の管理者たることが、フロヴィンシア総督の重要な役割なのだ。おまけにアスタール殿下は、13年前に当時草原で強盛を誇っていた遊牧騎馬民族ジェライルを壊滅させて以来、遊牧民の間でも「黒き覇王」と畏怖される存在なのだという。
 だから、気をつけるべきは己の注意力と体調の維持くらいなのだと、エレンカークは付言した。
「――にしても、ほんとすげえなあ。草以外何もないんだぜ」
 ザイオンが圧倒された態で呟き、エルゼリンデの意識も草原へと回帰する。
「草の海って呼ばれてるんだってね。本物の海もまだ見たことないんだけど、こんな感じなのかな」
「あー、そうなんだってな。オレも海見たことないから分かんないけど」
 乾いた風を頬に感じながら、はぐれないように馬を進める。周りをぐるっと見渡しても、どこまでもくすんだ緑色と土色の景色。確かにこれは方向感覚が失われる。
「ここで思いっきり馬を駆ったら気持ちいいだろうなあ。こんなとこに住む人間がいるのも、肯けるよな」
 ザイオンが北部に拡がるなだらかな丘陵部を見晴かして嘆息する。ただただ大自然に圧倒されるばかりのエルゼリンデも大いに肯いた。
 その日は当然ながら天幕を張っての野営となった。この近辺を住処としている遊牧民が冬を越すため西に移動するため、彼らの夏営地を使用させてもらうのが慣例なのだという。
 疲れを若干残しながらも設営の手伝いにあたっていたエルゼリンデは、ふと足元の地面が不自然に盛り上がっていることに気づいた。
「何だろう?」
 足を止めて見てみると、何かを埋めた跡がある。土の状態からして比較的最近だろう。
 ここに住んでいた遊牧民が何か宝物でも埋めていったのかな。
 少しばかりロマンチックに考えた彼女だったが、それは別の騎士の声で無残にも打ち砕かれてしまった。
「おいおい、そんな死体が埋まってるとこで立ち止まるもんじゃないぞ」
「ええっ!?」
 エルゼリンデは仰天し、思わずその場を跳び退いた。声の主――先輩騎士であるウェーバーが、肩を竦めて手招きする。
「し、死体……ですか?」
 先輩騎士のもとへ駆け寄り、こわごわと今まで立っていた場所を顧みる。ウェーバーはあっさりと首肯した。
「様子からして現地民じゃなく、うちの軍隊の誰かだろうな。野盗に襲われたか、落馬したか、病気になったか……そんなところだろうよ」
 故郷の土に帰りたかっただろうになあ。ウェーバーはそう呟いて黙祷する。落ち着きを取り戻したエルゼリンデも彼に倣って祈りを捧げた。行軍中に落命することも気の毒でならなかったが、こうしてあっけなく死んでしまうこともあるのだ。それを思うと、心が冷えていく気がした。




 色々ありつつも草原に到達した日は感動が勝ったエルゼリンデだったが、次の日にはその厳しさを肌で感じることとなった。
「いたたた……」
 エルゼリンデは口を開けずに呻くと、両目を瞬かせた。強風が唸りを上げ、砂を巻き上げる。それが体に容赦なく叩きつけられるのだ。甲冑を身に着けてはいるものの、西方諸国のように顔全体をすっぽりと覆うものではないし、継ぎ目にも侵入してくる。布を顔に巻きつけているが、ほとんど気休め程度のものだった。
 目に砂が入っても、こすることはできないのも辛い。何せ、手綱から手を放そうものならあっという間に風に煽られ、落馬してしまうからだ。つい先刻も馬ごとなぎ倒された騎士がいた。彼は無事かなと心配する気持ちはあれど、自分が置いて行かれないよう前方の騎士の背中を追うことに一生懸命だったから、どうなったのかは分からない。
「今日の天気は一段と酷いな!」
 どこかからそんな声が聞こえる。
 砂煙と太陽をさえぎる厚い雲で、誰がどこにいるのかも、今朝出発してどれくらい時間が経過したのかもまるで把握できない。ザイオンの声が聞こえないから、少なくとも彼は近くにいないようだ。
 とにかく、前の部隊とはぐれないように。霞む視界の中、エルゼリンデはそれだけを考え必死に手綱を握っていた。瞼の裏には昨晩目の当たりにした、あの土の小山が焼きついていた。死は、本当にすぐ隣にあるのだ。
 必死に前進して、どれくらいの時が流れただろうか。辺りが一層暗くなったから、日没も間近なのかもしれない。
 不意に、エルゼリンデは遠くに馬の嘶きを聞いた。
「……?」
 後方の部隊が追いついたのかと思ったが、嘶きと人間の雄叫び、そして馬蹄が大地を踏み鳴らす荒々しい音が急速に迫ってくる。
 明らかに、軍隊のそれではない。
 エルゼリンデだけでなく不審に気づいた周囲の騎士が進行を止め、音のする方角に視線を走らせる。
 嫌な予感が、腹の底から喉へとせり上がってくる。
「――てっ、敵襲! 敵襲だあああ!!」
 悲鳴が、緊迫を孕んだ空気を切り裂いた。

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