第58話

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 浴室から出ると、脱衣所の籠の中にはいつの間にか新しい服が調えられていた。今まで着ていた物がなくなっていたから、誰かが取り替えてくれたのだろう。
 服を広げて、男物であったことに少しばかり安心する。熱と疲れの引いた頭で冷静に考えてみれば、気を失って城に運び込まれて介抱された時点で、女だと露見していてもおかしくないところだったのだ。
 もし、ばれていたら。背筋が寒くなる。せっかく戦いにも生き残って、あとは帰って褒賞をもらうだけだというのに、全部水の泡と化してしまう。
 一抹ではすまない不安を抱え込みつつも、用意してもらった服に袖を通す。念のためいつも胸に巻きつけていた布が欠けているのは心許ないが、贅沢は言っていられない。それに……悲しいかな今のところエルゼリンデの体型は、少女というより少年そのものであった。
 髪はまだ乾いていないから結ばないほうがいいかな。そんなことを考えながら脱衣所の扉を開けると。
 扉のすぐ横に、女中らしき服装の少女が控えていた。年の頃はエルゼリンデと同じぐらいに見える。
 順番待ちだったのかな。風呂の外に人が立っていると思っておらず、戸惑うエルゼリンデの目の前に少女が移動してきた。緩やかなウェーブのかかった栗色の髪に緑の瞳、目が大きくて可愛らしい顔立ちをしている。
「はじめまして、イゼリア様。わたくし、この城で女中をしておりますローゼマリー・ディースカウと申します。ヴァンゲルマイヤー夫人よりイゼリア様のお世話をするよう申しつかっておりますゆえ、どうぞお見知りおきを」
 丁寧なお辞儀とそつのない挨拶。良く教育されているなあと、エルゼリンデはヴァンゲルマイヤー夫人の手腕に感心する。
「こちらこそお世話になります、ディースカウ嬢」
 ちょっとどぎまぎしつつ、エルゼリンデもお辞儀する。思えば同世代の女の子と会話するのなんて久しぶりだ。
 ローゼマリーと名乗った少女は、大きな目を更に見開いた。
「あら、ローゼと呼んでいただいて構いませんわ。私は平民身分ですので」
 挨拶よりはくだけた物言いだ。
「じゃあ、私のこともミルファークと呼んでください」
 エルゼリンデはそう返した。イゼリア様と呼ばれなれていないから、若干背中にむず痒さを感じる。自分に世話係がつくだけでも何だかむずむずする気持ちだというのに。
 ローゼマリーは緑眼を数回瞬かせ、それからにこりと微笑んだ。
「かしこまりました、ミルファーク様」
 可憐な笑顔に、同性でありながら見惚れてしまいそうになる。ぼけっとしたエルゼリンデとは対照的に、ローゼマリーはきびきびと続けた。
「それで、お食事を用意させていただきたいのですが、お部屋にお運びしたほうがよろしいでしょうか? それとも食堂で召し上がりますか?」
 エルゼリンデは僅かな間逡巡した。食堂。この流れで行くと、お風呂と同じことになる気がする。
「……じゃあ、部屋に運んでいただけますか」
 だだっ広い食堂で食事とか、きっと落ち着いて食べられる心持ちになるはずがない。
「かしこまりました。それではお部屋までご案内いたします」
 ローゼマリーは一礼し、彼女に先導して歩き始める。エルゼリンデは呆けた表情のまま後に続いた。
 まさかゼーランディア城内に部屋を用意してもらえただけでなく、食事も提供してもらえるとは。
 気を失っている間に、何がどうなってこんな待遇を受けるようになったのだろうか。ローゼンヴェルト将軍の計らいだとしても、いささかやり過ぎではないか。
 やっぱり不可解な待遇に疑念と戸惑いを抱えつつも、エルゼリンデの療養(?)生活はこうして始まった。


 4日。
 それが、平原の会戦から経った日数であった。
 戦場から帰還してこの部屋に運び込まれてから3日寝込み、ローゼンヴェルト将軍と会話してから更に1日眠っていたらしい。
 食事を終えたエルゼリンデは寝台に寝転がった。もう熱と頭痛に悩まされることもないし、何もすることがないので天井をぼんやり眺める。
 今頃みんな、どうしているんだろう。まだ戦っているのだろうか。
 脳裏にエレンカーク隊長にザイオン、アルフレッド、ナスカ、シュトフやカルステンスやレオホルト隊長といった、今まで世話になった人たちの顔が次々と浮かんでは消えていく。
 そういえば、セルリアンはどこで何をしているのか。戦い自体には参加していなかったから、他の不参加の騎士たちと同様に城内のどこかにはいるはずだが。
 捜してみようかな。あの夜の出来事もずっと引っかかっていることだし。
 昼食について訊ねに来たローゼマリーに城内を見て回ってもいいかを問うてみると、意外なほどあっさり了承の返事をもらえたので、早速セルリアンを捜しにいこうと立ち上がる。
「ただし、この区域をお出になるときは、私もお供させていただきます。ご案内できない場所もいくつかございますので」
 ローゼマリーは控えめに微笑した。
「それと――とりあえず昼食をお持ちしてもよろしいでしょうか?」
 そんなわけで、捜索と探索は昼食後になった。
 ゼーランディア城は東の国境の最前線であるから、外観も内装もほとんど要塞と変わらない。ここの前に立ち寄ったフロヴィンシア城も似たような歴史を有しているが、更に壮麗さとか絢爛さを削ぎ落とした印象を受けた。つまり、エルゼリンデの想像する「素敵な王子様のいる」お城にはあまりにも遠すぎる。
 おまけに複雑な構造になっていて、独りでうろつこうものなら迷子になっていたこと間違いなしだ。もっともそれはこの城に限った話ではないのだが。
 ローゼマリーがいてくれてよかった。エルゼリンデは半歩先をゆく女中の少女に感謝する。彼女がついてきてくれるのは、余計な場所に行かないようにという監視の意味合いが強いからなのかもしれないが、道案内としても活躍してくれている。
「ここは女性の使用人が多いんですね」
 すれ違う使用人の多くが女性であることに気づき、何気なく感想を漏らす。
「ええ、そうです。このお城で働く使用人は、戦争で父親や夫を亡くした方々がほとんどですので」
「……もしかしてローゼさんも?」
 ローゼマリーはこちらに首を向けて肯いた。
「幼い頃に父を戦争で。母がこちらで働かせていただいていたんですが、少し前に体を壊しまして。それで私が代わりにお勤めしています」
「そうだったんだ……」
 エルゼリンデはそれだけ呟くように返す。大変ですね、とか他人事のように応じる気分になれなかった。
「お母上のご容態は良くなったんですか?」
「はい、おかげさまで元気にしています」
 彼女の笑顔に、心も軽くなる。
「ところで、ミルファーク様にはどこか行きたい場所がおありなのですか?」
 広い十字路が見えてきた辺りで、ローゼマリーが小首を傾げる。
「あ、えっと、ちょっと人を捜してみようかなと思いまして。同じ部隊の人なんですけど。城内にいるはずなんですけど、どこにいるのかまったく見当もつかなくて」
「でしたら、私ではお役に立てないかもしれませんね」
 ここのお城のことは知っていても、お客様すべてを見ているわけではないので。ローゼマリーは申し訳なさそうに肩を竦める。エルゼリンデは首と片手を同時に振った。
「あ、別に緊急の用事があってとかそういうのではないので、気にしないでください。ばったり会えたらいいな、程度にしか考えていませんでしたし」
 ローゼマリーはまた肩越しに視線をくれて、愁眉を開いた。
「そうでしたか。それでは――」
「あ」
 十字路に差し掛かった彼女の左側から、突然大きな影が現れる。危ない、とエルゼリンデが引き戻そうと腕を伸ばしかけたが、
「きゃっ」
 小さな悲鳴をあげ、女中の少女はよろめき、尻餅をついてしまう。エルゼリンデが彼女を立たせようと駆け寄るも、ぶつかった相手が手を差し伸べるほうが早かった。
「申し訳ありません。大丈夫ですか?」
 声の主はローゼンヴェルト将軍だった。端正な顔に僅かな動揺の色が垣間見える。
「あ……は、はい! 大丈夫です、こちらこそ申し訳ございません!」
 将軍の手を借りて立ち上がったローゼマリーが勢いよく頭を下げる。
「いえ、私の不注意でしたから。お怪我はありませんか、ディースカウ嬢」
「は、はい、な、何ともございません」
「それなら良かった」
 耳まで赤くしているローゼマリーに素敵な笑顔を向けたあと、琥珀色の視線をエルゼリンデに移した。
「お元気になられたようで、何よりです」
「あ、ありがとうございます」
 ローゼマリーに負けず劣らず畏まって返事をする。ローゼンヴェルトは軽く首をひねった。
「どこかへ行くところだったんですか?」
「はい。所属部隊の同僚が城内にいるはずなので、会いに行ってみようと思いまして」
「そうですか。私が案内できればいいのですが、あいにく、手が塞がっていまして」
 申し訳ないと頭まで下げられて、エルゼリンデは大いに狼狽してしまった。将軍、それも第一騎士団の副団長で王弟殿下の腹心だという人物にそんな態度をとられるのは、心臓に悪いどころの話ではない。
「いえ、その、どこにいるのかもよく分かっていないので。それにローゼが付いていてくれるので、大丈夫です」
 わたわたと弁明するエルゼリンデに、ローゼンヴェルトは苦笑で応える。
「そうですか。では、また時間ができたら様子を見に伺いますので」
 典雅な礼を二人に残し、将軍は十字路をまっすぐ歩き去っていった。
 ほう、という感嘆のため息がエルゼリンデの耳に届く。ローゼマリーが頬を赤く染めたまま、うっとりと将軍の後ろ姿に熱のこもった視線を送っている。
「やっぱり素敵な方ですね」
 視線に気がついた少女がため息混じりの感想を零す。
「見た目も良くて、女性には特にお優しい紳士でいらして……高位の方でいらっしゃるのに、私のような平民出自の女中まで淑女扱いしてくださるんですもの」
 ローゼマリーの顔は、夢見る少女のそれである。確かに彼女の言うとおりだとエルゼリンデが肯くと、ローゼマリーは体ごとこちらを向いた。
「ミルファーク様は、ローゼンヴェルト様と懇意であらせられるんですね。素晴らしいですわ!」
「こ、こんい……!?」
 絶句するエルゼリンデ。興奮気味に言葉を続けるローゼマリー。
「そんな方のお世話を、人手が足りないとはいえ私などのような女中が任されるなんて! 分不相応ですが、精一杯頑張りますわ!」
 両の掌を握り締め、明後日の方向を向いて決意を固めるローゼマリーを、エルゼリンデは言葉を失ったまま見つめる。どうやら彼女は、エルゼリンデをローゼンヴェルト将軍と同じ立場に置いてしまったようだ。
「ええと、私は将軍とは単なる顔見知りなだけで、何の権威もない子爵身分でしかないんですけど……」
 ささやかな申し開きを試みるも、何かの火がついた乙女の前では強風にさらされる蝋燭でしかない。
「さあ、ミルファーク様。このローゼマリー、必ずやミルファーク様の尋ね人を見つけてみせますとも!」
 エルゼリンデは、意気込んだローゼマリーになすすべなく引きずられていくのだった。

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