第73話

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「いだだだだだだだっ」
 爽やかな朝の空気を台無しにする情けない悲鳴に、イェルク少年はため息をついて寝台へと歩み寄った。
 思いっきり半眼で覗き込むと、この部屋の一時的な主が頭を両手で押さえ込み、それはそれは悲痛なうめき声を発している。
「おはようございます、ミルファーク様」
「おっおはおは、いたたっ……おはよ、うご、いたたたっざいます」
 頭の中に大きな鐘があって、それをめちゃくちゃに鳴らされているような頭痛だ。自分の声ですら頭痛の発生源になってしまうほどの。
「お目覚めはいかがですか?」
 この期に及んでイェルクは容赦ない微笑を浮かべて見せた。が、今のエルゼリンデは彼に構っている余裕などない。
「あ、あの……いたっ! ええと、その、何で、わたしは、こんなに頭が痛くて……あいたっ、胸がムカムカ、すりゅんで、しょうか?」
 痛さと気持ち悪さのあまり噛みながら問いかけるも、品のよい従者の少年はすぐに答えなかった。二度目のため息を零しつつ、サイドテーブルに置かれたガラスのコップと水の入った瓶を手に取る。コップの底には怪しげにドロドロした緑色の液体がへばりついている。イェルクはそのコップに水を注ぎ込み、エルゼリンデの眼前に突きつけた。
「宿酔いです」
「ふ、ふつかよい……?」
 初めて耳にする単語に、目を瞬かせてイェルクの顔を見上げる。
「お酒を飲みすぎた次の日の朝に出る症状のことです」
「お、お酒!?」
 聞き捨てならぬ回答にエルゼリンデはぎょっとして頭を上げかけ、痛みに撃沈され再び枕に顔を埋める。
「お酒なんか飲んだ覚え、な、いたっ、ないん、ですけどっ」
 確かに昨日、ファルクに酒の入った小瓶をもらったことは覚えている。だが昨日は床についてから今まで寝ていたはずだ。いや、えーと、そういえば夜中に夢見が悪くていったん起きて出歩いたような気がするが、ここにこうやって寝てるということは、帰ってきて寝たかもしくは夢だったはず……
 軽く混乱するエルゼリンデに、イェルクは緑眼に冷ややかな光を含ませた。
「貴方には覚えがなくとも、アスタール様にはあるようですが」
「でっ? ……でで、でででで殿下があああああっ!?」
 思わず裏返った甲高い悲鳴を上げてしまい、自分の声の殺人的な破壊力にひとり寝台で悶絶する。
 イェルクは煩い、といわんばかりに整った顔を顰めた。
「とにかく、これ飲んで寝ててください。起きていられても鬱陶しいので」
 ずいっとコップを鼻先に突きつける。
「こ……これ、ですか……?」
 彼女はコップと少年の顔を交互に見やる。
「これです」
 さあ早く飲めと目で脅しをかけながら、更にコップを彼女の顔に近づけてくる。
「えっと、ぬ、沼の水……?」
「宿酔いによく効く薬ですよ、失礼な」
「そ、そうですか……」
 それでも疑わしげな眼差しで、コップの中身をしげしげと観察する。やっぱり、どう見ても沼で掬ってきた水にしか見えない。
「まあ、味は確かに見たままだと皆さん仰いますけどね」
「!?」
 エルゼリンデはあからさまに怯んだ。
「いや、えーと……はい。寝てればきっと大丈夫です大丈夫なはずです大丈夫だと言って下さい」
「大丈夫じゃないです」
「うぐっ……」
 ぴしゃりと跳ね返されてしまった。
「お一人で飲めないのでしたら、お手伝いしましょうか」
「お、お手伝い……いたっ、ですか?」
「はい」
 非常に珍しいことに、イェルクが朗らかな笑みを口元に刻む。エルゼリンデは幻覚かと目を疑ったほどだ。
「鼻をつまんで、無理やり流し込ませていただきます」
「じっ、自分で飲みますっ! 飲ませていただきます!」
 笑顔の裏に潜んだ黒い影を察知し、頭痛も忘れてこくこくと首を上下させる。従者の少年の手を借りて何とか半身を起こしたエルゼリンデは、呪われていそうなコップを受け取った。
 知らずと咽喉が鳴る。隣からは「早く飲め」という猛烈な威圧感が襲い掛かる。額にぷつぷつと浮き出た冷や汗は、頭痛からか恐怖からか。
 ――ええい、どうとでもなれ!
 エルゼリンデは息を止めてコップに口をつけると、一気に緑色の液体を流し込んだ。
 そして思いっきり噎せた。
「まったく、お酒なんかホイホイ飲むからこんな目に逢うんですよ」
 迷惑顔を隠そうともせずにぶつくさ呟きながらも、きちんと背中をさすってくれるあたり、従者としての勤めはきっちり果たすタイプらしい。
「あ、ありがとう、ごご、ごじゃいます……とても、げほごほ、助かりましゅた」
 ようやく落ち着いたエルゼリンデが、口内と頭と胃の不快感に涙目になりつつ礼を述べる。
「いいえ、私は『マウリッツ様に言いつけられた』仕事をこなしただけです」
 イェルクは殊更に冷たい口調で応え、エルゼリンデを再び寝台に寝かしつける。
「吐き気を催したら、そこにある洗面器をお使いください」
 彼は目線でサイドテーブルにある洗面器を指すと、足早に部屋を後にしてしまった。
「……うーん」
 ひとり残されたエルゼリンデは、痛む頭を抱えて眉根を寄せた。イェルクの話によると、昨晩自分は酒を飲み、王弟殿下の世話になったようだ。どうしよう、まったく思い出せない。
「ううっ」
 頭を抱えて呻く。痛みというより「またやってしまった」との忸怩たる思いから。
 自分はどれだけ殿下に迷惑をかけているのだろう。怖くて具体的に数えられないが、普通ならば家名存続の危機なのではないだろうか。
 王弟殿下の寛容さに感謝すべきなのか、それとも自分の運の悪さを呪うべきなのか。
 頭痛と戦いながら悶々と考え込むもむなしく、その数分後にはころっと夢の世界の門扉を叩いていたのだった。


 次に目を覚ましたのは、宵闇のヴェールが空を覆いつくす頃だった。
 ――さっきより痛くないし、胸のムカムカも治まっている。
 まずは具合の程度を確認し、それから人の気配を感じて横に視線を送る。テーブルに腰掛けた黒髪の少年が、すり鉢で何かを擂っている光景が飛び込んできた。不気味な微笑を浮かべているように見えるのは、自分の考えすぎだろうか。
「お目覚めになられましたか」
 視線に気がついた臨時従者の少年がこちらに顔だけ向けてくる。
「そろそろお薬の時間ですので起こそうと思っていたのですが、勝手に目覚めていただけて何よりです」
「お、おくすり……ですか?」
 相変わらず刺々しい口調だったが、エルゼリンデが聞き咎めたのはその物騒な単語だった。
「今朝もお飲みいただいたでしょう」
 こともなげに肯定されてしまった。
 その後の展開は推して知るべし、である。
「……お、お世話にな、なります……」
 例のごとく背中を叩いてもらい、少し楽になったエルゼリンデが項垂れ、もとい頭を下げる。
 イェルクは彼女の礼に対し、形のよい眉を顰めた。
「ですから、私は従者として当然の仕事をしているだけです。礼は無用です」
「あ、す、すみません……」
「――ですが」
 普段ならそこで話を切り上げてさっさと退室してしまうところだったが、少年は珍しく伏目がちに言葉を続けた。
「マウリッツ様から見れば、まったくの力不足だったのかもしれません」
「え……?」
 図らずも耳にしてしまった呟きに、エルゼリンデの目が円くなる。イェルクはしまった、といった面持ちで寝台から離れた。
「――何でもありません、失礼いたしました。では私はこれで」
「あ、待って、イェルク」
 エルゼリンデは反射的に、そそくさと背を向けたマウリッツの従者を呼び止めてしまっていた。
「……さん」
「……何でしょうか」
 イェルクが不審という色で彩色された顔を向けてくる。
「えっと、その、イェルクさんには、大変お世話になっています」
 それは嘘偽りない事実だった。彼に面倒を見てもらって日は浅いが、身辺の世話のほか、寝る前には必ず白湯を用意してくれたり花瓶の花を毎日変えてくれたり、寝台に香袋を忍ばせておいてくれたりと、快く過ごすための細やかな気配りをしてくれている――態度と言動はともかくとして。
 イェルクは無言だった。
「だからマウ、じゃなかった、ローゼンヴェルト閣下の信頼の厚い方なのだと思っていたのですが」
「――まさか!」
 イェルクは眉と口の端を同時につり上げた。
「私が本当に信頼を得られていたら、こんな人のところに送られたりしません」
「こ、こんな人……」
 こんな人呼ばわりにカチンと来たものの、確かにイェルクと自分とでは家柄が違いすぎるなと、どうにか自分を納得させる。
「で、ですから、私のことはこの際関係なくて」
 咳払いをひとつ。
「イェルクさんは、ローゼンヴェルト閣下の従者としてここにいらっしゃるわけですから、もし何か失敗をしようものなら、ローゼンヴェルト閣下の面子を潰すことになる訳で」
 貴族社会では、使用人の質ひとつで主人の評判が左右される、とどこかで聞きかじったことがある。
「ローゼンヴェルト閣下は、そんな役目を信頼できない使用人に与えるかたではないと思います」
 これで自分の立場がもっと高位であれば非常に説得力が増すのだが、あいにくその事実には目を瞑っていただくしかない。
「それに何より、本当に見込みがなかったり役立たずだと思われているなら、こんな回りくどい突き放し方をするかただとも思えません」
 ローゼンヴェルト閣下は優しいからこそ、きっと言いにくいことはきっぱり言ってくれるはずだ。
 エルゼリンデは断言した。もちろん断言できるほどローゼンヴェルト将軍との付き合いが長いわけではないが、この件に関しては自分の直感を信じていた。
 イェルクはしばしエルゼリンデの顔を凝視し、
「――そ、そんなことくらい貴方に言われるまでもなく分かってましたよ」
 ふいと背を向け、扉へと早足で向かう。
「か、勘違いなさらないでください。ちょっと貴方のことを試してみただけですから。ま、まあマウリッツ様に対する理解も、知能もそれなりにあるようで何よりです」
「? そ、そうですか……それはどうも」
 歩調と同じく早口で捲くし立てるイェルクに気圧されて、曖昧に答える。もう少し敏い人間であれば思わずにやつくか、小馬鹿にされてカチンとくる場面であったが、人より少々鈍いエルゼリンデには彼の態度が理解できず、微妙に取り残された気分で従者を見送る羽目になってしまった。
「……ええと、お腹空いたなあ」
 一人きりになった部屋で彼女は所在なげに呟くと、ごろんと横になったのだった。

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