第74話

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 石畳の廊下は、どこまでも果てなく続いているような錯覚を起こさせる。
「うーん……」
 エルゼリンデは廊下の奥を見やりながら、途方にくれていた。
 果たして、この先に足を踏み入れてしまってもよいものか。
 ちらりと後ろを振り返ると、嫌でも目に慣れてしまった扉が映る。今現在、自分に宛がわれている部屋。また前を向き、エルゼリンデの部屋の壁伝いに視線を奥へ走らせていくと。数十歩先にまた大きな扉が見える。
「えーと」
 何とはなしに居た堪れなくて、扉から目を背ける。
 あの不気味な薬が効いたのか、一夜明けて存外に爽やかな目覚めを満喫した彼女は、朝食を届けに来たイェルクにアスタール殿下の居場所を訊ねた。無論、一昨日の夜の非礼を詫びるためである――もっとも、何をやったのか自分の記憶にはないのだけれど、テラスで酔っ払ってたところを部屋まで運んでくれたのは事実のようだ。
 さて、彼女の質問に対する少年の答えは、非常に簡潔で、その分恐ろしいものだった。
「アスタール殿下のご自室はお隣にあります」
 ……エルゼリンデが椅子から引っくり返りそうになったのは言うまでもない。
「ああっ、どうしよう」
 今朝の出来事を思い出して頭を抱える。まさか自分が王弟殿下の隣の部屋で厄介になっていたとは。ローゼンヴェルト将軍と部屋が同じ階だったことにも衝撃を受けたが、それ以上だ。
「信じられないことに、アスタール殿下に御用があるなら直接お部屋をお訪ねになっても構わない、とマウリッツ様にも言われております」
 イェルク少年は狼狽しきりのエルゼリンデに更に追い討ちをかけてきたのだった。
 ――直接って言われても。
 しがない零細貴族の身で、あろうことか王家のお方の私室に踏み込むなど。光栄どころか心臓に悪すぎる。
 でも、今度こそちゃんと謝らないと。
 今まで図らずも、まったくこちらが意図しないでも、何度か迷惑を重ねてきたのだ。いくら殿下の心が広くても、そろそろ自分のかけた迷惑でびっしりと埋まってしまうのではなかろうか。
 で、でも、さすがに私室を訪ねるのは……
「何をウロウロされているんですか、ご自分の部屋の前で」
「ひょわっ!?」
 背後から不意打ち気味に声をかけられ、思わず変な悲鳴を上げてしまう。がばっと音の聞こえてきそうな勢いで振り向くと、臨時従者の少年が呆れ顔を彼女に向けている。
「とりあえず、邪魔です」
「……あ、ご、ごめんなさい」
 扉の前に立ちはだかっていたエルゼリンデが慌てて横に移動する。イェルクの手には白いシーツの束があるから、部屋の清掃に来てくれたのだろう。
 臨時従者の少年が、緑眼をちらりと寄越した。
「ああ、殿下でしたら会議や出立のご準備で、夜になるまでお戻りにならないかと」
「へ? あ……そ、そうですか」
 どうやら王弟殿下の部屋に行こうか行くまいか逡巡していた様子は彼にも伝わっていたらしい。
「ご夕食後でしたらいらっしゃるのでは」
「は、はあ」
 イェルクはそれだけ告げると、扉の内側に消えていってしまう。
 とりあえず、今すぐに訪ねなくてもよくなったことには安堵したが、結局のところ先送りにしてるだけだ。
「ど、どうしよう」
 エルゼリンデは天を仰いだ。視界が灰色で埋めつくされる。
「……うん、これは後回しにしよう」
 後とはいったい何時になるのか。それは敢えて考えないことにして、彼女は真逆の方向へと、足早に歩いていった。


「そういやお前、まだアルフレッドと顔合わせてないんだな」
 ザイオンの一言に、差し入れの干し杏を食べる手が止まる。
「そ、そういえばそうだった」
 許容量を超える出来事が頻発しすぎて、アルフレッドのことがすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
 だいぶ包帯の面積は小さくなり上体も起こせるようになったが、それでもまだ寝台から離れられないザイオンは、肩をこきこき鳴らしつつエルゼリンデをじろりと一瞥した。
「つうかさ、ミルファークはいったい今どこにいるんだよ? ここに来たときと同じ兵舎にはいなかったってアルフレッドの奴が言ってたぞ」
 ぎくり。
 肩が小さく震え、藍色の目が泳ぐ。
 まさか正直に、「アスタール殿下のお隣の部屋にいます」とは言えない。天地が引っくり返っても言えるはずがない。だって、エルゼリンデもどうしてそんな待遇が自分に与えられているのか、いまだに分かっていないのだから説明もしようがないのだ。
 ――いや、ザイオンになら言っても彼女の現状を丸ごと受け止めてくれるだろう。しかし、なにぶんここは人の目がありすぎる。ザイオンの体調を慮ったら、人目のつかないところに移動するのも気が引けるし。
「う、うん……ええと、その、みんなとはちょっと離れた宿舎にね」
 無難な嘘をついてしまい、良心がちくりと痛む。既に出征前からこのかた大きな嘘をつき続けている身ではあるのだが、後ろめたい気持ちに駆られてしまうのはどうしようもない。
「離れた宿舎って、お前、移動してたのか?」
「そ、そうみたい」
「……なーんか、歯切れが悪いな」
 ぎくっ。
 再び肩がぴくりと反応してしまう。
「そ、そそそそうかな?」
 今の彼女の様子を見れば、誰だって「怪しい」と思うに違いない。これでも平静を保とうと努力はしているのだが。
「う、うん、えーと、うん……私もさ、何で移ったのか、いまだに分からないし」
「ふーん……まあ、帰還の時は混乱してたし、あながち有り得ない話じゃなさそうだけどな」
 ザイオンは疑惑の念が抜け切らない瞳を向けながらも、一理あると肯いてくれる。うまく切り抜けられたかな、とほっとしかけたエルゼリンデだったが、
「じゃあ、今の宿舎はどの辺にあるんだ?」
 続いて発せられた質問に、またもや固まることになる。
「ど、どの辺!?」
「なんでそこで驚くんだよ」
「あ……いや、その何となく」
 考えてみれば宿舎を移動したと聞けば、次に場所を訊ねるのは自然な流れだろう。アルフレッドと同じ会話をしても、きっと場所を問い質される未来が容易に想像できる。
「ば、場所は……ええと、その」
 何と切り抜ければよいものか。言いよどんでいると、いよいよ本格的に怪しまれかねない。かといってザイオンを言いくるめるような嘘が自分に吐けるとは思えない。
 エルゼリンデは意を決し、声をひそめた。
「そ、それが、その……なぜか城内で」
「はあ? 城内? お前、この城の中にいるのか?」
 ザイオンが黄土色の目を瞠るのも無理はない。傷病人の療養のため開放されている区画はともかく、いくら貴族身分といえどおいそれと入れる場所ではないのだから。
 なんでそんなところに。訝かしむ僚友に、彼女は肩を竦めてみせた。
「うーん、自分でも理由が分からないんだけど、帰還の時に熱出して倒れて。その時城内で手当てしてもらってから、何だかそのままになっちゃってて……」
 登場人物を省略しているが、嘘は言っていない。
「はー……いやいや、ミルファークがそんなことになってたとはなあ」
 別の兵舎を宛がうのが面倒だったんじゃねえのか。ザイオンも肩を竦めた。
「そう。もう訳が分からなくて」
 エルゼリンデの唇から盛大なため息とともに本音が漏れる。僚友もつられて歎息した。
「しかしまあ、お前はよく厄介ごとに巻き込まれるよなあ」
 心当たりがありすぎて否定できない。
「あ、厄介ごとと言やあさ、この前の大変なことになってるとかアルフレッドが騒いでたあれはどうだったんだ?」
「……あー、うん」
 もういない従騎士の顔が浮かんできて、エルゼリンデは顔と心を強ばらせた。やっぱり何かあったのか、ただならぬ様子の彼女を見てザイオンが眉を顰める。
「色々、あるにはあったんだけど」
 話したくないわけではない。ただ、今はまだ気持ちの整理がつかないのだ。
「帰還の途中にでも話すね」
 ゼーランディア城を発つ時期は間近に迫っているが、その頃にはだいぶ落ち着いているだろう。話もしやすそうだし。そう見込んでの発言だったが、ザイオンは眉間の皺を深くした。
「あのな、オレは当分出立できないぞ」
「――ええっ!?」
 思いもよらぬ一言にエルゼリンデの声が自然と高くなる。
「見りゃ分かんだろ。この怪我じゃ、おいそれと馬にも乗れねえからなあ」
「……あ、そ、そっか」
「ま、動けねえことはないんだけどよ、他のけが人と一緒にここで冬を越してから王都に出発する予定だってさ」
 そうか、ザイオンとは一緒に帰れないのか。しかもひと冬またがなければならないとは。一抹の寂しさと不安が胸を過ぎる。あからさまに顔を曇らせたエルゼリンデを見て、苦楽を共にした僚友は苦笑を漏らした。
「んな不安がることでもねえだろ。ちょっと疲れるけどアルフレッドや、……えっと、カルステンスさんだっているんだし」
「そ、そうだけど」
「それに、前も言ったけどオレ正式に騎士団入りするって決めたから、どっちにしろ王都でまた会えんだろ」
 エルゼリンデは藍色の目を瞬かせた。
「ザイオン、騎士団に入るんだ」
「おうよ」
 彼は少しだけ照れくさそうに赤茶色の頭髪を掻き回した。
「実際に戦争に出て、色々あったし考えることも多かったけど」
 ふと、黄土色の双眸が遠くを見晴るかすように眇められる。
「やっぱオレの目標はエレンカーク隊長だからさ」
「……」
「追い越すなんて考えちゃいないけど、追えるとこまでは背中追ってこうと思ってさ」
 すがすがしさをも感じさせる少年の横顔を、エルゼリンデは凝視した。
 ザイオンは、もう前を向いている。
「お前はさ、やっぱ父親の跡を継ぐのか?」
 私は、どうなんだろう?

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