第22話

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 羊肉のピラフをじっと見下ろしているうちに、ふとお腹が減っていたことを思い出した。気がつけばお昼の鐘が鳴ってからかなりの時間が経っている。昼に何とか時間を作るべく、昨日とはうって変わって朝から必死に仕事を片付けていったので、朝食以来飲まず食わずだったのだ。空腹にもそろそろ限界が近い。
 美味しそうだな。
 羊肉とオリーブ油の芳香が漂ってくる。それにつられてエルゼリンデの腹の虫が自分の存在を大いに主張する。
 ちらりとアスタールの様子を横目で窺うと、彼は眉根を寄せた深刻な表情で何やら思索に耽っている。沈黙の多い人だな。エルゼリンデは王弟殿下の印象に、ちょっと変な人に続きその項目を付け加えていた。
 しかし、こちらを気にしていないようならば、ちょっとくらい、そう、一口二口なら食べちゃっても平気かもしれない。
 ピラフと殿下とを交互に見やったのち、そんな結論に達する。エルゼリンデはついに誘惑に負け、スプーンを手に取ってピラフを一口含んだ。見た目どおり、とても美味しい。こんなに美味しいピラフを食べるのは、生まれて初めてかもしれない。この前の昼食もそうだったが、やはり上流階級の人間は食べるもの一つ取ってみても、ひと味もふた味も違う。
 兄さんにも食べさせてあげたいなあ。エルゼリンデはしみじみとピラフを噛みしめながら家族に思いを馳せた。その間も、スプーンを持つ手が止まることはない。
 無心に頬張り続け、器の底が見え始めたとき、頬の辺りに視線が注がれているのを感じた。何気なくそちらに目を動かし――エルゼリンデは驚愕とともに我に返った。

 王弟殿下が、ものすっごく呆れた表情で、自分を見ている。

 顔面から血の気が音を立てて引いていくのが自覚できる。まずい、と慌ててスプーンを置くも時すでに遅し。
「まったく、お前は……」
 呆れをそのまま表したため息を落として、アスタールが呟く。
 「す、すみません……」
 エルゼリンデは顔を蒼くしたまま身を縮こまらせてひたすら恐縮するしかなかった。いくらお腹が空いていたからとは言え、よりにもよって真剣に考え込んでいる人の隣で暢気に食事をするだなんて、無神経にもほどがある。いつだったかザイオンに対して無神経だという評価を下したことがあったが、これでは他人のことを言える立場にないではないか。
 アスタールはそんなエルゼリンデを見やり、軽く頭を振った。諦めの表情が端整な顔に浮かんでいるのは……気のせいだと思いたい。
「そんなに気に病むことはない。お前の失礼は今に始まったことではないからな」
 つまりそれは、すでに失礼な奴だと認識されていると言うことだ。エルゼリンデは今度は別の意味で言葉に詰まってしまった。
「しかしまあ、その調子ならばあれこれと心配することはなさそうだ……見た目のわりに、いい根性をしている」
 てっきり叱責されると思いきやそんなことを告げられたので、エルゼリンデは藍色の瞳を意外そうに瞬かせた。
「そ、そうですか……? あ、ありがとうございます」
「言っておくが、褒めたわけではないぞ」
「……」
 ううっ。エルゼリンデは口を噤んで項垂れた。またもや呆れられてしまった。顧みれば、こんな状況は王弟殿下だけと限らず、今までわりと発生している気がする。特にザイオンとか。もしかしたら自分は相当に無知なのかもしれない。
 しゅんとしたエルゼリンデを一瞥したアスタールは、
「まあ、あのエレンカークが目をかけたくなるのも分かる気はするが」
 そう呟いて肩を竦めた。エレンカーク隊長の名に反応して、エルゼリンデが顔を上げる。「あの」の部分が若干強調されていた感じだが、いったいどういう意味だろう。
「彼は目上目下関係なく誰に対しても厳しいから、周りからは相当恐れられている。エレンカークと会話をするのは素手で獅子と対峙するのに等しいと囁かれているくらいだからな。気さくに付き合えるのは、色々と無頓着なレオホルト男爵くらいだろうな」
 エルゼリンデが不思議そうに首を傾げたことで了解したのだろう。アスタールがそう寸評してくれる。エルゼリンデは目を円くして聞いていた。周囲から怖がられているのは確かだが、そこまでとは。意外――と言うより心外だった。
「で、でも、下の人たちからは慕われてると思いますけど」
 気がつけば反論が口をついて出ていた。はっとして殿下の顔色を窺ったが、彼は再び広い肩を竦めただけだった。
「それは、そのとおりだろう。彼のような有能な騎士はこちらも重宝している。だが、目立つ人間にはそんな類いの評判がいくつもついているのが世の常だ。ましてエレンカークのような、若くして出世した平民は特にな」
 そんなものなのだろうか。
 アスタールの説明にエルゼリンデは釈然としない思いを味わったが、自分も少し前まで――ひょっとしたら今もかもしれないが、いわれのない噂や中傷を受けていた。こんな新米の、取るに足りない一介の騎士ですらそうなのだから、隊長格ともなれば日常茶飯事なのかもしれない。
 だけど、頭では納得してもやっぱり多少がっかりしてしまう。実際に騎士団に馴染めば馴染むほど、エルゼリンデの中にあった騎士のイメージは遠い霧の彼方に追いやられてしまう気分だ。
「……何だか、騎士ってもっとすごい人たちばかりなのかと思っていたら、そうでもないんですね」
 我知らず、嘆息とともにそんな言葉が零れ落ちる。
「騎士とて所詮は人間だ」
 アスタールは常識的な文句で切り返したあと、珍しく蒼い双眸に興味の色を滲ませた。
「それにしても、そのような台詞が出てくるとは、お前は今まで騎士にどんな心象を持っていたのか?」
 そう訊かれて、エルゼリンデはにわかに遠ざかってしまった思い出を引っ張り戻した。
「えっと……こう、堂々としてて紳士的で、優しくてとても立派なのかと」
 エルゼリンデの脳裏に浮かんでいたのは、幼い頃に出会った騎士の姿である。
 そこでふと、エルゼリンデは隣の王弟殿下をこっそりと見やった。彼は現黒翼騎士団長だ。ならば、ひょっとしたらあの騎士のことも何か知っているかもしれないではないか。
「……あの、殿下」
 淡い期待を込めて、アスタールに呼びかける。
「殿下は、この国の騎士のことを色々と知っていますか?」
 アスタールはちょっと眉を顰めた。
「知らなかったら問題だろう……それがどうかしたか?」
 とある騎士を捜している、とエルゼリンデは告げた。すると、アスタールが少しばかり顔色を変えて彼女の顔をまじまじと見つめてくる。
「どういうことだ?」
 とは言ったものの、いきなりおかしなことを訊ねられて訝っている様子ではない。エルゼリンデは妙な居心地の悪さを覚えつつ、アスタールの疑問に答えるべく口を開いた。
「じ、実は昔、今言ったみたいな騎士の方にお会いしたことがあって。ええと、それで、殿下ならもしかしたらご存知なんじゃないかと思ったので……」
 不可思議な威圧感に気圧されて、しどろもどろな説明をする。詳しく話してみろ。続けてそう言われ、エルゼリンデはひとつ深呼吸をしてから改めて説明しなおした。リートラントに住んでいた頃、たまたま近くを通りかかったらしい騎士に会ったこと。しばらく近辺に滞在していたようで、遊んでもらったりと色々面倒を見てもらったこと。とても優しくて格好良かった人だったこと……などなど。
「なるほど」
 断片的な思い出話を根気強く聞いてくれていたアスタールが、静かな口調で頷く。そしてエルゼリンデに蒼い瞳を向けて、ごく単純な質問を口にした。
「で、その騎士の名は?」
「な?」
 エルゼリンデはきょとんと首を傾げる。あの騎士の名前を記憶の底から掬い上げようとして、僅かに眉根を寄せた。
「えええっと……」
 ――そ、そういえば、何て名前だったっけ……?
 気まずさが背中を駆け上り、白い頬には冷や汗が一筋。殿下からの視線もちくちく刺さってくる。
「覚えてないのか」
 うっ。ずばっと図星をつかれて、エルゼリンデは返答に窮してしまった。しかたなしに無言で首肯する。アスタールはため息をついて、さらにこう訊ねた。
「外見の特徴なり年齢なり、何か分かることは?」
 またまたエルゼリンデは考え込んだ。年齢は、父より結構上に見えたから、40代後半から50代くらいだったのだろうか。顔立ちや髪と瞳の色に至っては、まるで思い出すのを邪魔するかのように、ぼやけてしまっている。
 こうしていざ細かい記憶を掘り起こしてみると、何もかもが曖昧でほとんど憶えていないことにエルゼリンデは愕然とした。いくら7歳か8歳のときとはいえ、もう少し記憶していてもいいものではないか。
 アスタールの問いに口を閉ざしたまま首を振ると、彼は再び嘆息した。呆れが半分、諦めが半分といった殿下の表情を窺い、エルゼリンデは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。自分から持ちかけておいてこの体たらくとは、本当に情けない。
 がっくりと肩を落としたエルゼリンデに、アスタールが声をかける。
「……とりあえず念のため訊いておくが、当時、その騎士のこと以外でほかに覚えていることは?」
 嫌味でも慰めでもない、予想の斜め上をいく問いかけに、エルゼリンデは失意も忘れて藍色の双眸を瞠った。
「……ほか?」
「そうだ」
 アスタールはどことなく詰問調で肯く。
 ほかって言われても。エルゼリンデは目に見えて困惑した。何せ当の騎士のことすらおぼろげなのだ。騎士と出会って、色々と遊んでもらったりして――そうだ、馬に乗ったのもそのときが初めてだった――結果、騎士へのかすかな憧れを幼い胸に宿した。記憶に刻まれているのはそれくらいである。
「……特に何も覚えてません……」
 自分でもはっきり分かるほど情けない表情を覗かせて答えを返す。アスタールはちょっと怖い顔で彼女を見据えた。
 あまりの迫力ぶりに目を合わせることもできず、ひたすら萎縮していると、額に軽い衝撃が走った。アスタールがぺしっと彼女の額を軽くはたいたのである。
 そして一言、
「この、鳥頭が!」
 怒声を浴びせると、籠を手にして足早に立ち去ってしまった。
 一人取り残されたエルゼリンデは、茫然と固まったままだ。
 お、怒られた? どどどど、どうして? それより鳥頭って? 鳥…鳥の頭? 鳥みたいな頭? どういうこと?
 食べかけのピラフの器を抱えたまま思考を混乱させるエルゼリンデに応えたのは、涼しい微風だけだった。


 その後。
「……ねえザイオン、私の頭って鳥に似てると思う?」
「はあ、鳥? ……お前、大丈夫か? 熱でもあんじゃねえの?」
 いやに深刻な顔で的外れな疑問をぶつけ、ザイオンを困らせるのはまた別の話である。

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