第30話

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 ……ええっと。
 エルゼリンデはぶどう酒の入った木のコップを両手で握り締めながら、戸惑うように首を傾げるばかり。フロヴィンシア城から少し下った一角にある酒場。夜半を過ぎても賑わいの衰えない酒場のカウンターの奥詰まりに、エルゼリンデはどういうわけだか座っているのであった。
 隣をちらりと横目に窺う。何度か繰り返した動作だったが、目に映るのはやはり、どこか憮然とした表情でグラスを傾けているエレンカーク隊長の姿。
 ちょっと付き合え。そう言われたときは久々に稽古でもするのかと身構えていたのだが、隊長の背中を追うままたどり着いたのはまさかの大衆酒場。エレンカーク隊長の予想外の行動と意外すぎる場所とに唖然としっぱなしで、今に至るわけだ。
 何かあったのかな。
 視線を隊長の横顔からぶどう酒の水面に落としながら、漠然と考える。何だか、いつものエレンカーク隊長とは様子が違って見える。
「……」
 ぶどう酒を一口含んでから、エルゼリンデは意を固めて顔を上げた。
「あの、隊長」
 エレンカークの褐色の双眸が、自分のほうを向く。エルゼリンデは一瞬、口を噤みかけた。
「……えっとその……そ、そういえば、見回りはいいんですか?」
 何かあったんですか? と訊こうとしたものの、いざその鋭利な眼差しに射竦められると、ささやかな決意などたちまちに霧散してしまうものだから不甲斐ない。
 隊長はグラスを下げ、ついでに肩も僅かに下げて答えた。
「当番はとっくに交代だ。それにいくら何でも、朝から晩までずっと見回りしてるわけねえだろうが」
 言われてみれば確かにそうだ。納得しているうちにエレンカークがまた口を閉ざしかけたので、
「あ、あと、こんな時間に城を出ても大丈夫なんですか?」
 エルゼリンデは慌てて次の質問を放っていた。重たく気まずい沈黙が続くのはできることなら避けたいところだったし、このことも大いに気にかかっていたことである。王宮での訓練時には、夜間の城下への外出は厳禁だったはずだが。
「別に、んな心配することでもねえよ。じゃなけりゃ、フロヴィンシアに長期間留まる意味もねえだろうが」
 やや呆れたような口調で、隊長はかぶりを振る。だがエルゼリンデにはいまいちぴんと来ない。
「軍隊では当然、略奪や暴行は禁じられてることはお前でも知ってるだろ。それを守らせたいなら、このくらいの息抜きは大目に見られるもんなんだよ」
「はあ」
「……まあ、お前をこんなところに連れ出すのはまだ早え気もするがな」
 エレンカークはグラスを傾けつつ、片頬に皮肉げな笑みを刻む。
 まだ早い。そう言われて周囲を見回してみると、自分と同じくらいの年頃の少年もちらほらと見かける。やっぱりまだまだ一人前扱いされていないことを暗に思い知らされて、エルゼリンデの胸がちくりと痛んだ。それを押し流すように、隊長に倣ってぶどう酒を咽喉に流し込む。先日夜会で口にしたものより遥かに酸味が強くて、思い切り渋い顔をしてしまった。
「お前は見てて飽きねえな」
 一部始終を見ていたらしいエレンカーク隊長にも笑われて、エルゼリンデは羞恥と酔いとで白い頬を真っ赤に染める。
「思ってることがそのまま顔に出るからなんだろうが、その辺がお前の長所であり短所でもあるんだろうな」
「そ、そうなんですか?」
 赤ら顔のまま、自分の頬を両手で押さえる。今までの少ない経験からも「自分は分かりやすいんじゃないか」と薄々感づいていたのだが、本当にそうだったとは。
 一気に難しい表情になったエルゼリンデを見やり、エレンカークは肩を竦めた。
「……今日ここへ来たのは、ま、たまには酒を飲みたくなるときもあるってことだ――胸くそ悪い殺しをしたあとは余計にな」
 エルゼリンデは瞠目して、隣の隊長をまじまじと見返した。エレンカークはもうこちらを見てはおらず、ほろ苦い表情で酒を呷っている。どうやら何かあったのでは、との懸念もこの将来有望な隊長にはお見通しだったらしい。
 それにしても、胸くその悪い殺しとは、夕刻の脱走未遂事件を指してのことだろう。エレンカーク隊長の手に握られた、鮮血滴る刀身を何気なく思い返し、エルゼリンデは少しだけうそ寒さを感じた。
「……どうして脱走なんてしようと思ったんでしょうか?」
 変な気分を振り払うように、首を傾げて訊ねかける。脱走騒ぎがあったのは今日に限った話ではなく、行軍中もわりと見られた出来事である。おかげで監視もかなり厳しく、見回りが下っ端の騎士だけでなく隊長クラスの騎士まで担当しているのもそれが原因だと聞く。軍からの脱走には厳罰が科せられているし、危険を冒してまで脱走を試みる気持ちが、エルゼリンデにはいまいち掴めないのだ。
「そりゃあ、一番の理由は戦場に行くのが嫌だからだろうな」
 エレンカーク隊長の回答は簡潔で明快だった。
「皆が皆、自分から志願して遠征に来てるわけじゃねえからな。仕事を持ってる奴ら、特に農村の人間なんざ、これから繁忙期って時期に徴兵されるのは大きな痛手だ。戦争に行けば当然死ぬかもしれねえし、何より今回の遠征はひときわ長い」
 だから、こと農民の脱走はいつの戦争でも多く、おまけに備蓄用の食糧や家畜も一緒に強奪していく例があとを絶たないのだと、エレンカークは眉根を寄せて語った。
「じゃあ、さっきの騎士も農民だったんですか?」
「……いや。あいつらはどこぞの貴族の子弟だったみてえだな」
「貴族が?」
 エルゼリンデはまたも藍色の瞳を円くする。貴族が必ずしも良い行いをするわけではないのはこの前のバルトバイム伯爵家の孫を見ても明らかだが、さすがに脱走は家の面目を潰しかねないことではないか。
 どうしてそんなことを? エルゼリンデの頭の中に疑問符がいくつも浮かび上がる。
「詳しい動機は調査中らしいが、多分理由は一緒だろうさ。まあもっとも、もっと切羽詰った理由があったのかもしれねえけどな」
 エレンカークは苦々しく呟くと、カウンターの奥にいる酒場の従業員に追加の酒を注文する。
「切羽詰った理由……」
 それはいったい何だったんだろう。まだ半分以上残るぶどう酒を見下ろして、エルゼリンデは内心で首をひねった。そうまでして戦場に行きたくない理由があるのだろうか。
「戦争はいいもんじゃねえよ」
 新たなグラスを手にした歴戦の騎士が、ぽつりと零す。
「俺も騎士として、自分の仕事には誇りを持ってるがな、できればしねえほうがいいって言うのもよく分かる。それに俺は、根が臆病だからな」
「え?」
 エルゼリンデはわが耳を疑った。あのエレンカーク隊長が――勇猛果敢で獅子と譬えられ、いずれ将軍になるとまで目されてる凄腕の騎士が、臆病?
 あからさまに信じがたいという顔をするエルゼリンデに、彼は片頬だけで笑ってみせた。それから不意に、どこか昔を思い返すような遠い目をする。
「初めて戦場に立ったときのことは、今でもよく憶えてるな。領主の反乱軍との小競り合いだった。俺は先輩の騎士のケツに引っ付いて、ただおろおろしてただけだったが――」
 エレンカーク隊長は、グラスの酒を半分ほどに減らしてから続けた。
「反乱軍の兵士に斬りかかられてな、気がつきゃ持ってた剣を無我夢中で振り下ろしてた。それが初めて人を殺した瞬間だったが、それからしばらくは思い出す都度うなされてたぐらいだからな」
 エルゼリンデは隊長の顔を見つめたまま、じっと話に聞き入っていた。
「正式に騎士団入りしてからも多くの人間を斬ってきたが、今でもあのときの感触や断末魔は忘れられねえ」
 エレンカークはその言葉を落とすと、グラスを一息で空にする。自嘲に彩られた顔を目の当たりにして、エルゼリンデは居た堪れなくなった。
「……でも、隊長はやっぱり強いと思います」
 強靭だと思っていた隊長の意外な一面には、確かにすごく驚いた。だけどそれは決してエレンカークの強さを損なうものではなかった。むしろ、酒の力が大きいとはいえ違った側面を見せてくれて嬉しいくらいだ。
 部下の、やたらと確信のこもった言葉にエレンカークは褐色の双眸を軽く瞠ったが、すぐににやりとした。
「俺が強いと言うなら、そりゃ持たない者の強さだ」
「持たない者?」
「親兄弟は11年前の反乱で亡くしてるし、俺には失って困るもんは自分の生命ぐらいしかねえ」
 それと強さとに、どんな関係が? エルゼリンデはまたも首を傾げたが、しかしエレンカーク隊長が次に口にしたのは、その答えではなかった。
「だからだろうな。俺にとっちゃ、お前は危うい反面、羨ましくも見える」
「……?」
 羨ましい? 自分が?
「え……ええええ?」
 驚愕のあまり声が上擦る。エルゼリンデは何度も瞬きをしながら、エレンカーク隊長の表情を凝視した。
「何もそこまで驚くことでもねえだろ」
 爆弾発言をした張本人は、苦笑というより呆れた顔で、愕然としているエルゼリンデを一瞥する。
「だ、だって……」
 いくら何でも、隊長ともあろう人物が、自分のような頼りなさそうな新米騎士を羨ましく思うなどありえないではないか。
 狼狽するエルゼリンデをよそに、エレンカークは悠然とグラスを傾けて、小さく微笑した。
 大人になりゃ分かるさ、と。




 部屋に帰りつくと、着の身着のまま寝台に倒れこんだ。
 ザイオンと市場に出かけたこと、バルトバイム伯の孫との結婚話や脱走騒ぎ、そしてレオホルト隊長とのこと……一日のうちに色々なことがありすぎて、心身ともに疲労に押し潰されてしまいそうだった。
 ぐったりしつつも、目だけを動かしてもうひとつの寝台を見る。夜も更けているというのに、寝台は空だった。昨日もそうだったし、セルリアンはこんな夜中にどこへ行っているんだろう――そんな疑問が脳裏を掠めたが、疲れすぎていて考える余力は残っていない。
 ――大人になれば、かあ。
 エルゼリンデは先刻の隊長の台詞を反芻しながら、毛布を頭まで被って目を閉じた。
 今の自分には、分からないこと、処理しきれないことが多すぎる。だからといって、大人になった自分というのもまったく想像できない。
 茫漠とした不安と、早く大人になりたいという焦燥にも似た気持ちとがエルゼリンデの胸中でせめぎあっていて、その夜は疲れているはずなのになかなか寝付けなかった。

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