第32話

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 しばらくの雑談が続き、おまけにローゼンヴェルト将軍に昼食までご馳走になったあとのこと。シュトフは別の用事があるからと賑わいを深める街中へと消えていき、将軍とカルステンスは引き続き王弟殿下の捜索を続けるということで二人の新米騎士と別れた。
 とりあえず城内に帰るため歩き出したところで、ザイオンは体に溜まった緊張を追い出すように深々と息を吐き出した。
「なんつーか、ローゼンヴェルト将軍に会えて光栄な反面、心臓に悪い気分だったなあ」
 エルゼリンデは浅く肯いたものの、個人的には心臓に悪いと言うよりも何だか妙な気分だった。
「でも、偉い人なのに結構気さくだったね」
「それはあるな。おまけに全然猛将っぽくもなかったし」
「猛将?」
 温和な顔つきの将軍と結びつきそうもない単語だ。わが耳を疑ったエルゼリンデが訊き返す。
「やっぱお前もそう見えないだろ?」
 彼女の表情を見て、ザイオンはにやりと目を細めた。
「戦場では人が変わるって噂だぞ……ああ、でもああいうタイプは怒らすとすっげえ怖そうだな。うちのお袋みたいにさ」
 そう言って、母親のそのさまを思い出したのだろうか、ザイオンの顔が少しうそ寒いものに変わる。
「ザイオンのお母さんは怒ると怖いんだ」
「おう、そりゃもう角や牙が見えるくらいだぞ。ミルファークんとこは? まあ、お前を見てるかぎり、あんま怖そうじゃない感じだけどな」
 自分の母親の話を振られ、エルゼリンデは珍しく翳りを含んだ微笑を返した。
「……うん。怒鳴られたりしたことは一度もなかったな」
 少々迂遠な言い回しをしてしまったが、明敏なザイオンはその意味するところをすぐさま察したようだ。
「……あ、そーか。悪い」
 ばつの悪い表情をする僚友に、エルゼリンデは即座にかぶりを振る。
「気にしないで。もう8歳のときの話だし」
 明るい口調で答えつつ、エルゼリンデの脳裏には母親の死んだときのことがおぼろげに甦っていた。
 母はエルゼリンデが8歳になったばかりのころに亡くなった。病死だった。当時のことは、実はほとんど記憶にない。ずいぶん悲しんで毎日のように泣きあかしていたと兄は言っていたが、そのせいで母が亡くなる前後の記憶が曖昧なのかもしれなかった。なんせ、気がついたときには王都ユーズに引っ越していたのだから。
 そのとき不意に、目の醒めるほどのオレンジ色が視界に飛び込んできて、エルゼリンデははっとした。オレンジがひとつ、彼女の足元に転がってきたのだ。
 おや? 荷物を抱えたままそれを拾い上げ、周囲を目でひと撫でする。近くの店先の籠が倒れ、そこから大量のオレンジがこぼれだしたようだった。ザイオンを含め自分の足元のオレンジを拾う人もいれば無視して忙しく立ち去る人もいるし、中には何食わぬ顔で持ち去ってしまう人までいる。
 荷物を持ったままで、それでも何とかもっと拾おうと腰を屈めたエルゼリンデだったが、横合いのオレンジをさっと攫っていく手があった。慌てて仰ぎ見ると、一人の青年が颯爽と道端のオレンジを拾い集めている。彼は瞬く間に残りのオレンジを回収すると、元の持ち主へと返しに向かった。
 エルゼリンデもザイオンとともに拾ったオレンジを手に持ち主のもとへ行く。そして何気なく、持ち主の男から感謝の言葉を受けている青年を見やり、
「あ」
 驚きを込めた呟きを発して藍色の目を見開いた。青年もこちらに気がついたようで顔を向け、ほとんど同じ表情を返してくる。
 それは、訓練で辛い目に遭っていた頃、包帯や薬を差し入れてくれた騎士だった。
「やあ、ミルファーク、だっけ? 買い物に来てたのか?」
 青年は人好きのする笑顔を浮かべ、二人のもとへ歩み寄る。
「うん。久しぶり」
 そう答えてから、同じ分隊に所属しているのにその挨拶はおかしいのではということに思い当たる。だが実際、会釈を交わすことはあってもこうやって会話をすることは包帯を貰った時以来だ。
 やっぱり買い物に? エルゼリンデが訊き返すと、青年は眉を下げ、僅かに困惑した顔をする。
「ああ、まあそんなとこ。じゃあ、人を待たせてるから」
 彼はそう告げるとザイオンへの挨拶もそこそこに雑踏に紛れていった。
「あいつ、お前と同じ分隊の奴だったよな? 確かウィンケル男爵家の次男か三男だったか」
「あ、そうなんだ」
 名前がゲオルグだと言うことは知っていたが、家名までは知らなかった。
「地味で大人しいし、到底騎士には向いてない感じだけど、いい奴だな」
 ザイオンが彼をそんな風に言ったのは今の出来事を目撃してのことだろう。
「うん」
 以前のささやかな親切を思い返しながら、エルゼリンデも強い口調で肯き返したのだった。




 ゲオルグ・ヴァン・ウィンケルと思いがけぬ再会を果たしたのは、翌日の晩だった。夕食を終え、ザイオンとも別れて宿舎に戻る途中、エルゼリンデは待ち伏せしていたらしいゲオルグに声をかけられたのだ。
「……ミルファーク、ちょっと今いいか?」
「いいけど……どうしたの?」
 エルゼリンデはびっくりしてゲオルグを見返した。まさか彼のほうから積極的に接触を図ってくるとは思わなかったからだ。
「ああ……その、ちょっと話したいことがあるんだ」
 やけに周囲を気にしながら、声を潜めて答える。ついて来てくれないかと言われ、エルゼリンデは首を傾げつつも彼のあとに従った。
 連れて来られたのは、宿舎の立ち並ぶ一角の片隅にある物置らしき小屋だった。窓はないので中に人がいるのかどうかまでは判別できない。ゲオルグは慎重に周りの様子を窺いながらそっと扉を開け、エルゼリンデに中に入るよう促す。
 さすがにおっかなびっくり小屋の中へ足を踏み入れると、かすかな明かりと人の姿があった。薄暗くて顔の造りまではよく見えないが、人数は三人。
「そいつがか、ゲオルグ」
 そのうちの一人が押し殺した声を発する。
「ああ、そうだ。イゼリア家の息子で、俺たちと同じ境遇だ」
 素早く扉を閉めたゲオルグが肯く。
「大丈夫なのか? いくら境遇が同じったって、初対面で計画に加えるのはやっぱりどうかと思うけど」
 今度はやや高い声。
「昨日も話しただろ。同じ分隊のよしみもあるし、こいつなら大丈夫だって」
「あの」
 まったく話が見えず耐えかねたエルゼリンデは、彼らと同じく声を小さくして話に割り込んだ。
「いったい何の話?」
「……まあ、座ってくれ」
 言われるがままにその場に腰を下ろし、ゲオルグの言葉を待つ。彼も傍に座ると、意を決したように口を開いた。
「ミルファークは、この戦争から逃げ出す気はないか?」
「……え?」
 エルゼリンデは唐突な台詞に面食らってしまった。しかしゲオルグの真剣な眼差しを目の当たりにして、すぐに表情を引き締める。
「それは、軍隊を脱走するってこと?」
「そうだ」
 ゲオルグは即答した。同時にエルゼリンデの顔からさっと血の気が引く。
「ど、どうしてそんなことを? ばれたら殺されるのに」
 思わず声を荒げそうになるのを必死で抑えて訊ねる。網膜に、エレンカーク隊長の剣から滴り落ちる鮮血の色が甦ってくる。軍からの脱走は敵前逃亡と見なされ厳罰――死刑に処されるのが通例だ。それなのに、なぜあえて危険な道を選ぶというのか。そしてなぜ、その計画に自分も誘われるのだろうか。
「決まってる。殺されたくないからさ」
 返答したのは最初に声を発した騎士だった。
「……殺される?」
 エルゼリンデは眉を顰めた。死にたくないなら分かるが、殺されたくないとはいったい?
「やっぱり、お前はまだ知らないんだな」
「知らない? 何を?」
 エルゼリンデが問うと、ゲオルグは一拍間をおいて三人のほうを一瞥した。それから再び言葉を続ける。
「ここにいるのは、みんな財務卿の失脚がらみで出征を強要させられた奴らだ」
 そうなのか。彼女もほかの三人の顔をぐるりと見回す。いずれも同年齢くらいの騎士だ。
「僕たちが遠征に加えられた理由は何だと思う?」
 そう訊いてきたのは、やや高い声の騎士である。
「ええと……王家への忠誠を示すためじゃないの?」
「違うんだ」
 ゲオルグがきっぱりと否定する。彼は少しだけ上擦った声でこう言った。
「本当の理由は、貴族減らしのためさ」
「……貴族減らし?」
 それはいったいどういうことなのか。まだ真相が見えないエルゼリンデは、眉を顰めて鸚鵡返しに訊き返す。
「そのまんまの意味だ」
 今まで無言だった三人目の騎士が、彼女に向き直って説明してくれた。
「貴族が増えすぎても、領地やら恩賞やらの問題で金がかかる。そのうえ権力争いが絶えず、領地が混乱して税が満足に納められていないところだってあるしな。今の宰相になってから法を変えて分家や爵位の売買を禁止してるが、それだと新しい貴族が増えるのは抑えられても、今までいる貴族が減るわけじゃない」
 そこで、宰相のローランド公は政敵である財務卿シャルダイク公失脚に便乗して貴族減らしに着手した。それがネフカリア遠征への、一部の貴族を対象とした徴兵命令である。戦場でなら誰がどうやって死のうと問題ではなく、企みも露見しにくい。そこに宰相一派に反感を持っていたり息のかかっていない貴族の当主や跡を継ぐ可能性のある者を送り込み、抹消してしまえば貴族の数を減らすことができるというわけだ。
 このような一見まわりくどい方法を採ったのは、表立って行なえば反発により内乱を誘発する恐れがあったことと、何より国王が露骨な貴族減らしの行動に好い顔をしなかったことが原因らしい。加えて戦争に貴族を多く参加させることは、自分たちは戦わずに優雅な生活を謳歌する貴族に対する民衆の不満を逸らすことにもつながる。
「だから俺らはこうして遠征に徴兵さられたのさ。殺されるために、な」
「実際にもう、殺されたり行方不明になったりしている貴族もいるんだ。ついこの前脱走騒ぎで殺された奴らも、俺らと同じ理由で逃げようとしたに決まってるさ」
 ゲオルグが三人目の騎士の言葉尻に重ねる。
「……そんな」
 エルゼリンデは絶句した。単なる遠征に、そんな意味が隠されていたなんて。
「で、でも、いくらこっそりって言ったって、すぐに勘付かれると思うんだけど」
「その通りさ! だから権力と財力のある貴族はこぞって宰相一派に金品を送ったりして寝返ったんだ。結局、犠牲になるのは僕たちのように何の力も持たない、おまけに財務卿ともまったく関係のない貴族と言うわけ」
 高い声の騎士の声にはやるせなさと憤りがたっぷりと含まれていた。
「宰相一派が狙ってるのはただ減らすだけじゃなく、その貴族の持つ領地や財産もだ。跡継ぎがいなくなれば、その家の娘と宰相一派の奴を結婚させて家ごと乗っ取る。男の子供がいたり娘がいなかった場合も同じことさ。もしミルファークの家に姉妹がいるなら、きっとそうなるだろうな」
 ゲオルグにそう言われて、エルゼリンデは目を瞠っていた。この前知ったバルトバイム伯の孫息子との結婚話も、これに関連してのことなのか。だがバルトバイム伯は財務卿一派の重鎮で、連座して失脚したはず。だとしたら伯爵もまた宰相のほうに寝返ったのだろうか。
 ――頭が痛い。
 無情な事実と自分の置かれた境遇をようやく自覚して、エルゼリンデはまるで自分が石にでもなってしまったかのように、ぴくりとも動けなかった。

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