第40話

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 今、何と言った?
 エルゼリンデはわが耳を疑った。もう一度訊ね直してみると、アスタールは同じ答えを繰り返す。
「お前の身元を俺が預かると言ったんだ。もう兵舎に戻る必要はない」
「……どういうことですか?」
「そのままの意味だ」
 少しばかり苛立ったように顔を顰め、殿下は顔色を変えたエルゼリンデを見下ろした。
「お前には今後俺の従者として行動してもらう。第三騎士団から角が立たないよう除籍できるかが問題だが、そのあたりはマウリッツが上手くやってくれるだろう」
 従者? 除籍? アスタールが何を話しているのか、エルゼリンデには理解できない――いや、理解したくないだけだった。だってそんな、第三騎士団を抜けるだなんて。
「ど、どうしてですか?」
 震える声でアスタールに問う。俄かには信じがたいことだった。そもそもここへ来たのは王弟殿下にゲオルグたちの助命を乞うためであったのに、何故自分が殿下の従者となって第三騎士団から除籍されるという話に飛躍しなければならないのだろうか。
 愕然とする彼女に向かって、若干機嫌の悪い声が返ってくる。
「だから、お前を見ているのは危なっかしいと言ってるだろうが。ならばいっそ、手元に置いていたほうがまだ気が休まる。従者となれば、戦いに参加せずともよいからな」
 アスタールは一度言葉を切って、腕組みしてから不機嫌そうなため息を吐き出した。
「本来ならこの城に留め置くのが最善なのかもしれないが、ここにはあいつがいるから別の意味で心配だ」
 エルゼリンデは呆然と、まるで他人事のように殿下の話を聞いていた。
 自分が、殿下の従者になる。それはつまり、殿下のすぐ傍に仕えるということだ。普通であったら、とても光栄なことに疑いなかった。なんせ国王陛下の弟君にして黒翼騎士団長、ライツェンヴァルト王国内の軍政を一身に担っている重要人物である。家のことを考えるならば、たとえ短期間だとしても途方もない栄誉だ。特にイゼリア子爵家のような爵位だけしかないような家柄だと、箔が加わることで父の地歩も上がり生活も今よりかなり楽になることだろう。
 ――でも。
 第三騎士団を抜けるということは、エレンカーク隊長やザイオンたちとも会えなくなってしまうことにほかならない。もちろんまったく会うことが叶わないというわけではないのだろうが、騎士でなくなる以上、彼らと同じ立場に立てなくなるのも同然だ。そしてそれはエルゼリンデにとって、会えなくなるのと何ら変わらないのである。
 会えなくなる……
 瞼の裏に浮かんだのは、エレンカーク隊長の鋭い眼差しだった。
 隊長は厳しいけれど頼りない部下のことを考えてくれて、戦場でも生き抜けるよう忙しい合間を縫って稽古をつけてくれた。もし自分がこのまま殿下の従者となり戦いを傍観する身になったら、あの鷹に似た目を持つ隊長は何を思うだろうか。
 裏切りたくないと、エルゼリンデは思った。エレンカーク隊長や、レオホルト隊長、ザイオンたちから受けた厚意をふいにしたくない。
 それに、今ここで逃げてしまったら、いったい自分は何のためにここまでやってきたのか、分からなくなってしまいそうだった。
「い、嫌です!」
 気がつけばエルゼリンデはそう答えていた。それも、かなりきっぱりと。
「……何?」
 案の定、アスタールが聞き咎めて片眉を跳ね上げる。不穏な気配を纏い始めた殿下を見て、自分の失言を悟るも時すでに遅し。
 も、もっと穏便な断り方をすればよかった。エルゼリンデは僅かに蒼くなったが、こうなったらちゃんと断るしかないと腹を括る。
「殿下のお申し出はとてもありがたいのですが、お受けすることはできません」
 アスタールの目をまっすぐ見つめ、噛み締めるような口調で告げる。
「私はイゼリア家の嫡男として、王室への忠誠を果たすために此度の遠征に馳せ参じました。騎士としての責務を全うできないとあれば忠誠を果たすことはおろか、家名を汚すことともなります。それは私の本意ではありません」
 何とか貴族らしい口上を述べることができたぞ。エルゼリンデは大いにずれたところで満足する。が、王弟殿下のほうは納得してくれなかった。彼は蒼い目を細めると、おもむろにこう訊ねた。
「では問うが。お前は戦場で人を殺し、また自分が殺される覚悟があるのか?」
 エルゼリンデの口は閉ざされたままだった。すぐには答えられなかった。色を失くした彼女に対し、殿下はさらに鋭い質問を浴びせる。
「覚悟、とまでは行かなくとも人殺しを仕方がないと割り切ることはできるか?」
 それにも答えられない。
 頭では分かっている。戦争に参加する以上、自分も敵と戦って命のやりとりをしなければならないし、自分が生き残るためには、きっと名も知らない誰かを傷つけなければならないことを。
 だけどエルゼリンデにとってそういった一連の未来は、いまだに現実味をともなわない空想でしかない。ごく身近なこととして考えられるだけの経験がないのだ。
「……分かりません、それは」
 だから正直に返答するしかなかった。
「でも戦いに赴くならば、覚悟しなければならないことだというのは分かっています」
「頭で理解するのと実際に体験するのとでは、まったく別物だ」
 即座に断じられ、エルゼリンデはまたも黙り込んでしまう。アスタールは彼女を一瞥して軽く頭を振った。
「とは言えこれは単なる一般論で、何もお前だけに当てはまる話ではない。俺が言いたいのは、お前は戦場に立てる人間じゃないということだけだ」
 どういう意味だろうか。黙ったまま眉だけ顰めるエルゼリンデに、殿下は重ねて告げる。
「お前には戦争は向かないと、そう言っている」
「……! そ、そんなの、やってみなければ分からないじゃないですか!」
 図星を衝かれたエルゼリンデは、気がつけば身分差を失念して反論していた。
「やってみなくとも分かる」
 しかし殿下はにべもない。
「現にこうして、他人事で余計な責任を感じて何とかしようとここまで来るくらいだからな。そんな人間が、例えば戦場で仲間の死を目の前にしたとき、到底平静でいられるはずがない」
「……」
 的を射た指摘に、ただ項垂れるしかない。以前もエレンカーク隊長に同じことを訊かれた。そのとき自分は「ない」と答えるしかなかった。今も、同じ答えしか返せない。
 結局何も変わっていない。王弟の言葉はその無情な事実をもエルゼリンデの前に突きつけていた。
「だから軍から身を引くのは、お前にとっても、周りにとっても最善の道だろう」
 周りにとっても。最後の一言は見えない棘となって、エルゼリンデの胸に鈍い痛みを与える。足手まといになると遠回しに言っていることくらい、エルゼリンデにも理解できた。そして自分でも否定できないことも、また。
 目頭が熱くなってくる。だけどここで、王弟殿下の前で泣くわけにはいかない。エルゼリンデは涙の代わりに声を零した。
「……それでも、私は……お受けすることは、できません」
 先程よりはかなり力なく、それでも彼女は首を振った。胸に去来するのは、やはりゲオルグたちの脱走話を聞いたあとと同じ思い。足手まといかもしれなくても、それでも自分を認めてくれる人たちがいる。だから、逃げ出したくない。
 強面の隊長の顔を思い返したら、少し落ち着いたようだ。エルゼリンデは顔を上げ、握った掌に力をこめた。
「それに、騎士としての務めを果たせないのであるなら、殿下の従者としての務めも果たせるとは思いません」
「お前は何もせずとも良い」
 即座に返ってきたのは聞き捨てならない台詞だった。
 何もせずとも良い? 頭の中で反芻する。何もしない従者なんて、ただのお飾りにすぎない。つまりそれは、自分が何もできない人間だと見なされているということでもあって……
 どうしてだろう。悲しくなるよりも、何だかだんだん腹が立ってきた。
「やっぱり、お断りします」
 憮然とした表情で、三度拒絶を言葉にする。彼女の頑なな態度にさすがの殿下も苛立ちを顕わにし始めた。
「――これが命令だとしても、それでもなお同様の台詞を口にできるか」
 ことさらに命令の部分を強調して、アスタールが低い声を発する。しかし目の前の男に怒りを覚えていたエルゼリンデは、彼の上からものを言う態度にカチンと来てしまった。
「わかりました」
 おもむろに長椅子から腰を上げ、突然の行動に目を瞠る王弟殿下のすぐ前で立ち止まった。そしてその場に座り込み、据わった眼差しを殿下に向ける。

「それでは私を斬ってください」

 彼女の態度の変貌を目の当たりにし、咄嗟に何の対応もできず立ち尽くすアスタールに、エルゼリンデは視線をひときわ険しいものへ変える。
「私は王弟殿下の命を拒否しました。大逆の罪に問われるのは当然のことです。ですからこの場で斬るなり牢獄にぶち込むなり、殿下のお好きになさってください!」
 もうどうにでもなれ、という気持ちをこめて放言する。もはやヤケクソだった。
 王弟殿下の顔色を窺うと、目元のあたりに戸惑いを滲ませていた。それを見て、エルゼリンデは悟った。ああ、この人は何故私が怒っているのか全然分かっていないのだ。
 もどかしいやら苛立たしいやら、エルゼリンデの怒りはますます温度を上げていく。
「でっ、殿下は今しがた私に、何もせずとも良いと仰いました! 確かに私は殿下から見れば何もできない無力な人間でしょうし、自分でもそう思います。で、でもっ、何か少しでもできるようになりたい、強くなりたいと、ここまでやってきたんです! それなのに……」
 歯がゆさに唇を噛む。そこへ、不機嫌そうな顔つきをしたアスタールがようやく口を開いた。
「……強くなりたいとお前は言うが、何故その必要がある?」
 静かだが険のある声だった。
「お前は弱い。そして、弱い者を庇護するのは上に立つ者の義務だ」
 その瞬間、ぷつりと何かの糸が切れる音がした。
 頭には血が上っているのに、胸の奥は急速に冷えていく。エルゼリンデは王弟を睨みつけた。
「……いけませんか?」
 声は震え、視界がぼやけていくのを自覚したが、どうしようもない。
「弱いものが強くなるのは、強くなりたいと思うのは、そんなにいけないことなんですか!?」
 強くなれ。
 いつかの隊長の言葉が鮮明に甦る。どん底にいた彼女を掬い上げてくれた言葉だ。そうして彼の言うとおりになれるよう、エルゼリンデは頑張ってきた。それなのに、殿下はそれを全て踏みにじったのだ――少なくともエルゼリンデにはそう感じた。
「わっ分からず屋の殿下なんか殿下なんか……」
 悔しくて悲しくてしょうがなかった。エルゼリンデは怒りに任せてアスタールを見据え、語気を荒げた。
「殿下なんか……大っ嫌いです!」


 エルゼリンデの不届きな叫びに打たれ、アスタールは怒ることもせず呆然と立ち竦むばかり。一方、言うだけ言って少し溜飲を下げたエルゼリンデは、座り込んだまま改めて背筋を伸ばした。
「今、私は殿下の命を断ったばかりでなく、暴言まで吐いてしまいました。さあ、どうぞ斬るなり牢屋に入れるなり、好きにしてください」
 覚悟は決まった、と言わんばかりに両目を閉じ、殿下の裁断を待つ。ところがいつまで経ってもうんともすんとも聞こえてこないので、不審を懐いたエルゼリンデはちらりと様子を窺った。
 王弟殿下は呆けたまま固まっているようだったが、エルゼリンデの視線を受けると顔を背けた。
「……勝手にしろ」
 完全に投げやりな口調だった。
「そんなに牢屋に入りたければ自分で勝手に入ればいい」
「それなら勝手に牢屋に入ってます」
 売り言葉に買い言葉である。エルゼリンデは勢いよく立ち上がると、出入り口に向かって大股に歩いていく。殿下は何も言わない。重たい扉を開ける直前、彼女はちょっと立ち止まり背後を振り返った。
「お騒がせしましたっ! それとご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでしたっ!」
 一息に捲くし立てて頭を下げると、扉を押し開けて廊下へと飛び出した。
「……強情なところは……」
 扉が閉まる瞬間、嘆息とともに零れた殿下の呟きは、エルゼリンデの耳まで届かなかった。

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