第42話

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 どうして泣いているんだろう。
 濡れた頬に指先を当て、エルゼリンデは首を傾げる。悲しいわけでも、どこかが痛いわけでもないのに。いくら考えても答えは捻り出せず、いっそもどかしいほどであったが、そう感じたものつかの間。
 エルゼリンデははっとした。目の前に立つエレンカーク隊長の存在を思い出したのだ。このままではまた、「めそめそしてんじゃねえ」と叱られてしまう。
 涙よ止まれ、引っ込め。エルゼリンデは顔を上向けたり目元に力を入れたりしきりに瞬きしてみたりと、流れ続ける涙と格闘するものの、なかなか止まってくれない。
 そんな彼女を見ていたエレンカーク隊長が放ったのは、怒声ではなく苦笑混じりの一言だった。
「……やっぱり何かあったな」
 確信の含まれた口調にエルゼリンデは藍色の目を瞠ったが、いきなり泣き出したりしたら、そりゃあ怪しまれるに決まってると得心する。
 服の袖で目元を拭いつつ隊長の顔を見直す。エレンカークは薄闇越しに肩を竦めた。
「イーヴォの奴から聞いたんだが、昼間の事件でどういうわけだかお前の名が聞こえてきたらしくてな」
 脱走未遂事件のことが隊長の口から飛び出してきて、エルゼリンデは心臓を跳ね上がらせる。
「心配したあいつがお前を訪ねたらしいが、どこにも見当たらねえ。捜そうにもあいつは事後処理で手一杯だしな。で、俺が代わりに捜しにきたってわけだ」
 エルゼリンデの内心の動揺に気づいているのかいないのか、エレンカークは淡々と続きを語った。
 話を聞いて、エルゼリンデは恐縮に身を縮めた。つまり、レオホルトとエレンカーク、二人の隊長にまで迷惑をかけてしまったらしい。
「……ご、ご迷惑をおかけしてしまって、すみません」
 涙声ながら深々と頭を下げようとするも、しかしそれは眼前の隊長に制された。
「迷惑だって思うならな、まずその情けねえツラを何とかしろ」
 エルゼリンデは慌てて呼吸を整えた。涙はもう止まりつつある。少しは落ち着いたらしい部下の様子を一瞥してから、エレンカークはふとその視線を彼女の肩越しに向けた。
「姿が見えねえと思ったら、お前、もしかして本城にでも行ってたのか?」
 ずばり言い当てられて、驚きと狼狽に息を詰まらせる。暗がりではあったが、ただならぬ気配はしっかりと伝わっていたのだろう。隊長はまた嘆息した。
 てっきりそれを追及されると思い、身構えたエルゼリンデだったが、エレンカーク隊長が次にとった行動は予想を外していた。
「とにかくついて来い」
 無愛想に言い放つと、エルゼリンデに背を向けて歩き出したのだ。意外な行動に戸惑いながら、エルゼリンデは小さくなっていく隊長の背中を追った。


 そういえば、前にもこんなことがあったな。
 昼間ほどではないにしろ、そこそこの喧騒渦巻く城下の街を歩きながら、エルゼリンデは少し前のことを思い出していた。あの時は確か、城からさほど離れていない酒場に連れて行ってもらったんだっけ。
 しかし今先導するエレンカーク隊長が向かっているのは、城から遠ざかった街の中心部である。果たしてどこに行くのかと首を傾げたとき、不意にエレンカーク隊長が振り返った。
「この先は物騒だからな、あんまりぼけっと歩くなよ」
 攫われても知らねえぞ、と脅し文句までつけられて、エルゼリンデは背筋を伸ばして肯く。
 隊長は市門に繋がる大通りを逸れ、細く入り組んだ路地に入った。そのあとを小柄な部下が必死に追う。人攫いに遭う以前に、気を抜いたらすぐ迷子になってしまいそうだったからである。
 ぐるぐると迷路のような路地を抜けると、一軒の酒場らしき建物が現れた。エレンカークは躊躇うことなく足を踏み入れる。エルゼリンデもおっかなびっくり続いた。
 扉をくぐった途端に、野太い声がかかった。
「おう、隊長さんじゃねえか。しばらくぶりだな」
 声の主はカウンターで酒瓶を磨いている壮年の男だった。店の主人らしき男は、次いでひょっこり現れたエルゼリンデに視線を置く。
「今日はやかましいのじゃなくて、ずいぶんめんこい坊やを連れてるじゃねえかい」
 坊やとの言葉には若干引っ掛かるものを感じたが、エルゼリンデは軽く会釈を返し、隊長の座るカウンターの奥詰まりの席へ向かう。
 街の奥まった一隅にあるにもかかわらず、酒場は賑わいを見せていた。城近くと違う点は、客層が騎士ではなく住民や商人がほとんどなところか。ヴァルト人の立ち寄りそうな店ではないが、店主が話したのはエルゼリンデにも理解できる明快なヴァルト語だった。
「――ここの主人は、第八団の騎士崩れなんだよ」
 もの珍しそうに店内を見回すエルゼリンデに、注文を終えた隊長が話しかける。第八騎士団といったらフロヴィンシアに常駐する王立騎士団のひとつだ。エルゼリンデは藍色の目を瞠って店主の厳つい風貌を眺めた。
「昔の話さね」
 ちょっと訛りを覗かせる口調で店主は呟き、エレンカークの前に琥珀色の蒸留酒を、エルゼリンデの前には薄紅色の果実水を置いた。
「そのせいか、騎士団の中じゃちょっとした穴場みてえなもんでな、珍客も多いって話だ」
 珍客? エルゼリンデは疑問符を飛ばしたが、隊長は微笑を浮かべてグラスを傾け、別のことを口にする。
「分かりづれえ店だから、上官や先輩に連れて来られて初めて知るってのがほとんどだな」
 俺もそうだった。エレンカークはそう呟いて鋭利な眼光を和らげる。いつになく機嫌が良さそうなのは、きっと気心の知れた店だからだろう。エルゼリンデは何となく思い至った。そしてそんな場所に自分を連れてきてくれたことが、何だかとても嬉しかった。
 だがそんな緩やかな時間も長くは続かない。
「で、何があったんだ?」
 何気なく放たれた一言に、彼女は現実へと引き戻される。顔が強ばってしまったからか、「話したくなきゃ話さねえでもいいけどよ」と隊長は付言してくれたが、エルゼリンデは果実水のコップを両手で握り締めたまま逡巡した。
 何でもない、と言ってしまうのは簡単だ。それにこれは自分の問題で、自分で片付けなければならないこと。理性が訴えかける一方で、話してしまいたいという思いも強かった。洗いざらい話して、叱ってほしかった。
 果実水を一口含む。石榴の甘い味がした。そうしてから、エルゼリンデはぽつぽつと、ゲオルグたちのことや今日起きた出来事を話し始めた。
「……お前はまあ、よくもそんなに厄介ごとに巻き込まれるもんだな」
 聞き終えてまずエレンカーク隊長が告げたのは、そんな台詞だった。
「おまけにアスタール殿下ともいつの間にか知り合いだとはな」
 これには純粋に驚いたらしい。普通ならば接点などまるでないのだから当然だ。
 一方のエルゼリンデは拍子抜けしていた。店主に二杯目を注文する隊長をちらりと盗み見るが、怒られる気配は微塵もない。それどころか、
「あの殿下に喧嘩売るとは、お前もいい度胸してんじゃねえか」
 と感心される始末。
「……あ、あの、隊長……?」
 妙に不安になったエルゼリンデが眉を顰めながら声をかけると。
「まずひとつ、言っておく」
 鷹に似た双眸が彼女を射抜く。エルゼリンデは思わず息を呑んだ。
「戦場で――何も戦場だけに限った話じゃねえが――とにかく一番重要なのが、情報だ」
 説教とはかけ離れた発言に、またも眉根を寄せて隊長の顔を凝視する。エレンカークは困惑する部下をよそに淡々と言葉を継いだ。
「特に戦場では真偽関係なく、色んな噂が飛び交うからな。どこまでが真実で、どこまでが単なる噂なのか。それをちゃんと見極めんのが必要なんだよ。じゃねえと情報に翻弄された挙句、身を滅ぼすことになる」
 もしかしたら貴族減らしのことを指しているのかもしれない。ようやくそのことに思い当たり、エルゼリンデは口を開いた。
「じゃあ、あの宰相の陰謀だとか、貴族減らしのことはただの噂だったんですか?」
「さあな」
 エレンカークはそっけなくかぶりを振った。
「だから、それを見分けんのは自分自身でやるしかねえ。他人の言うことを鵜呑みにすんな」
 釘を刺すような口ぶりに、思わず粛然とする。口を閉ざしたエルゼリンデを、隊長は一瞥した。
「ゲオルグとか言ったか。あいつらが馬鹿な真似をしたのは真偽も分からねえ噂に振り回された、心の弱さが原因だ。お前が責任感じて背負い込む問題じゃねえ」
 エレンカークがきっぱりとした声で断言する。エルゼリンデは顔を上げて隊長の顔を見つめた。エレンカークはいつもの厳しい表情のまま、肩を竦める。
「だから、お前はいちいち考えすぎなんだって前も言っただろ」
「で、でも……」
「でももクソもねえ。他人のことを心配してるヒマがあったら、てめえのことを考えろ。自分に余裕がねえくせに他人にばっかかまけてるから、かえって迷惑を撒き散らすことになるんだよ」
「……」
 後半の台詞は、先ほどのフロヴィンシア城での一件に言及しているのだろう。王弟殿下やローゼンヴェルト将軍とのやりとりを思い出し、エルゼリンデはうつむいた。図星過ぎて何も言えない。
 どんよりした空気を背負いつつ黙り込んでいると、急に亜麻色の頭髪をぐしゃぐしゃに掻き回される。びっくりして隣を見上げるエルゼリンデに、隊長はにやりと笑った。
「ま、そんな落ち込むことでもねえよ。そうやって他人に迷惑かけても大目に見てもらえんのは、ケツの青い時分の特権だからな」
 予想外の言葉と笑顔に、エルゼリンデはなぜか固まってしまった。
「いいこと言うねえ、隊長さん」
 代わりに反応したのはカウンターで葉巻を燻らせていた店主である。エレンカークはうるせえ、と彼に悪態をつき、そっぽを向いた。
「受け売りだよ、先輩のな」
「先輩の……?」
 ようやく我に返ったエルゼリンデが鸚鵡返しに呟く。
「昔、俺もお前みてえに馬鹿な真似をやらかしてな。そん時に同じことを言われたんだよ。俺が討伐隊に放り込まれた頃から面倒見てくれた人でな、剣の腕はめっぽう強かったが酒にはめっぽう弱かった」
 グラスを傾けながら、エレンカークが目を細める。隊長の昔話を聞くことができて、自然とエルゼリンデの心が弾んだ。つい、質問が口をついて出てくる。
「その先輩さんは、今も騎士団にいるんですか?」
「死んだよ」
 こともなげに告げられたが、エルゼリンデは息を詰まらせた。
「部下を庇って戦場で。あの人らしい死にかただった」
 懐かしむような物言いに、かえって何と応じればよいのか分からない。黙り込んでしまった部下に、エレンカークは嘆息する。
「てめえがそんな辛気くせえ顔してどうすんだ」
「す、すみません……」
「謝る必要もねえけどな」
 隊長は苦笑を噛み殺した。
「城内に潜入したりアスタール殿下に喧嘩売る度胸はあるくせに、変なところで肝の小せえ奴だな」
「け、喧嘩を売ったつもりはなかったんですけど」
 気がつけばエルゼリンデは反論していた――ただし、小声で、ではあるが。
 確かに一方的に怒ったのは事実だが、王弟殿下と喧嘩しようなんて意図していたわけではない。
 そう告げると、エレンカーク隊長はまた笑った。
「そりゃ、しようと思って喧嘩吹っかける奴なんか滅多にいねえよ。まあ、話を聞くかぎりお前もお前だが、殿下も殿下というか」
 変わらねえな、あのお方も。低く呟いて、エレンカークは残りの酒を飲み干す。
 エルゼリンデは黙然と隊長の横顔を凝視していた。今の台詞から察するに、結構親しい間柄だったんだろうか。そうだとしたら、何か意外だ。
「俺は割と長い間第一にいたからな。それで団長とまったく面識がねえってのもおかしな話だろ」
 エレンカークは彼女の表情から疑問を読み取ったらしく、そっけない口調で答える。それはそうだと納得したエルゼリンデだったが、それでも普段とはどこか様子の違う、苦味を含んだ微笑が心に引っかかった。

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